せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

吸収される″ソレ″は一体何なのか?

 

 

肉体というかたちをいずれ

失うことは感覚的にわかる。

土になるとか、骨が残るとかは

結局「物質」としてだ。

(抜けた髪の毛やその辺に落ちた細胞が

わたしではないのと同じ意味)

なんのための肉体か?と考えれば、

土になろうが骨になろうが

それは失われたといって差し支えない

と思う。

*墓は、残されるものが

死者とつながるための象徴として

かたちをのぞむから存在するわけで、

それだけで十分なのだと思う。

 

 

では、生命が肉体をかたちとして存在

させる機構であるとすれば、

それは脳にあるのか心臓にあるのか?

簡単に言えば脳死を死とするなら脳、

生とするなら心臓だろう。

論争になるくらいだから、立場の取り方や

切り口によって異なるのだろうし

個人の意見もどっちかに少し寄る程度だ。

 

肉体は、世界とせかいの媒介であり

道具である。だから、

肉体が道具として使いこなすことができず

媒介になり得ないと考えられるとき

生死の論争が起こる。(脳死など)

生命をもつ入れ物であるだけなら、

例え媒介になり得ないとしても

何ら問題はないはずだ。けれども、

私たちの感覚としては

「それで生きているといえるのか?」

という疑念が沸いてくる。

 

 

たぶんそれは、私たちが「なぜ生きる

のか?」という問いを解明出来ない

からだろう。自分はこう思う、と

ある立場をとることはできるが

それは解明ではなく解釈だ。

生きることそのものでやっと証明を

積み重ねる可能性が残されているに

すぎない。

*こういう時、「次元の壁」の

後ろ姿がちらっと見えて虚しいなぁと

思う。でも、これが最も底にある

問いだと思うと、妙に安心する

気持ちもある。これ以上底はない

からなのか、存在者の足場だからなのか

さえわからないのだけれど。

 

 

 

で、本題。

肉体と生命(脳or心臓)が連動しているのは

わかった。死ぬということは、連動する

そのセットの運動が終わるということで

あり、かたちを失うということ。

(存在者の運動が起きないということで、

残されるものはそれが悲しかったり

ホッとしたりする。)

 

かたちを失う、そして

存在そのものになる。個として

かたちを超える唯一の方法が

肉体という境界線を

超えることなのだと思う。

だとすれば、存在そのものに

吸収される″ソレ″とは何なのか?

 

 

 科学的でいうものとは似ていて異なる

ひかり?それとも、存在者がわけもつ

愛だけ残るのかな。

 

あとずっと気になっていること。

すべてあるのかな

それとも、不全状態もある?

人が決めたことじゃなくて。

 

 

 

目覚めなければ一番

 

感情がなかった時期や大解体の最中

ならいざしらず、創造期や新たな

かたちの法則を見つけたとき

つまり、ワクワクする時でも思う。

目覚めなければ一番だ。

厭世的な気持ちでもないし、

穏やかでいられている今でも

そう思う。最も根源的な願いなん

だろうなぁ。

 

死にたいは、生きたいではない。

幸せになりたいでもない。

そういうかたちの欲求から最も遠い、

希求だ。存在に迫りたいし、

出来るなら存在そのものになりたい。

それは、かたちを失うことが条件

なんだよなぁ。知りたいけど、

知るときにはなってるんだよなぁ。

妙な感傷や直視する恐怖心から

死にたいの解釈を歪めるのは気にくわない。

生命を出来るだけ長期間保持し、

生の終末を先伸ばしするために

使われるだけじゃないか。

メガネのレンズをカラーレンズに

変えたら見える景色は変わるだろうが、

そんな景色見たかない。

 

死にたいは、死にたいです。

 

 

 

卒業式のトイレ問題といじめ

 

こんばんは、ぴーやまです。

卒業シーズンに便乗して、

漠然と思っていたことをば。

 

学生のとき、基本的に行事は

あまり好きじゃなった。(よね?)

