せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

ことばの場を探す

 

言葉未然のことばを

どのように耕し育て、言葉として

収穫するか。それを考えている。

 

私において、どこでならより豊かに

ことばを見いだすことができるのか。

これは自分探しの親戚みたいなもの

かもしれない。幸福でいたいなら

腹六分目で納得させて、現実に没頭する

方が賢明だ。

わかっていても、やめられるもの

でもないのだけれど。

 

言葉にこだわっているのは、

単に道具としてだろうか。それとも

ことばの場所が言語的な意味での

言葉にまつわるからなのか。

夢中や好きをヒントに考えると、

手を動かして作ったり直したり

することはどうだろう。

没頭して時間を忘れるのは容易い。

ただそれは作業としての性格という

だけのことかもしれない。

今の仕事はどうか。震える言葉や

法則への気付きは働きはじめてから

得たものだ。けれど、仕事というより

読んだ本や観察した人から掘りさげた

結果という気もする。

物語性にある可能性を感じてはいる。

けれど、直接的な物語(小説や語り部)

というより、事象同士の見えない繋がりに

対する期待や納得感へのこだわり故

という向きがある。

怒りのもとになるのは、

生活への無自覚な埋没や装飾的な言葉。

そしてなにより、かたちで越えられることに

悲嘆して、死んだように生きたり

絶望(!)のまま死ぬことだ。

死を逃げ場にするなんて冒涜だ。

それにたいして、仕方なかったとか

誰が悪いとかはたまた教育やら

環境やらと御託を列べて安易に理解した

つもりになることが堪らなく憎い。

怒りはエネルギーでありベクトルである

ことを考えると、それらを克服する

ことへの寄与が発展土壌として

考えられるかもしれない。

 

愛を翻訳する。

それを忘れたわけではない。

誰に対してどのような方法で、

というところがうまく繋がっていない。

ただいえるのは、誰かのためにとか生産性

という理由では納得しないということ。

関心の7割は自分に向かっている

自己中のナルシな性質を軽視しない

方がいい。

 

慰めて生きていきたくない。

どうせかたちならば、徹底的に

かたちの本質に迫りたい。

埋没するのでも逃避するのでもなく、

あらゆる角度から幾多の手段を用い

かたちの共通項を引きずり出す。

 

 

 

 

 

″自分の感受性くらい、自分で守れ。

ばかものよ。″

 

ほんとうのことばは色褪せないものだなぁ。

頬ではなく心をビシャッと叩く。

決して乱暴ではない。優しくて

強くて凛とカッコいい。

こんな言葉を見いだすことができるほど、

豊かな土壌を耕したい。

 

そして、願わくば言葉そのものを生きたい。 

 

″めいめいが各自の独自な、

そして誠実な生活を求めることが

人生の目的でなくて、他の何物が

人生の目的だろうか。私はただ、

私自身として生きたいだけだ″

 

 

″いかりのにがさまた青さ

四月の気層のひかりの底を

唾しはぎしりゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

(風景はなみだにゆすれ)″

 

 

 

 

 

 

 

 

かたちの本質とは

 

 

生きることに納得できていない、

ということをわずかに認められるように

なった。納得させようと自分を型に

はめこまなくていい。納得できないことを

認めよう、向き合うためにも。

 

美味しいものを食べることができる、

安心して眠ることができる、

ほどよく働くことができる、

感じ考え想像することができる、

認められることの豊かさを

慈しむことができる。

 

だからといって、生きることに納得

できるわけじゃない。内からほかほかした

気持ちになることもあれば、

うまくいかないことや不安で押し

潰されそうな夜もある。そうやって、

慰めたり緩めたりして過ごす日々。

けれどそういうサイクルを生きる

と呼ぶことにうんざりしている。

それは生活だろう。

 

 

