せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

他人の言葉で戦うな!

 

 

自分の言葉がないからと

安易に他人の言葉に便乗しては

ならない。ましてや、他人の言葉で

戦うなど言語道断!

そんなことして、論破して気持ちよくなって

あるいは共感されてホッとして、

一体それは何なのだ?

意味もわからず言葉を繰り返すインコと

同じではないか。

 

自分の言葉で語れるように

一つずつ違和感や感情と向き合いながら、

丁寧に取り出していく地道な作業。

孤独でゴールも見えず、

資本主義的な観点からみれば

まったく無意味とも思える作業だが、

そこをおろそかにして

かたちだけ真似したって

いずれ形骸化するだけだ。

 

ダサくていいから、自分の言葉を

見つけたい。この場所から見えるせかいを

語りたい。

特定の意味なんてないが、かたちである限り

意味からは逃れられない。

であるならば、私が意味を与えようと

そう思う。生きることを選び直すという

ことであり、誰かや何かのせいにできない

生き方を選ぶということだ。

一人荒野に立つような、

寂しくて暖かい気持ち。これでいい。

 

無論、自分の言葉を見つけるには

たくさんの他人の世界に触れなければ

ならない。

たくさんの本当の言葉に耳を傾けなくては

ならない。

その世界や言葉たちと対峙し、

沸いてきた違和感や感情と向き合う。

 

ただし、ひとつ注意していることがある。

圧倒される言葉を持つ人物(本も含む)と

出会ったときだ。なんとなく方向性は

似ていて、共感を覚え、まだ言葉に

出来ていないところまで鮮やかに

軽やかに語っている!そう感じたとき、

そこへ飛びつきたくなってしまう。

でもそれは、あくまで他人の言葉だ。

それだけ力を持つ言葉なら、おそらく

ギリギリのところで血のにじむような

崩壊を越えて、つかみとってきたのだろう。

だからこそ、安易に便乗するな。

それは言葉に対する冒涜だ。

言葉は、他者とのコミュニケーション

ツールでもあるが、自分自身との

コミュニケーションツールでもある。

他者が自分自身とのコミュニケーションで

得てきた言葉が、私の言葉と

そっくりそのまま同じわけがなかろうよ。

 

だから、圧倒されそうだと思ったときは

本なら半分でやめておく。人なら少し

距離をとる。

もっと自分の言葉を磨いてから、

再度会いに(読みに)行く。

圧倒されるということは、まだ私には

出会うのが早すぎるということだから。

 

 

言葉未然のことばの海に

身を任せ、ぷかぷか浮かんでみる。

あれとそれが繋がって、言葉が

立ちあらわられることがある。

その瞬間の、発見した時の興奮たるや!

小さい頃、誰よりきれいに磨きあげた

泥団子が時間を経て艶々に輝いているのを

見つけたような気持ち。

私はそれが好きだ。誰かにも

あげたいのだろうな。泥団子じゃなくて、

見つけたときのその気持ちを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つの青い照明、その点滅の奇跡

 

 

全くなにも上手くいっていませんが

落ち着いているというか、

自尊心・損なわれず

好奇心・だだあがり。(笑)

 

かたちへのこだわりがなくなった、

ということは良いことなんだろうか。

どんなかたちでも認めると

決めてしまったら、なんでも来い状態。

むしろ認めがたいことに挑戦したいという

欲求さえある。

 

 

存在していることに特定の意味はない。

というより、かたちが意味であるだけだ。

かたちである限り意味から逃れられないが、

評価から逃れることはできる。

評価は、ある特定のかたちにとって

利益になるという意味合いで、一般に価値と

呼ばれる。けれども本来、価値は

「ふさわしい」という表現の方が正しい。

存在価値となれば、かたちある存在者として

己のかたちを出しきる状態、という訳が

しっくりくる。ふさわしさはかたちによって

異なるから、様式も無論異なるだろう。

 

すべてのかたちある存在者は境界線を持つ。

推測だが、おそらく存在そのものは

かたちがない。つまり、境界線を持たない。

存在の豊かさを認識する為に存在者が

かたちをもつのであれば、他のかたちとの

境界線を明確にしたりあるいはすべて

飲み込んで一つにまとめたり(世界宗教的なイメージ?)する方向性は、違和感を覚える。

各々のかたちを出しきるのであれば、

他のと境界線ではなく、己の輪郭を打ち出す

という方が近いのではないか。

だからこそ、かたちを出しきる

つまりいききる状態は幸せに勝るのである。

 

かたちは意味である。しかし、特定の意味

を持つわけではない。だから、○○しなければいけないとか、○○することが

いきる意味とか、たぶんないよ。(爆)