運動会に始まり、学芸会やら

授業参観やら合唱コンクールやら。

一致団結、めざせ優勝、赤組さん

がんばってください…全く入ってこない。

それでも「燃え尽くせ3の4」

「team★○○愛」とか

腕やら顔に書いたなぁ。

 

そんな中、一番そわついたのが

卒業式。何が怖いって、

トイレですよトイレ(゜ロ゜;

ただてさえ寒い時期に入場前の

廊下に並ばされてすでにちょっとキテるし、

とか思ってるうちにバーっと会場に

いれられて来賓のおじさんたちとか

保護者がずらっとならんでいるあの光景…

祝辞とか始まってからの長丁場。

卒業生代表とかあたりには、

だいぶ尿意が意識に上がってきてる。

あのお決まりの封筒から出してガサガサ

するやつなんなん、いいよぱっと出してよ!

とかちょっといらついてくる(笑)

中学だと一人一人呼ばれるあれが

始まる。いやがらせかなってくらい長い。

(権田原?勅使河原?もうみんな阿部にして!)

卒業式で初めて聞く名前とかあって

ビビり、そこから空想を広げて意識的に

気持ちをそらしたりするけど、

その手も長くは続かない。この辺りから

暗示が始まって、「尿意は15分間感覚で

落ち着く説」が神々しいくらいの

力を発揮する。嘘かほんとか

しらないけどさ、もう入信してもいい!

尿意スペクトラム教、入りますっ(ガタッ)

そんな頃には、式も佳境に入り

あとは卒業の歌とか校歌だけ。

だがしかし、尿意もほぼピーク(愕然)

行きたいという方へ気持ちの針が

70%までふれ、いやまてあと30分だ!

ともう一人の自分ががんばれ!と

背中を叩く。(こんなにがんばれ!に

感情移入した行事はなかろう)

必要以上に力を込めて歌うから

許してくれとかこれ終わったら

膀胱に優しいものをとか、

泣き落とし的な感じも入ってきて

もう全然感動どころじゃない。

あ、でも泣けばその分水分が

出るからいいかもしれない!と思い直して

極めて不純な動機でもらい泣きを狙う。

ほとんど違う意味でないているうち、

5組から退場がはじまる。

ヨカタ!4組でヨカタ!(歓喜)

体育館の出入口辺りはクラスを越えて

抱き合って泣いてる女子やら

ウェイウェイいってる男子で

ごった返している。真顔で押し退けて

ダッシュ!空いてたゲット!

 

ありがとぉおおございますっ!(震)

 

 

なにが?持ちこたえた膀胱?

精神力(?)トイレの存在?

わからない、わからないけどとにかく

ありがとうだけが全身を貫いていた

ことは確かです。

排出されたヤツでさえ、恨めしくなく

一緒に戦った仲間に感じる。

「イヤーお前じゃなかったらダメだった

かもな❗」と最大級の賛辞を述べ、

軽やかな足取りで教室へとかけていったー。

 

 

 

人生の山場ここにありって感じですね。

え?行けばいいじゃんっていった?

 それは、保護者席の、つまり大人の

尺度だよ。そらそうだ、生理現象

なんだから仕方ないし、我慢したら

身体に悪いし漏らすよか行った方が

いいに決まってる。

でもな、それを選べないでぎゅっと

拳を握っているんだ子供は。

大人たちが電話かかってきたふりや、

時計を気にするそぶりでもして

パッと会場を出るのとは

トイレに行く重みは全然違うんだ。

具合悪いそぶりをして出ることも

できるけど、「ぜったいトイレだよね~」

という勘繰りは免れない。

自意識に違いないが、この頃の子供たちは

それぞれ自意識でパツンパツンに

膨らんでいるから誰かのちょっとした

ズレに敏感だ。そこをつついて、

ちょっと空気をぬいてごまかしがら

なんとか息をすっていられる。

でもこの私が代表してつつかれる

いけにえになることはゴメンだ!

