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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

生活への興味がなさすぎる件

 

 

ここ数年、かたちや存在そのものへの

考察を深めようと努めてきた。

生きることを学び考えてきた。

その弊害として、生活への興味が

一層薄れ、生活感覚がごっそり失われて

しまったようだ。

 

なにか生活について喜んだり悩んだり

しようとしても、

「結局、かたちではないか」

という思いがもたげてきてしまう。

かたちとかたちじゃないものの差に

関心があるのであって、AとBの差には

正直あまり興味がない。

私のなかでは、かたちをもつという意味で

同じくくりなのだ。

 

けれども、生活に関心を持たなければ

生きることもままならない。

私自身も一つのかたちとして、

かたち界のルールを覚えなくてはならない。

運転が好きだから守るのではなく

不特定多数の人が道路を安全に

利用するために守る、交通ルールの

ようなものだ。

 

誕生は喜ぶ、死は悲しむ、

人を愛することは素晴らしいが

複数愛するのは不徳である、云々。

 

 

休日の自然豊かな公園には

ハイキングを楽しむ老夫婦や

キャッチボールをする親子、

ベビーカーをおす若い母親と父親

ランニングする中年男性、、

様々な人たちが集っていた。

ぼんやりと眺めながら、

生活する人と生活を考える私の間に

ある隔たりは越えがたいものだと

気づかされた。

なぜ私は、生活に一喜一憂する

誰かではないのだろう。

あのなかの誰かではないのだろう。

 

 

生活に馴染もうとするほど

哀しくなるなぁ。

どのようなかたちになることも

望んでいないのに、

なにか望まなくてはまともでいられない。

真剣に生きようとしてきただけなのに、

生活に没頭している方が生きやすい

だなんて。

 

愛するということは、認めるという

能動的な行為だ。つまり外から

働きかけることを前提としている。

認めようとする限り、内へは

入り込めないのだろうか。

暖炉を囲み、シチューを食べ

談笑する家族を

深々と雪が降り積もる戸外から

観察し記述するとは一体何なのだろう。

 

 

 

わりきらないで、対峙する

 

 

ああ、まだまだ甘いなぁ自分。

無意識にわりきろうとしてしまう。

安楽死尊厳死といいかえ、

死を生の終末とし選択権を与える

べきだと語る。もっともらしい回答だ。

でもこんなにきれいにわりきっては、

その谷間に語られぬことばを

こぼれ落としてしまうのでは?

 

私のベクトルはかたちからの解放、

すなわち死へ向かうから

死を肯定的にとらえる文脈を

熟慮なく採用してしまいがちだ。

でも、論拠としてあげた例は

かたちへの執着の帰結であった。

生が苦しいなら死を選ぶ、

という消極的な選択はもっとも

避けたいというのに。

 

生きることは苦しいのになぜ続けるか

死ぬのは怖いのに何故死なねばならないか

このかたちとやらは、一体なんなのか

 

 

 

 

 

 

死ぬ権利じゃなく、生ききる権利

 

 

パラでメダルをとった女性が

安楽死で亡くなったという。

享年40歳。

耐えがたい痛みを抱え、

晩年は夜も眠れなかったそうだ。

 

世界最高齢でギネス認定された

女性が後悔していることを聞かれ、

「長く生きすぎたこと」と語った。

知人や子供たちを見送り、

生き続けることに虚しさを感じたそうだ。

 

 

あげればキリがないが、そろそろ

本気で考えた方が良くないか?

存在価値を生産性で測る社会だから、

導入に慎重なのだろうけど。

迷惑がかかるから生きたいけど死ぬ、

という事態を防ぐ方法は検討すべき

だと思う。だからといって、

尊厳死そのものを導入しない

というのは話が違う。

 

 

 

尊厳死は死ぬ権利じゃなく、生ききる

権利として必要だと思う。

我々は生まれることも死ぬことも

本当の意味で選ぶことは出来ない。

選べるのは、生の起源と終末までの

過程だけだ。そしてその過程で

行われる選択の数々は、どう生きるかの

選択だ。

生の終末を選ぶことは、生き方の選択

における集大成ともいえるのに

なぜこんなに不自由なのか。

 

 

かつてのように、40歳50歳で死ぬのなら

かたちを出しきっている間に

死を迎えられたかもしれない。

でも今は、80歳90歳まで平気で生きる

時代だ。かたちの終い方と向き合うのは

自然な流れだろう。

 

 

万物は流転し、かたちは変化し続ける。

生まれ成長し衰退し死ぬ。それらの運動は

意味を求めるかたちの特性(エネルギーでも

ある)により引き起こされる。

意味のないかたちなど存在しえない。

かたちが意味だからだ。

我々が意味がない、というとき、

それは存在価値がないと訳す方が近い。

だが、存在価値とは何か?