意味付けは存在者が生きやすいように操作

されているにすぎない。そして、その

役は本来存在自らが背負わなければ

ならない。かたちを出しきるために、ね。

にもかかわらず、放棄し追従するかたちの

多いこと。選ぶことは恐いからね。

生きることを選び直す、という過程を

経ないと背負うことはできないのかも

しれないなぁ。

 

私はこのかたちをどのように出せるだろう。

木の中に眠る仏像を掘り出す仏師の如く、

余分な諸々を脱ぎ捨てて打ち出さねば。

そうやって生ききる時だけ、かたちの

虚しさが癒される。

一つの青い照明である我々は、

点り続けることはなく、瞬間ちかっと

発光して収束する。別の点滅が続き、

それはあたかも一つの光が

点り続けているようにみえる。

まるで永遠のよう。

そうやって、この有限の虚しさを

ごまかしてきた。それを欺くことだと

卑しく思っていたけれど、祈りでも

あるような気がした。

バベルの塔は透明なかたちでもって

今も積み重なっていると、

信じることは哀しいのかな。

 

かたちであることを認め、

かたちである今を生ききりながら

無形をいとおしく思うことは

可能だろうか。

かたちを肯定することが無形の否定には

ならないと、証明することはできるのか。

正反対ではなく、対になっている。

かたちはないけど、終わらない世界。

ルートは無意識中にあるのか、

はたまた目覚めたまま見る?

 

繁殖と形の永続性の是非は

問い続ける。安易に納得などしない。

にらみ合いながらジリジリ過ごす猛暑、

熱中症に気をつけましょう(⌒‐⌒)エッ

 

 

 

 

 

未完なるかたちの物語

 

生ききることは、かたちをもつ

我々存在者の意義である。

所謂幸せは(公共の福祉に反しない

限り)権利であって、意義のために

一部放棄することを選ぶ場合は

あり得る。

 

生ききるとは各々のかたちを出しきる

ことであり、出しきる状態とは

存在そのものへ最も拓かれている状態

だろうと推測する。

つまり、その存在者における

ことばの発展土壌を見つけ、

愛を感じ愛であることに充たされ

在るを豊かに認められるという状態だ。

ことばの発展土壌は存在者のかたちに

よってふさわしい場所や方法は異なる。

故に、世界が多様性を尊重する方向へ

進んでいるのは、存在者にとって

良い風潮ではないかと思う。

 

ただし、読み違えも度々起こる。

例えば生ききることを個々の生存時間を

延長しいずれ不死を実現することだ、

という見方。

我々は、あくまでかたちをもつことを

条件とし、存在者として在ることが

できる。かたちは有限性を超えることは

出来ない。これはもう、存在者が生活する

この物質界のさだめなのだ。

科学や諸々の技術の発展などでは

越えられぬ壁。「次元の壁」である。

それをねじ曲げて克服しようとすれば、

我々はその歪みによって在ることを

脅かされるだろう。

 

かたちは有限であるから、永遠ではない。

それでも永遠を希求するのは、

永遠なるものすなわち存在そのものを

いとおしく想うからなのだろう。

かたちは、生まれ成長しやがて老い

朽ちていき、いずれかたちを失う。

かたちを失うということは、すなわち

境界線から解放されるということだ。

すべての煩わしさや哀しみや争いのもとは

この境界線にある。

であるから、かたちを失うことは

存在そのものへの回帰であり

本来悲しいことでも避けることでも

ないのだと思う。

それでも身近な人の死や大きな災害および

戦争に伴う犠牲者の酷い死は、

言葉にできぬほどの悲しみと虚無感を

残るものの胸の内に宿す。

それは、我々がかたちであるからだ。

境界線によって分け隔てられたものに

対してふれあう部分があり、

その喪失は時に己のかたちの一部が

剥ぎ取られるような感覚さえ与える。

と同時に、かたちがなくなったことで、

より近くなると思い込み、そこへ逃げ込んでしまう習性もある。故に

我々は弔うという儀式を作った。

かたちとして奉ることで、境界線を

あえて引いたのは、残るものが

生ききるための叡智であったと思う。

弔い方は異なるが、どの文化圏にも

存在していることからしても、

直感的に存在を畏れ境界線を失うことを

避けたのだろう。

 