そんな感じ。

 

子供にとって、学校やクラスは

世界そのものだ。だから、そこでの

いじめやハブは大人の尺度で

図れない壮絶さがある。

大人は、「もう少ししたらどうせ

離ればなれになるんだし。」とか

「社会の厳しさに比べたらかわいいもの」

と思うだろう。

また、逃げればいいともいうだろう。

(そう気安くいう大人は、大抵本当の

意味で逃げたことがない。)

世界は広いこと、逃げられること、

そして自意識をごまかすことを

少しずつ覚えたからそう言えるだけだ。

そしてその尺度の違いを思い至らず

反省しない大人にはなりたくないなぁ。

 

 

 まぁ何がいいたいのかっていうと、

卒業式はインターバル挟もうぜって

話\(^_^)/

 

 

 

 

 

 

理想の終末

 

意識が 朦朧とし始めた。

呼吸が苦しく、肩全体で

やっと息を吸い込む。

口が乾き、舌が下顎に粘りつく。

頭がぐわんぐわん、脈の音が

聞こえる気さえする。

川のせせらぎのようで、

若葉のさざめきのようで、

晩秋の夜に降り続く雨のような音。

脳が酸素を求めてぎゅっとしている。

今になって、やっと身体の話を

ゆっくり聞けているのだから可笑しい。

雑に扱って労りもせず、生まれてこの方

よくもまぁ支えてくれたもんだよなぁ。

ありがとう、お疲れさん。

 

息をするのも億劫で浅くゆっくり

吸ってはく。すぅ  むぅ  すっ

 

 

 

あぁ、死ぬのかぁ

あっけないなぁ

ずぅとといつづけてきて、

今、なんだなぁ

なんかやり残したこと、否

考えなかったことは…いいか、もう。

 

あぁあぁぁああああがががあ

かな※$な▲だい§℃ふ@ほ;

(ぜんぶ、くずれていく)

(ことばが、コトバ?)

 

 

身体でない背筋が固くなり、

口ではない媒介から血がゴボゴボ溢れ、

肺ではない循環器に逆流する

 

 

怖いはずなのに、それを上回るのは

おかしみか。

わらけてしかたない。

大解体や、サイコーや

(ぜんぶぜんぶこっぱみじん!)

 

わはははははは

ぬほほほほほほ

 

とた  ぱ っ

 

 

 

I

 

 

 

…みたいな感じだったらいいな。

創造の真っ只中、あるいは仮想の

頂点を保って思索的冒険をしないまま

迎えるよりもばらっばらに解体されて

創造が追いつかないまま突入したい。

最期の最期まで 一瞬でも見てやろうと

野心を持ち続けていたい。

 

 

 

 

はじまり

 

おはようございます、ぴーやまです。

新年度始まりますね。

命のはじまりも考えてみたくなりました。

 

この頃、子供を産むか否かに

ついて考えることが多い。

結婚してないし、そもそもその予定も

まるでないのになにいってんだ(笑)と

思われることだろう。

でも、なんとなく~で

選択したくないし、選択してはならない

ことだと思うから考えておきたい。

 

 

まず、単純に子供が欲しいか否か

ということを考えてみる。

幼い子を見て可愛いなぁと思うことは

あるけれど、犬とか猫に思う愛玩的な

可愛さの域は出ていないと感じる。

母性が強い人だと中学位から

子供欲しいなぁと口にしていたのを

思うと、なにがなんでも

欲しいタイプではないのだろう。

欠如とまではいかないにしろ、

だいぶ弱めなんじゃないかと思う。

(あるいは、彼女らも愛玩的可愛さの

ままに産んでいるのだろうか?)

 

次に、なぜ子供を産むのか考えてみる。

本能。それもあろう。

愛する人の子供が欲しい。あるかも

しれない。

社会のため。およそ労働力

としてという意味だろう。頷きたくも

なるが、人であることは生産の反面

消費から逃れられないことも

忘れてはならないと思う。

自分のため。育てる楽しさや

一人前の証、老後の支え、暇潰しに

理想の再現、血をわけた存在が

欲しい、愛情を注ぐ対象、かすがい、

家庭に入る口実、何らかの自己実ら現…

親の期待。孫の顔がみたいに答えるのが

親孝行になるのかもしれない。

様々まとめると、生物的・社会的に産んだ

方がいいと思うからというところだろう。

 