無関心と過関心が、生活問題の

温床だろうことはわかる。

でもそもそも、生活に興味がない

ことの何が問題なのだろう。

続けていくだけの生活に

興味がないことの何がダメなのか。

かたちであるかぎり、永遠はないのに

続いてきたからという理由だけで

続けていくことは良いことなのか。

生活における選択の自由さを思えば、

もはや嗜好品のように感じる。

特に最近は情報や流通が

すべからく高速化していて、

あっというまに消費されていく。

モウイイヨ、いっぱいだよ。

 

 

 

最近よく思うのが、死そのものと

死に至る過程を分別しようと

いうこと。死ぬことは時に痛みや恐怖を

伴うから、暗いイメージがあるのは

わかる。けれども、それは死に至る

過程の話であって、=死ではない。

死を越えるかたちの解体はないのだから、

死を望むことはかたちからの解放を

意志することであり、永遠への情景だ。

だから、生ききりたいと

思えばこそ、死に接近するのだと思う。

 

死を美化している自覚はあるけれど、

やはり可能性にかけたい。

死んだからってかたちから解放されない

かもしれない、また別のかたちとして

死活?するのかもしれない。

でも、可能性はある。

全員が報われる物語だから、捨てられない。

どんな人も、人でなくても、本当に

求めたかったことがすべてある。

かたち以外すべてある。

 

だから、かたちの本質を知りたい。

かたちとはなにかわかれば、かたちでない

こと、つまり向こう岸の片鱗が見えるのでは

ないかと思うから。 

 

輪郭、光、透明、体積、6次元、分裂と統合

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

線を引くこと

 

 

何かできそうな予感

 

今、持てないでいる。

ずっとぐるぐる考えたり、眺めたり

振り返ったりして毎日を

無為に過ごしている。

未だに大人になりきれない自分を

どう扱っていいのかわからない。

 

 

わたしというかたちがかたちでありきる、

つまり生ききるにはどうあればいいの

だろう。罪悪感や焦燥感から選んだ時、

いつもここじゃない感があった。

虚しい傍観者だった。

そういう生き方はもういやだ。

当事者として生きることと向き合いたい。

認めてもらうためじゃなくて、

私が生きることを認めたい。

納得したい。

 

 

ことばが発展する場所を求めている。

生活と生きるがリンクする場所。

何かひとつ強くなりたい。

武器じゃなくて、価値じゃなくて、

つながるために。線を引きたい。

 

 

死によってかたちから解放され、

存在そのものになれる。

決してなげやりなものではなく、

明るく朗らかなイメージなのだ。

すべてがある豊穣の場所。

しかし、死は恐れられ時に敗北であり

残酷な終末のように語られる。

死に至る病は治さなければならないし、

闘わなくてはならないし、

つまり生きなくてはならない。

その感覚が私にはわからなくて、

前提として語られること(生活そのもの)

に共感できなくて、サイコパスなんじゃ

ないかと考えたときもあった。

でも、誰かを傷つけたり殺してみたいと

思ったりはしないので、恐らく違う。

はらやこころじゃわからないのを

認めて、頭でわかればよしとしよう。

 

死を肯定していて、向こう側への想いは

人一倍強いと思う。それは、かたちのない

世界への情景であって、純粋に突き

詰めればそのものになりたいのだけど、

今はかたちとしてわずかでもいいから

知りたいのだ。だから、線を引ける

ところへいきたい。生活する上で

お金は大事だし、有名になったり

必要とされたりするのも嬉しいと思う。

でも、一番大切なのは燃焼しきること。

ただひとつのことに夢中になって、

瞬間のなかに永遠を感じたい。

あの光をみたい。

かたちのままに、かたちを超えたい。

わかっている。それは祈りだ。

穏やかなものではなく、引き裂かれ

ながら握りしめるような、切実な祈り。

 

 

消費されていかないもの、

血肉になるもの、

底の底から響いてくるもの、

認める時に助けになるもの

 

受けとる、渡す、気づく。

どこでならできる、誰となら。

 

 

 

今日も脈略なく。

 

 

無条件の愛

 

矛盾している。

無条件な愛と条件付きの愛が

あるのではない。

愛は無条件が条件なのだ。

そしてかたちをわけもつ私たちには、

かたちという条件のない愛を

かたちなく認めることなどできない。

 