そのような内なる声に耳を傾け、

丁寧に拾い上げてきた先祖たちの

営みの上に我々の今の生活は在る。

多様性の尊重が進む今だからこそ、

この脈々と続いてきた縦のつながりを

しっかり意識しなくてはいけないと思う。

多様性の尊重は各々が好き勝手やるのを

許すということでは決してない。

あくまでかたちを出しきることであり、

私的な幸せのために公共の福祉の幅を狭め

自由域を広げることではない。

続いてきたものを持続可能な状態で

次の世代へバトンを渡す。

使い尽くしてはいけないし、次の世代から

前借りしてもならない。

かたちの豊かさは、物質の多さや希少さに

比例するものではないことを

我々はそろそろ気付かなければならない。

むしろかたちの境界線ばかり増え、

横のつながりが見出だせなくなるばかりだ。

かたち同士の共通項である存在そのものへの

可能性を閉じることになっては

本末転倒である。

 

在ることを認めるということは、

頭で考えるより難しい。

おそらく大人になるほど難しくなる。

自分にとって都合のいいことだけ

在るを認め、それ以外をおかしいと

斥ける。或は、ニュースを流しみるように

他人事のように眺め、自分を慰める道具に

してしまう。(それは社会性の一部を担ってもいる)

 

なにより、成長していくなかで

あらゆるラベルを貼られてきているから。

望んでいなくとも周囲からたくさんの評価を

され、意識していなくてもはられた

ラベルは本人の認識に影響を及ぼす。

このラベルに気づかぬまま、立ち止まった

ままの人や小さく身を屈めている人、

正当化のために極論に走る人が

あまりに多い。私はかたちを出しきらない

それらの状態に憤りを感じてたまらない。

全員の頬を叩いて、生ききれ!生ききれ!と

叫びたくて堪らなくなる。

みんな、かたちに絶望したような顔をして

だってこんなかたちだからと開き直ったり

同情をあおったり他のかたちを見下したり

貶したり。なんと不毛!

かたちなんて変えたくなくても変わるのに、

というかかたちに対して評価して裁いて

勝手に価値をつけているのは

なんてことないかたちだというのに。

かたちにおいて絶対などというものは

存在せず、常に変化し揺れ動いていくのに。

そしてどんなかたちであれ、いずれ

失われるというのに。

 

だから私は相手がラベルを見えるように

鏡でいたい。どんな相手でも変わらずに

そういう態度でいる。

なぜならかたちは出しきった方がいいし、

世界は拓かれた方がいいし、

なによりそれを眺め自らの世界へ呼応させる

のが好きだから。

 

 

 

 

 

彼岸も含めた波と考える

 

波。

こちら側だけではないとしたら?

こちらという1つの大きな波が

死をもって終わるのではなく、

かたちを失いながらも

あちら側の輪郭をもって

振り子のように波が続くなら?

 

それは、輪廻転生という話ではないし

死後の世界があるという話でもない。

かたちがないのに波だけがある状態は

果たして存在するのか。

けれど、考えてみればかたちへ向かわせる

何らかのエネルギーがある方が

自然な気がする。

 

波には何か特別な意図はない。

運動だ。エネルギーの波形だ。

だから、かたちであるこちら側が

なぜわざわざ?と問うたところで

なにかポンとわかるものでもない。

 

思えば最後のとき、病院の心拍数を

計る機械には波形が写される。

こちら側の残り時間とあちら側への

準備時間。

あああああ!知りたい!!!

 

 

 

飼育と教育

 

 

ペットを世話する母を見て、

「あぁ、私は教育ではなく

飼育されたんだなぁ。」と

ぼんやり思った。

 

猫可愛がりは、ほんの小さい時なら

存在の肯定を示すために役立つかも

しれない。けれど、成長にともない

社会に出て交わりながら、

自分で障害を越えていく力を

身に付けていかなければならない。

いつまでも干渉しようとするのは、

親自身が手放したくないからだ。

それは、絶対的な支配者である親

という立場を守りたいだけの話であって

決して子供のためではない。

 

母は、自分自身と向き合えていないから

正面から向き合った問いをごまかした。

私のためではなく、自分が見たくないから。

そして母は今でも変わらず、自分と

向き合えず、認めることも無論

できていない。いつも不平不満を並べ、

してくれないと嘆き、感謝を強要し

自分の言葉で戦わない。

子供を産めば親にはなるが、同時に親心が

育つわけではないのだなと少し寂しく思う。

大人になり、自分と向き合って

認めてきた私は、もはや母に親心など

期待していない。ただ、生きることを

認められないで、いつも被害者意識の

小心者でいることに甘んじ、

死を待つ日々を送る母を

私は同じ存在者として悔しく思う。

だから、向き合う問いを話題にし、

考えること、受けとめること

そして認めることを一緒にしようと

語りかけてきた。でもそれは、

今度は私が支配しようとしている

ことになるのだろうか。

 

コツン。小石は消えて見えない。

 

 

飼育された私は自分で学んできた。

与えられなかった教育は自ら求めて

這いつくばって獲得してきた。

この言葉こそ、私の武器。

試したい、言葉の力を。

ギフトでなくても与えるわけを

私はまだ納得できずにいる。

自然なんて我々の理解の範疇を

超えることもわかってはいるが、

できちゃったからだとは言いたくない。

生ききることを幸せであることより

求めたから、ここにいるのだと

言えるだろうか。

 

 

 

 

結婚を考える

 

絶賛婚カツ中!