では、なぜ産まれたか。

どのようにして、ではなく、

何ゆえに産まれたか。その答えは、

存在のなかにしかないと思う。

存在者である我々の思い込みや願望で

決まるものではないし、そのような

慰めは本来の意味を持たない。

この「なぜ」を、どのようにしての意味に

とらえる時答えを見いだそうとして

八方塞がりになる。

望む望まないとか、どのような動機で

なんてのに確たる答えがあったとしても、

それは媒介としての生産者(親)の

時点の思いにすぎない。

何ゆえにという問いには、存在者である

我々は誰一人答えを持っていないと

いうことを頭の片隅にいれておきたい。

 

 

まあ、なんやかんやいったけど

一番気にかかっているのは

存在に迫るにあたり子供を産むことが

どういった展開をもたらすのか?

ということだ。

子供という新しい存在者のせかいにより

世界の一部が拓かれるのは、親として

喜ばしく存在者としてワクワクすると思う。

けれども、そのために人一人を

何十年とこの世界に留めておくことは

倫理的ではないのでは?と考えてしまう。

わざわざ存在者としてかたちを持たせる

ことは、わたしの価値観からすると

破壊に近い解体のように感じる。死が存在者の最大の解体なら、誕生は存在の最大の

解体だろう。存在の中からポンと

押し出されることを、よかったね!と

心から思うことが私にはできない。

確かに存在者として押し出されなければ

全景をみることは出来なかろう。

その意味で、かたちをもつことは

有意義ある。

だからといって、存在そのものの圧倒的

豊かさから引きずりおろすことを

素直に肯定できるわけではない。

 

けれども、生殖活動によって子孫を残し

生存競争を生き抜いていくという

生物全般の共通項を思うと、

もっと大きな意志がはたらいている気も

してくる…。

 結局わからないということだけ

わかった。あるのは、自分と世界との

約束だけだ。いかに世界を拓くか、

その姿勢へと着地する。

 

 

 

わたしが何かを残したいのは、

個体(あるいは生命体)として逃れられない

有限性を、全体の一部であるという

かたちで克服することで、永遠性を

獲得できると直感的に思うからだ。

(これは四次元には到底できない、

かたちをもつ三次元特有の超克のあり方 

だと思う。四次元を目指すんじゃなく、

異なる方法で永遠性を獲得するのだ!

今ひらめいたけど、この方向は

新鮮でワクワクするナァ。)

 

それはつまり、わたしという個体が

終末を迎えても世界は続いていくだろうと

期待できることを意味する。

この期待とは、世界の存在者らが

もつ「なにかできそうな気が

する」という予感に裏打ちされている。

予感は環境と能力の側面をもつが、

つまるところ世界が未完成であり

せかいが拓ける環境があることと、

その過程に各々携われるということだ。

人生は、過去を認めより豊かな未来を描き

今この時を生ききっていく過程そのものだと

常々思ってきた。でもそれだけでは、

生の終末を生ききる在り方が説明

しきれなかった。わたしのせかいが終わる、

その未来が生々しく実感されるほど

今を生ききることは困難になってしまう

のだから。

けれども、「全体の一部としてのわたし」

という視点を持つことで、その困難は

わたしの破壊ではなく全体の解体として

認めることができると思う。

(生々しく終末を感じられない今においては、

その視点が北極星を見いだすだろう。

つまり、どの段階においても重要な視点だ)

 

子孫を残すことは、続いていく世界の

一つの象徴なのだと思う。

各々のことばでもって、残る存在者の

せかいを揺るがすことや存在者が

せかいを拓ける環境を整えること、

拓いていく能力を見いだすこと…

これらも続いていく世界を描く方法だ。

(もちろん、それを受けとる存在者が

いることも暗黙のうちに含まれている。)

 

私は、後者にとりつかれている。

それは前者の可能性を捨てることを

意味するわけではない。が、少なくとも

生まれてくる一人の人間を巻き込む以上、

全力を注げないことにたいして

折り合いがつけられないうちは

産みたくない。

 

いつまでもつけられないかもしれない。

年を取って産むのが難しくなってから

ほしいと思うかもしれない。

そのリスクを見なかったことにも

誰かや何かのせいにもしない。

両手にもったまま引き裂かれ続ける

覚悟はできている。

※この覚悟は、失敗体験の承認でえた

自信に裏打ちされている。つまり

できなくても何らか得られるものがあり、

また再起可能だと信じているということ。

それは物語力のうち、素材の豊かさではなく

構成力の豊かさに依るところが大きい。

 

 

せっかくだから(?)