資本主義社会に生きる我々において、

生産性という答えが模範解答だろう。

より多くのより多様なかたちを

生み出す個体こそ存在価値が高い、

ということだ。

でも、本当にそうだろうか?

それではわざわざかたちであることの

説明がつかない。無形であれば永遠なのに

あえてかたちを持つのだから。

有限であることの意味を頭が擦りきれるほど

考えなくては。思考停止している

場合じゃない。

 

 

一方で、死を克服しようとする

人々がいる。それを望む人がいる。

話してみたけれど、健全である。

健全すぎるくらいだ。

生きることの是非を疑っていない。

彼らは人口が増え生態系が乱れても、

なんとか破壊を食い止める方法を

考えようとするだろう。

根本的に生まれてくること、

かたちを持つことがあらゆる問題を

引き起こしているのにもかかわらず。

なぜそこを見ない?

生きることに恋をしているんだろうな。

その方が生きやすいことはわかる。

それでも、生きることを愛したいのだ。

恋ではなくて。見とれずに、認めたいのだ。

 

 

生きることはいいことなのか?

愛したいからこそ、問いつづける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

考えるのが好き。とりわけ死について

 

 

村上春樹さん風のタイトル!

 

生を続けることに執着がなく、

無論かたちにもこだわりがない。

だから、こうなりたいとか

あれを手にいれたいという思いも

ほとんどない。

よく言えば無欲、悪く言えば無気力。

どちらにせよ、残された時間を

どう過ごすのか考えたいところ。

すべきことがない人生は、

時間をもて余すからね。 

 

平均寿命が87歳前後だから、

下手したらあと60~70年近くある。

生きることはリスクだなと改めて思う。

どんだけのびりゃあ気がすむんだろ。

去年5年更新したばかりだから、

ひとまず縮める選択肢は外しておく。

 

お金は生活する上で必要だ。今のところ。

でも、手段であって目的じゃない。

七つ集めて願いが叶うわけじゃない。

願い、限りなく祈りに近い私の願いは

存在そのものへ触れること。

かたちにも何にも執着のない私にとって、

これは数少ない望みだ。

どうすれば、触れられるか。

愛へ線を引けるのか。

私のことばが、豊かに耕され

発展する場はどこだろう。

一番大切なことば、″生きるを認める″。

そのことばに沿うのはどこだろう。

 

進む道を決めた日、西洋美術館で

展示品のポストカードを二枚買った。

どちらもモネの絵だ。

全体が明るく突き抜けるような青空の

絵と、鬱蒼とした森にかこまれた川に

葉の緑と淡く朝日が反射する絵。

まったく異なる光が描かれているが、

私は後者がより好きだと思った。

僅かな淡い光は、ひとつの道のようだ。

そういう割りきれない曖昧な、

実用的でなくわかりにくいゆれを

掬って生きるのも悪くないと思う。

それは、罪悪感をすり減らす

ためじゃなく、せかいが豊かになる

からだ。あるね!といえるせかいが

ミクロ方面へ広がる。

超ひも理論では、残りの6次元がごく小さく

丸められて3次元の中に隠れているというが

まさしくそんな感じ?

 

迷いが出るのは生活のため。

そらそうだ。生活なしに生きられない。

でも、生活のために生きるを蔑ろにしたら

それこそ虚しい。生活は手段だ、目的

じゃない。

生きろ、私。

生きろ

 

 

解放されたし!

 

 

噂話や悪口をいわないのは、

優しさとか心がけという側面も

多少あるけれど、そもそもあまり

興味がないんだと思う(笑)

 

分析するのは楽しいけれど、

その人への興味(好意)ではなく人間の行動や

心理や選択について考えるのが好き

なだけなんだな、と。

だから、博愛主義的に

みんなに同じように接するし

家族や友人であっても一定の距離を

保つ。ずっと同じ空間にいると

しんどくなって、ぷらっとでていく。

親密になるのがあまり得意じゃない。

 

困ってはいないけど

興味があるふりをするのはちと疲れるね。

人の名前とか情報を覚えるのも苦手。

なんでみんな人に興味があるのかな、

よくわからない。

生活に興味がないからなのかな。

 

 

生きることへ執着がないのは、

病的なのかな。正しくは生きるを

続けることに、執着がない。

かたちであるから、出しきりたいとは

思うけど、かたちでなくなるなら

それが一番自由だろう。

 

 

 

 

疾走する閉塞感

 

生活をおいて 生きるを考える

 

なんて、できんよなぁ(笑)

動くことも動かないこともリスク

結婚するもしないもリスク

子供生むも生まぬもリスク

 