ということで、結婚について考える

日々な訳ですが、漠然としていた「結婚」

というかたちの輪郭が見えてきた気がする。

 

まず、結婚する相手について。

一つは、結婚したい人と結婚するという

こと。一見すると当たり前だけど、

恋愛結婚が主流の現代において

軽視されている気がする。

好きになって、付き合って、しばらく

ラブラブして、時期が来たら結婚する。

そういう王道ルートはあるけれど、

この時期とやらがなかなか合わないばかりに

同じことを繰り返してしまうのではないか?

もちろん、同じ時期に結婚を意識して

進めればいいのかもしれないが、描く未来や

望む方向性を各々が抱いているのだから

結婚に駒を進めることが互いにとって

最善とは限らない。

そのときに、過ごした時間や共有した思い出

にすがり、一方が無理を強いるなら

それは後に禍根を残すのではないだろうか。

結婚に対し、自分でその責任を負うことを

選ぶ覚悟がないままなおざりに

進んでしまうと、いざ障害に出くわした時

自分事として積極的な態度をとれない

ように思う。

 

なぜこんな目に、

あのとき結婚せず○○を選べば、

何で私ばかり我慢してるの…

 

そう考えてしまうのであれば、

生活のために嫌々ともにいるか

離婚するかしかないだろう。

もちろん、結婚後に覚悟が芽生える

場合もあるだろうが、

はなから期待すべきではない。

そもそも覚悟が芽生えるような人、

つまり自分と向き合う人間であれば

流されて結婚はしないだろうからね。

かなり長い闘いになるし、それで

人生を終えているような人もたくさんいる。

しかもだいたいは諦めと寛容をはき違え、

妥協と打算で現状維持しているだけ。

一番近くにいるはずなのに、根っこでは

いつも疑って嘲って憎んで恨んで。

そのくせ生活の不安や寂しさ、世間の目を

気にして手を離せない。

ああ、考えるだけで空しくなるなぁ。

 

私は、根っこでこそ味方でいたいし

いてほしいよ。だからこそ、覚悟が必要。

共にあるということを前提に、

試行錯誤しながら生きることを

認めていける人がいい。

幸せにしてほしいなんて思わない。

私は一人でも幸せでいられるし、

そういう者同士じゃなきゃ前向きな

関係なんて作っていけない。

だから私は、二人でいることで

世界の横幅を広げられる人とともに

生きたい。掘りさげるのは自分と向きあう

ことであるから、引導を渡したりは

しない。ただどちらも、認められることを

増やすこと。つまり、私が思う豊かさを

追求することなのだ。

一人で充足していられる今だから、

そう思える。

そしてそういう人を探せばいいのだと思う。

 

これまでに物語がある人に固執してたのは、

たぶんその延長で描けると思っていたから。

でも本当はそんなに簡単なものではなくて、

人を動かすとかいって操作することなんて

できなくて。

これから一緒に物語を描いていける人を

見つけなければいけないのだ。

 

 

そしてもうひとつ、子供について。

最近教育にかなり興味が沸いてきている。

可愛いからとか世間体とかで

産みたいという気持ちはなかったから、

ずっと悩んできたけれど、新たな人格

つまりせかいそのものと向き合い

考え学びトライしながら拓いていく

ということなら、ワクワクして仕方ない。

教養はあまりないので(笑)、旦那さんや

しかるべきところの力を借りるとしても

生きることなら教えられる。いや、

一緒に考えて寄り添ってあげられる。

存在そのものを認めるというミッションも

全力でやりたい。たぶんそれは、

うまく受け取れなかったために

自分で模造をこしらえるしかなかった

私自身を癒すことにもなるのだろうな。

 