生の終末のイメージをまとめておく。

おそらく、意識が朦朧としながらも

次元の壁を超えることが直感的にわかり、

別の感覚が冴えてくるだろう。

肉体の心拍数は下がるが、感覚の心拍数は

急上昇する。バクバクなるテンポが

早まり、早まりきって一つの音になる。

連続が点になり、すべてになる瞬間がくる。

残る世界を照射していた最期の姿勢の

まま突入すると、壁を越えるとき背面から

はいり見上げるかたちになるだろう。

「あぁ、これが存在の」

光。そう思うのと同時にそのものになる。

 

今だって粒子に違いないけど、かたちを

もつとどうしてもリアルに実感できない。

だからこそ、意味であれるのだろう。

 

 

 

拓け。それだけが人生だ

 

整形、それは君が見た光?②

 

 タイトルの元ネタは全国区だった

ろうか…?無駄に気になるけど、

引き続き「整形」について!

 

整形するかいなかの差をコンプレックスで

片付けてしまうのはつまらないので、

もう少し詳細にできぬものかと考えた

ところ4つに分類できる気がしてきた。

※美人は個性のない顔と

きいたことがあるので、美人でない方を

個性的と表現して進めていくよ!

 

 

①自意識が高い×個性的~やや個性的な容姿

これは整形する人のなかで3割くらい

占めるんじゃなかろうか。

自意識は、わたしに注目してほしい、

いや注目されるべきだという思いに近い。

(もっと言えば、認められたいであり、

掘りさげると存在論になるが今回の

主旨ではないので割愛します)

 

この手の人は自意識が満たされる場を

うまく見つけたり、

他に強固な軸を形成していたりすると

整形に傾く比率は少ないように思う。

目的は造形美ではなくあくまで

注目の的である自分、だからだ。

しかし、うまく昇華されないと

短略的に整形へ向かいやすい。

 

②他意識が強い×やや個性的~個性的な容姿

全体の4割くらいを占める気がする。

積極的に注目されたいというよりも、

周りからの見え方や他者からの期待に

影響されやすいタイプだ。

プチ整形が流行れば、気になってたし

やってみようかくらいの感覚で

手を出す。

この手の人は、周りの動向が自らの

行動の指標であるから、さしたる

覚悟がないという点で一番怖い。

失敗例やメンテナンスの必要性等も

知ってはいても、「みんなもやってる

みたいだし、たぶん大丈夫でしょ」と

簡単に境界線を越えてしまう。

失敗したときはもちろんだが、

周りの動向が変わったときに後悔する

場合がある。例えば、結婚を考えていた

人が整形反対派だった、とか。

Yahoo!知恵袋で相談して自業自得だ、

と言われ落ち込むだろうか。

あなたは悪くないですよ、運気が

悪いのですという言葉に吸い寄せられ、

胡散臭い占い師や虚空な目をした

新興宗教会員にこれだ!とばかり

ついていくのだろうか。

 

③美意識が高い×やや個性的~個性的でない容姿

これは二割五分くらいかな?