言葉はかたちだ。暖かいスープも

重ねる手のひらも満天の星空も

もちろんかたちだ。

 

 

かたちは有限で移り変わる。

儚いといえば儚い。けれどもそれが

かたちの条件なのだから、仕方がない。

そう、仕方がない。

この世は仕方がないことだらけだ。

 

 

かたちの共通項や法則性、

あるいは別のかたちへの転換方法を

どれだけ見つけ、また精査できるか。

最初は純心に追い求めたのかもしれない。

いつしか考えもせずかたちだけ引き継ぎ

(あるいは都合のいい解釈をし)

躍起になった結果、

ピラミッドから降りられなくなり、

命の選択に頭を抱え、信仰のために争う。

(伝言ゲームは悪意もなく間違う)

かたちからの解放どころか

ますますかたちに埋没している。

 

 

 

転換期だからというならば、

想像してみてほしい。

誰もが食うに困らず、衰えもせず、

皆豊かに暮らすような限りなく

不変な世界を。

そんな世界でまともにかたちで

あり続けること、かたちの意味を

問うことなど出来るだろうか?

なぜ生きていることを喜び感謝し

悲しむことができようか。

 

困難があるから生きることも輝くと

言いたいのではない。

どのような理想郷を実現しても、

かたちであることからは逃れられない。

(それはかたちにとっての理想郷だ!)

本当に唯一求めていることは、

ここにはない。

それがはっきりと分かったのなら、

なぜまともに生活していられるだろう。

 

 

核兵器は人類の過ちのシンボルだ。

だからこそ、理想郷を完成させた暁に、

そのスイッチが押されるのではないか

と思う。かたちを失うために、

嬉々として。最大の解体のために。

なるほど閃光は確かに最期の光に

似ていないこともない。

その時人類は何を思うだろう。

かたちであったことを、

そしてかたちでないことを

認められるだろうか。

(過ちであるところのワケを?)

 

なに、そんなことをしなくったって

私自身の死で足りる。各々の死で足りる。

だから結局、向き合う事態は

同じなのだ。

 

 

何のために、が不毛な問いなら

何を問おう。

生産性=価値、という社会のあり方に

がんじがらめになっているこのかたちを

解放させてやることからはじめよう。

そのためには、まず生産性と価値とを

それぞれ問い直す。ハンマーで

かちわってから

「はて、どうしたものか?」

と考えるのはお得意様だ。

 

 

 

私には愛がわかりません。

絶対にわからないのに

わかりたい訳がわかりません。

わからずにいられない訳が、

わかりません。

なのに、わけもっているのだから

ますますわかりません。

わけもっているのなら、どこかに

あるのでは?と思いたい。

そして信じたい。なのに、

それはかたちへの沈殿に

繋がってしまう。

愛から遠ざかってしまう。

いや、もとより近くないのなら

遠ざかることもないのだろうか。

すみません、やっぱりわかりません。

なのに何故でしょう。

わからないことをかたちの上であっても

認めることは、少し気持ちがいい。

安らぐような懐かしいような

柔らかいような感覚。

 

 

明日が来る。

来たら認める。

太陽はきっとサボらないし、

地球もやっぱりサボらない。

頑張ってサボらないのでなく、

かたちの性質として繰り返す。

だから私も、私のかたちの性質として

がんばらなくてもサボらないことを

しようと思う。

私がサボらないのは、

食べる寝る考える。そんだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きている理由

 

 

思わず笑みがこぼれる瞬間が

キラキラ散らばっていたら。

それだけで生きてるのも悪くないな

って思っていいんだよね。

十分生きる理由なんだよね、きっと。

 

例えば休みの日の二度寝。

グシャグシャの頭のまま食べる

熱々のトマトスープとこんがりトースト。

目的地もなく電車に乗り

気になっていた本を読む。うたた寝。

凛とした冬の空気に包まれるホームに

立って深呼吸する。その地に住む人を

眺めながら散策して、名物を食べる。

博物館や文学館によって、

しんとした中で歴史やそこに生きた人を

思う。どんな生活をして何を楽しみにして

いただろう。なんでもないいなか道を

歩く。よろめきながら自転車をこぐ

おじいさん、黄色い帽子の女の子たちが

夢中で話ながらすれ違う。

夕暮れの車窓から、シートにこぼれる

とろりとした橙色の光。

染められた田んぼが地続きに広がっている。

 

(全部溶けてゆけ!)