なんだろうね、これは。

だんだん閉塞感で苦しくなってきた。

 

40才独身でなくなったかたの

迷いと哀しみとやりきれなさを思う。

生きること自体へのむなしさが

耐えがたく肩にのしかかってくる。

 

このまま、目覚めたくないなと

いつものように点検する。

弱くて醜いよ、

恐くて不安だよ。

そしてそれは、生きる方を向いている

からなんだと気づく。

 

 

愛よ、なぜかたちを望んだ

愛よ、このすべてのかたちたちが

報われると言ってくれ

報われると言ってくれ

 

泣くのはいやだ、笑っちゃおう

笑うことの難しさにうちひしがれる

生きることを背負う重みは

意識したときにとても冷たく痛い

これを誰かに背負わせるなんて

ほんとうにいいのか。

いいことだと胸を張っていえるのか。

 

いえなくてもなぜ続ける

この私も

なぜ明日を生きるのか

 

夜は考えるのに向いていないな

 

 

 

かたちつれづれ

 

⚫源泉たることば:生きるを認める

いいね!じゃなくていい、

あるね!と認める

他者においても認める

(認められるように心を寄せることを

愛すると呼ぶ)

ありえない、は

ありえているということを理解できない

認められないの略

あることをそのまま眺めることで

かたちの声をきき形の歪みや偏りをはかる

生活に翻弄され生きるを認めることが

できない状態はかたちを出しきれない

状態であり、善くない

 

 

⚫かたちを出しきる、せかいを拓く

(=生ききる)

境界線ではなく、輪郭を打ち出す

ことばが最も豊かに見いだされる場所で

せかいを拓いていく

つまり存在そのもの、愛に向かって線を

ひくことができる状態

その時に、生きるむなしさがわずかに癒える

豊かさとは、認められる世界の幅と

せかいの奥行き (ただしいずれも形)

*生きるむなしさは、形の有限性を克服

(=不死)することではなくならない

むなしさの根元は、形であること

それ自体にある

存在から隔てられているむなしさを

形を持ったまま越えることはできない

 

 

⚫形は意味から逃れられない

形があるかぎり、

輪郭は境界線として知覚され

永遠への憧憬は有限であるかぎり儚い

ほんとうの存在には触れられず、

いつも愛のようなものを追い求める

にもかかわらず、形をもっている

形であること自体意味である

ただし、特定の意味はない

*愛のようなもの=嘘やまやかしではない

永遠でないだけで、永遠を希求する

祈りの現れである

愛し愛されたいという欲求は

つまり存在へ線をひきたいという

かたちあるものの祈りである

 

🔘ことばに沿って生きたい

認められる世界の幅とせかいの奥行きが

豊かさであるならば、追い求めることが

幸せなのかもしれない。

見たことのない世界に触れること、

せかいに深く沈みこみ己との対話を重ね

存在界とかたち界に通ずる法則を

見いだすこと。

(ことばが一番豊かである場所は

源泉たることばが疼く場所でもあるかも

しれない。)

願望か祈りか、わからなくなってきた。

 

 

かたちを出しきり、せかいを拓く

それはかたちにとって豊かなことだろう。

けれども、それを続けていくことは

いいことなのだろうか。

本来形と時間はない方がいいのではないか。

逆説的に考えれば、いい悪いの問題では

ないのかもしれない。

もっとリズム的なもので、波のような

もの。どちらかといえば運動。

恐らく、それはかたちが

意味であることに由来する。

意味はエネルギーでもあるからだ。

解せないのは、無形たる存在そのものが

有形へ向かうエネルギーの出所だ。

形がないなら意味もない。

何が形に向かわせるのか。

形がないだけですべて在るのに

なぜわざわざ形へ向かう必要があるのか。

肉体という形を喪ったとき、

なにか残るのか。魂があるとすれば

それは形ではないのか。

魂が分化された愛であり、存在の根拠

なのか。

 

○○のため、というような人間が

膝を打つような理由ではない気がする。

もっと自然的な理由というか、仕組みで

起きている現象のように感じる。

ちょうど自然と同じように恵みであり

災いでもある、という具合に。

 

生ききるは、かたちを出しきり

いのちを燃焼させること。

長く生存することでもなければ

何かを為すことでもない。

神、つまり存在そのものへの

畏れを克服してはならないように思う。

正しく畏れることに背を向けたとき、

この世界は最もむなしい状態へ陥る。

存在と切り離された形は、

存在するものすべてを手段にかえる。

存在者を目的ではなく手段にするとき、

存在者の都合でかたちを歪めるとき、

魂に値段をつけるとき、

生きる意味を強要するとき、

色を失う。光を失う。

その意味をわすれたくはない。