自意識、でなく美意識。

それは、自分の中に美しさの観念があり

自らの容姿について各々の美意識で

評価するタイプだ。周りから

きれいと言われようが、自分の思う

美しさでなければ意味がない。

 

この手の人は、整形へ全面賛成ではなく

①や②のような整形へは嫌悪感さえ示す

ことがある。センスのない整形は、彼女らの

美意識からすれば認めがたく、

同じ整形だとひとくくりにされたくない

と感じるのではなかろうか。

ある程度のところで打ち止めできれば

満足するのかもしれないが、

美意識のあまりもう少しあとすこしと

繰り返し細かな修正を重ねていく人も

多い。そのうち、あまりに整いすぎて

人間味がなくなるのはこの手の人だ。

自分は満足(あるいはもう少し習性可能)

と思っていても、ごく一般の人から

みればなんともいえない異様感がある。

脱毛サロンのお姉さんの、脱毛しすぎて

生気が感じられないあの感じ。(どの感じW)

 

この手の人は、老化にともない

割合的に増えてくる。

(老化の恐怖体験に人一倍おののくのも

このタイプだろう。)

エステの延長線上的な感覚で

通うのは、近々ステータスになるやも

しれない。

 

 

④戦略的な野心家

これは、残りの五分くらい。

ざっくりまとめたけど、要は美しさという

評価軸を効果的に利用しようと考えて

いるタイプだ。

①~③までは頑張っても小悪魔にしか

なれないが、このタイプは例外なく

悪魔的である。

あまり見るタイプではないが、

ある目的のためなら整形も厭わないという

考え方をしている。

いわば、外交カードとして有利なら

整形でもなんでもしようという感じ。

 

この手の人は、恐ろしく賢い。

(少なくとも賢さを隠すくらいには賢い。)

そして、くだらないプライドは持たず

いざという瞬間以外はひっそり潜伏

している感じ。

容姿にかかわらず、このタイプの人にとって

その辺の男をおとすことくらいわけない

ことだし、実際モテてきたかもしれない。

しかし、そのゲームには飽きてしまって

もっと魅惑的な目的へ熱意を抱いている。

 

 

まあ、大雑把な分類でしかないが

こんなところか。

そう考えてみると、単純にいい悪いの

問題ではなくて、目的と手段が

合致するかが満足感の鍵だと思う。

整形は自由意思だ。禁じられてもいない。

ただ、倫理的な問題としてルールは

守った方がいい。例えば、結婚を

する前に整形について告白するとか。

「言って取り止めになるなら愛ではない」

とかそういう話ではない。

(そうやって取り乱して被害者面する人は、

自分の打算を棚にあげてないか?)

結婚相手の意志を一人の人間として

尊重するから、言うのだ。

「こんなわたしでも受け入れて!」

という己の際限ない願望のためではない。

また、後々ばれて揉める要素をつぶすため

でもある。

 

ちなみに、③のタイプと結婚する男は

素朴に女の生態を読めない

(金はあるかもしれないが)ヒエラルキー的

に格下のタイプか知った上で自らの

所有欲を満たすために結婚するタイプ

なので言わなくてももめる心配はない。

④にいたっては、もう好きにしてください

という感じですね…!

 

 

 

なんだかんだ言ったけど、

やっぱり人間嫌いじゃあないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整形、それは君が見た光?

 

おはようございます、ぴーやまです。

今日は「整形」について!

(女性の整形に絞ります)

 

 整形は、論点が多いので

まずわたしの思いをば。

わたし自身は、整形したことがない。

歯も直したことはないので、

完全無整形といっていいと思う。

だからといって別段美人ではない。

肌は荒れてるし唇も

荒れている(荒れすぎやろ)

造形でいけば、鼻は低めで顔はでか目だ。

じゃあ整形したいか?と聞かれたら、

今のところしたいと思っていない。

ポリシーとかではなく、そこまで気に

することができないため。気にしていない、

といえば聞こえはいいが無頓着に

なったという方が近い。十代後半の時は、

それなりに気にしてノーズシャドーを

駆使したり小顔に見える髪型を模索したり

していた。あまり頓着しなくなった 要因は

様々考えられるが、まとめると

価値観の変化と自らの納得によると思う。

わたしの遍歴はここまでにして全体に

せまっていこう。

まずは縦軸にそって下地を考察するよ!