瞬間的に全身を駆けるコイツの正体は

祈りなのかな、と思う。

同時にわかる。私は所謂幸せを

生きる拠り所にできないことを。

橙色の光を背に受けて

頭を寄せあうように微睡む親子は、

めったに疑わないものだ。

幸せであるか否かを疑っても

幸せに向かうベクトル自体は

疑わない。終点は幸せだと

信じるでもなく信じている。

 

 

だとすれば私の終点はない。

不安な夜は固定化してしまいたい

欲求にかられる。

うまく息をすえなくなって

かたちから突き抜けようとする

衝動を抑え込む如くに抱き締める。

おちつけおちつけおちつけおちつけ…

 

 

いつの間にか立っている荒涼とした

淋しい浜辺。鈍く光る曇天。

地平線は曖昧で、グラデーションがかった

一枚の絵に似ている。

瞬きの合間に今日から

明日だった今日へバトンが渡り、

地続きの今をにらんでいる。

 

自分の熱で焼け死ぬときが

私の寿命。

意味である意味を知りたい。

それ以外はあまり重要じゃない。

意味になるんでも、意味を見いだす

んでもない。

意味であることを受け取り、

意味である意味をいつも考え、

想い、感じる。

解明が目的じゃない。

解釈を重ねて、納得したいだけ。

生きることを認めたいだけ。

だけ、があまりに難しいから

まだ生きている。生きていられる。

 

 

 

 

 

 

 

吐きながら抱きしめる

 

 

状況が動かないまま、にらみあってることに

耐えられなくなって動いてみた話。

 

*************

 

Googleの検索履歴に

⚫死ぬ 手段

⚫生命保険 免責 

⚫身辺整理

とか彼岸へ引っ張られてる

フレーズが並ぶようになってきた。

 

2ちゃんには準備物から注意点まで

細かく載ってたりして

ありがたいんだかなんなんだか(笑

もちろん抜かりなくスクショ。←

解体初期は念入りな方法を画策してた

くせに、最近じゃ

「部屋であるもんでいけないかな?」

みたいな手抜き加減。

境界線を越えることとか

存在だなんだといってきたのに、

そのときは見事にポンと抜けていた。

思考はマイナスのまま行動スイッチが

入ると怖い。理性も感情もなく、

「考えたって仕方ないや、

とりあえずやってまおう!」という

衝動だけで動いてしまう。

 

最初に試したのは水だった。

飲みすぎると水中毒になるという

情報を知り、気軽に試してみる。

二リットルすぎた辺りから

ちびちびとしか飲めなくなり、

ちょっと気持ち悪くなった程度で

ダメだった。

 

次が首つり、というより締め?

ぶら下がるにちょうどいいところが

なく手でぎゅっと締めるも

心臓ばくばくするだけだった。

 

その直後にゴルフのパターで

頭を殴る。(あきらめのんかい!)

自分で全力スイングは無理すぎた。

 

 

そして、お酒。

もともとあまり強くないほうで、

どれくらい飲めるかわからなかった。

で、とりあえずビール!