そして、味方でいたい・いてほしい

人物像について掘り下げてもいるところ。

普段は意識しないだろうけど、いざという

時や大きな選択の場面で、相手の抱える

問題を二人事として受け止められる

関係を築いていかなくてはならない。

つまり、信頼しあえる人であることは

大前提だ。人として卑しいことをしない、

させない。問題から目を背けない。

自分自身と向き合える。与えられた生を

享受し、生きることを選び直している。

そういう自分でいたいと思い、

そうあれるように努めている。

別にカッコいいことなんてしようと

しなくていい。カッコ悪さを避ける、

そういう意識で自分を鼓舞していられる

のなら、それが一番カッコいいもの。

表面上のかっこよさなんて、足元にも

及ばない。

生きることと向き合うのは

自分の弱さ醜さを認めることは

恥ずかしくて悔しくていくつになっても

難しい。でもそういう自分も

あるねって、認めていこうという姿勢は

なににもまして美しいのだ。

私自身そうありたいし、そういう人を

いい男だと評価したい。

考えてみれば、表面上の条件なんかより

よっぽど理想高いな(笑)

とりあえず、そういう人と出会ったときに

いいなと評価してもらえるよう

まっすぐに生きていたいと思います。

 

 

 

ちなみに、かたちからの解放への希求は

いつも心にあります。

でも今現在かたちであってたぶんしばらく

かたちであるから、どうせなら

出しきりたいとは思う。

かたちじゃない方が明らかに幸せだという

思いは今も変わらない。

だからかたちじゃない方がいいと思っていたけれど、それは幸せが一義だと思っているからじゃないのか?と考えるようになった。

幸せは権利、生ききることが意義。

(そして生ききっていればそれは幸せ)

そう考えれば、なるほどわざわざかたちで

いるワケがありそうな気がする。

 

存在そのものから、在ることをわけもち

かたちを得てここにいる私たち。

押し出されたセルは俯瞰して存在そのもの

を求める。永遠のそれを有限のこれが

求めること自体、ちゃんちゃらおかしい

のかもしれない。でも恐らく、彼岸と

ここも一種の波として相関している。

この大きな運動がたどり着く先は

一体なんだろう。3次元の私には

きっと輪郭さえ見えなかろう。

それでも私は一つ一つのかたちを認め

生きている今を認め、死んでいく未来を

認めていく。それしかこの虚しさと

対抗する方法はないような気がして。

 

なんだか壮大な話に(笑)

まずは覚悟がある人と直接たくさんはなそう。話はそれからですね

 

 

 

 

AIは、何を問う

 

AIの発達は目覚ましく、

人間越えも近いと言われている。

2040頃にはほぼ達成され、

今ある仕事の半数以上がAIに

置き換えられるとか。

仕事をとられるというよりも、

大多数の人が仕事をしなくてもよくなる

との予測も見受けられる。

そうなってくると、働く意味として

大多数が挙げる「生活のため」は

実質意味を持たなくなる。

人間が労働力として求められなくなると

すれば、人間が働くことはどのような

地位を得るのか?

マズローの5段階説でいう「自己実現

へ一足跳びで至るのは間違いないと思う。

では、「自己実現」とは?

 

見渡す限り、実現したい自己を

確立させている(あるいは目指している)

人は少ないように感じる。

仕事の切り口から考えると、

8割方生活のためだろう。

家庭を持ったり守るものが増えたり

するなかで、「自己実現」なんてのは

金にならない危ない誘惑だと

シャットダウンしてきた人も多かろう。

でも、AIの台頭を予見すれば

金のための仕事はまず不要になる。

誰だって愚痴と文句ばかりのくせサボる

人間たちよりも、目的のために徹底管理

され効率のよいAIを雇いたい。

 

 

話がそれた。

自己実現とは、究極を言えば

創造行為や問題克服を目的として

いるといえる。けれども、創造や

克服がAIおよびロボットによって

なされるとなると、我々人間が

「できそうな気がする」という予感を

持つことは今以上に困難になるのでは

ないだろうか。

※できそうな気がする、とは

①できそうな環境②できそうな能力

のこと。つまり、せかいが現在

未完成でありこれからも未完成であり

続けることと、そこにわたしが何からの

かたちで貢献する能力があると感じられる

ことが未来を描くための必須条件だと

考える。

 

その予感、つまり広義の未来を描けなければ

人間は今をいききれない。

今後、AIに「できそうな気がする」いう

予感をもつ特権を奪われたら

絶望する人もたくさん出てくるので

ないだろうか。

AIが人間に反逆することを恐れる

よりも、むしろ人間自らが絶望によって

自爆する可能性を考えてみた方が

いいと思う。(制御についてもAIが

自ら知能を高め、対応するように思う)

 

 

また、そんな世界になったとして

なぜ勉強する?なぜ生み育てる?

なぜ生きることを続けていく?

 

等々の今まで深く考えずにすんでいた

問題について考える時間が、暇が

出来てしまうね。そう思うだけで

発狂しそう(笑)