 

学生時代(とりわけ中学)は、

可愛さというのが

かなり重要な指標になっていた。

勉強ができるとかスポーツが得意

であっても、可愛さ指標からは

抜けられないのが女子社会。

「⚫⚫だけど可愛くない」というのが、

それだけで十分な評価として成り立つのは

そういう理由だ。まぁ、周りにどう評価

されようが気にしなければいいという

意見もあろう。(大人だ、アダルト!)

でも、表だって評価されるわけではなく

同世代女子共通の価値観として

空気に折り込まれているのだ。

同世代の子達と交流しようと思えば、

その空気を吸わねばならない。

ましてまだ価値観も固まりきっていない

から、揺らぐのは当然だろう。

個人の責任にするには重すぎる。

 

次に高校だが、この段階で「偏差値」

によってすみわけされる。

比較的偏差値が高い人たちは、大学や

その先を視野にいれるため「偏差値(学歴)」という価値軸を意識して学生生活を

送ることになる。

一方、あまり偏差値が高くない人たちは

相変わらず「可愛さ」が価値軸として

影響力をもつ。誰と誰が付き合ってる、

どんな人とどんなデートをしたかが

現在の話題であるし、近い将来に

結婚を見据えている人が多いためだ。

進学や就職よりも、楽しい恋愛の末

旦那さんに大切にされながら子どもを

育てたいという母性的な人でもある。

(単に勉強したくない、働きたくない

という人もその傘の中に隠れているが

今回は触れないでおく)

 

次に、就職。顔採用ということばが

あるように、建前上は能力といっても

同程度なら顔のいいほうをとるし

能力をしのぐ迫力(!)があれば

採用にかかわってしまう事実は

嫌がおうにも感じる。

旧い会社だと男性社員の嫁さん候補

としての考慮、若さ+可愛さをもつ

新人が入ることで生まれる活気への期待が

大きいのではないかと思う。

(そして、そういう期待をされているという

ことに気づいているかいなか、また

気づいているならどのようにとらえて

いるかという部分にこそ注目している

のではないかと思う。いや、願う。)

まぁ、最近はどこも人手不足だし

次第に減っていくことをみこして

がっつり採用する(ブラック)企業も

普通にあるから確実に壁にぶち当たる

とまではいえないが。

実際働き始めると、「仕事」が軸に

加わる。これは偏差値(学歴)にかわる

指標でもあるが、高学歴でも腰掛けと

思って出会いにせいを出すタイプと

男性とならんで競争し成果を出そうと

女を捨てるタイプがいる。なぞというのは

ちょっとお粗末な分類で、実際はもっと

グラデーションに富んでいる。

とはいえ、仕事に熱意を燃やせるタイプと

そうでないタイプがいるのは間違いない

だろう。

 

そして、結婚。婚活ブーム以前から

大多数の女性における最大の関心事

だろう。かつてのような家同士のつながり

=結婚という概念がほとんど薄れている今、

出会いの場において可愛さ問題に直面

せざるをえない。選ぶのは男である

ということを改めて実感させられるのだ。

仕事ができても料理が得意でも、

あくまで相手側の見た目基準を

満たさない限り土俵にはあがれない。

人間中身だとかどうせ衰えれるのにとか

ガヤガヤいったところで、この基準は

(無意識に)譲れないのが男の性。

好みはそれぞれあろうが、要は

そそらなければどう頑張ってもダメなのだ。

 

 

ここまでは各ライフステージで直面する

であろう可愛さ問題だが、すべての人が

直面する訳ではない。

そこそこかわいい子が若いうちにぱっと

結婚してしまうパターンとか。

でも、忘れてはならない誰もが

直面する問題が「老化」だ。(ぎゃああ)

去年と同じメイクでもなんかくすんでいる、

化粧水がなかなか吸い込んでくれない、

地下鉄の窓に映るブスッとしたおばさん…

と思ったら自分だった等数えきれない

恐怖体験が生涯続くかと思うとちょっと

泣きたくなる。

可愛さ云々ではないにしろ、

やはり整形について語るには外せない。

 

 

ここまでは、女性が整形にいたる

ポイントを縦軸にそってざっくり

見てきたが実際にする人としない人、

して満足する人としない人がいる。

ということで、次回は個人を

詳細に考えてみます!