…ん?うわうわ!きぼちわるっ。

髪の毛引っ付かんでのたうち回り

水をのんではのたうち回った。

三時間くらいしてやっと吐き、

ホッとしていつのまにか寝ていた。

 

 

のたうち回る三時間の間、

あちらの世界と交渉(を勝手に)した。

死なないと約束しないと苦痛から

解放されないのでは、と思いながらも

確約できないことを言い切るのは

できないという謎の正義感があった。

(やっぱ生きてたいだろ?的なほくそ笑みに

反抗心を抱いたのもある。笑)

なので、生きるベクトルとそちらへ

向かう一歩目について考えてみること

にした。今まではハナから

「存在には所詮叶わない」と決めつけて、

シャットダウンしていたこと。

穏やかに生きることを認める方法、

いや時に穏やかじゃなくたって

認める方法を。

 

 

かたちであること。

それを認められない私がある。

かたちの先にしか、存在はない。

そうやって、かたちと存在の

間に線を引いてみる。

別物と考えるのではなく、

ただの影だとなげやりになるんでもなく

つながりある関係だと。

そしてその線を引くのは

他でもない自分なのだと。

誰もが線を引く当事者で、

例え無意識であっても引こうと努めている。

信仰、芸術、共感といった営みは

愛の紛い物や影ではなく、愛へ引こうと

する線なのだと考えてみる。

だから安心してかたちであれるのだと

解釈してみる。安心できないのは、

その線が引けないと感じるときなのかも

しれない。

そして存在に迫まろうとするとき、

一度かたちを離れて新たな視点で

眺めることを望む。それは、

かたちから離れるというよりも

俯瞰してみる、というのに近い。

かたちの輪郭をとりはらう。

そしてそこから新たなかたちを

模索し、創造する。

それは存在に迫るアプローチだけれど、

一時的には既存のかたちを壊す

わけだから、かたちである我々は

影響を受けずにいられない。

かたちは意味であり、意味はエネルギーで

もある。だから、強く意味を求める事象で

かたちが壊れる。

それは、次のかたちのためである。

意味を求める故の解体なのに、

かたちでなくなったら意味は不要になる。

そこが最大の読み間違えポイントなんだ!

(と、読み間違えている当事者は

つかんだことばにちょっとニヤつく)

 

前向きに死をとらえることは、

存在を肯定していなければ難しい。

そして、存在を肯定するということは

かたちを肯定するということだ。

その間の線を引こうとする試みが

営みであって、派生するかたちが

生きるということならば。

あの問いに、答えられる糸口が

少しだけ見えた気がした。

 

 

吐きながら抱きしめる。

なんという地獄絵図(笑)

もう少しあがこう

 

 

 

 

 

 

考えるスパイラル

 

考えることをやめたくて、

もがいて苦しんで

藁をもすがる思いで

手を伸ばしたのは

考えることだった。

考えることが追い詰め、

考えることで救ってきた。

すべての波は、考えること

すなわち意味を求めるゆえに

引き起こされる。

だから、考えることが怖い。

けれど、考えられなくなることは

もっと怖い。

 

あるね!と認めるために

考えること、すなわち

意味を求めるエネルギーは

それほど必要じゃないように思う。

まだからまっているから

遠回りしているのだろうか。

自分だけでなく、全存在者の

あるね!を認めようとするから

燃料詰まりするのだろうか。

 

なにも考えずにいられるのは

寝ているときだけだった。

なのに今は夢の中でさえ

考えている。思うように考えられない、

考えが散り散りになりまとまらない、

ということを悶々と考えている。

全然休まらない。

意味を求めるエネルギーを

全力で燃やすのは、

かたちを出しきることだと思う。

それは、生きることを考えるということ

なのに頭のなかは彼岸が占める。

「死んだらかたちを失うから、

意味を求めなくなるぞ。

そのものになったら、片鱗を

掴めないぞ」

それだけが、首の皮一枚残して

生きる方へとどまらせている。

周りの人に悪いとか迷惑かけるとか

そういうことも多少は思うけど、

抑止力にはならない。

ギリギリのところで耐えさせるのは、

結局知りたいという執念だ。

 

 

繰り返すたび、擦りきれていくのが

わかる。脳ミソだって消耗品だ。

完全に考えられなくなったら、

どうなるのだろう。

楽になるだろうか?わからない。

意味を求めるエネルギーがなくなり、

かたちとしての意味だけになったなら

かたちを出しきっている

といえるのか。むしろその方が、純粋に

かたちなのか。出しきるとは、

どういう状態なのだろう?

 

 

脳ミソぶん投げたい