せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

世界(せかい)のベースは、″認識″

引き続き、世界とせかいについて。


世界は共有できるかたちの総称で、
特にことわりがない場合
共有世界を指していますよね。
存在者がかたちをもっている世界です。
その「世界」で起こる事象や各存在者の
かたちは、存在者同士共有することが
ある程度可能です。
「日本」「りんご」「電車」など、
言葉にしたり目にしたりすれば
(ああ、あれね。)となります。

中でも人間は、言語という
世界の認識を共有するためのツールを
生み出したことで、発展していく
世界の中心的存在者になっていると
いえます。言語を文章化して残せば、
個々の存在者が死んでも
共有世界の存在者へと「せかい」の一部が
引き継がれ、次なる世界の発展へと寄与
することが可能だからです。


そして、せかいは共有できないかたちの
総称として使っています。
「日本」「りんご」「電車」と
言語化すれば、それを認識できる存在者は
(ああ、あれね。)と思い浮かべられますが、
イメージする″それ″は各存在者によって
異なります。
「日本」という言葉から寿司を連想したり、
富士山を思い浮かべたりする。
「りんご」と聞いて、食べたいなぁと思ったり
赤でなく青リンゴを思い浮かべたりする。
「電車」をただの交通手段と考える人もいれば、
魅了されて追いつづける撮り鉄さんもいる。

一緒に富士山を見たり、りんごを食べたり
撮り鉄同士で語り合ったりすれば
ある程度共有できる。けれど、全く同じ
せかいは存在しないから完璧な共有は
できない。その意味で、存在者はみな孤独
なんだと思っています。





世界とせかいは、共有できるできないという
大きな違いがあります。しかし、ベースが″認識″
という点は共通しています。
ある事象や各存在者の存在が認められ
共有されているのが「世界」で、
他の存在者と共有できないが
ある感情や考えが認められるから
個々の「せかい」がある。
意識的にしろ無意識にしろ存在を認めることで、
世界もせかいも獲得されていくものだと
思うのです。


そう考えると、認めるということは
必ずしも共感や賛成ではないと思えてきます。
世界(せかい)を獲得するには

在ることを認める、つまり「いいね!」でなく

「あるね!」で充分なんじゃないかと。

存在者は存在(愛)をわけもつかたちあるもの
であり、すべてを含む存在の一部であるから
それぞれに多様で多面的です。
究極のルーツ探しが人生であり、
存在者は存在(愛)を追求したいという
欲求を本質的に持っていると考えています。
だから、他の存在者の「せかい」に
触れること=異なる在るを認めることで
自らの「せかい」は広がる。存在者の
多様性を認めていくことによって、
存在そのものへ迫っていけるのでは…?


だから、「あるね!」で充分だと思う。

けど、「いいね!」だと嬉しい(^q^)

それは存在者が孤独だからなのかもしれない。
一瞬でも一部でも同じ思いを共有できたら、
癒される。異なるせかいが多いほど
世界は広さを獲得できるなら、
「いいね!」という共感は
すなわちよく似ているせかいであり、
世界(せかい)を広げていく推進力は
あまりないのかもしれない。
けれど、共感できるということは
根底にある″何か″を共有するという
ことであり、世界(せかい)の深さの
獲得には寄与していると思う。


存在=愛で、存在者が愛に迫るということは
在るを認める=愛を認める
ということなんじゃないかなと思う。

「認めるだけなら簡単じゃん、

人生ちょろいぜ!」

なんて思った?うん、私もそう思う。




訂正。そう思ってました!
でも全然簡単じゃなかったです。
わかったつもりでわかってなかった。
正確には、わかることについて
わかってなかった!
ということで、次回はわかるについて。