せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

「わかった!」「どこで?」


続きます。今回はわかるについて!

日常的によく使う言葉ですが、
その時の″わかる″は
どこで理解していますか?

「頭に決まってんじゃん!」
「心でわかりあうのです。」


そうですね。頭と心、どちらも
わかるために使います。
でも、わかった・理解したと思うとき、
頭と心の″わかる″を意識したことは
あまりないのではないかと思います。
まして、頭と心の間には距離があり、
頭の理解=心の理解ではないことを
意識することもないと思います。

じゃあいつ意識するかといえば、
″わかる″が″わからない″時なんです。
ある存在者(かたち)があることはわかる、
でも解釈できないという状況で
初めて″わかる″を意識するんです。




存在者は世界を解釈し、
世界を拓いていきたいと本質的に
願っています。できる限り
すべての存在者を解釈したいわけです。
だから、わからないものに遭遇したとき、
「世界」あるいは「せかい」を
変えようとします。解釈できるかたちに
したいからです。

それはすなわち愛の追求行為であり、
かたちある存在者のふさわしいあり方だと
思います。でも、大事なことを
見落として(というか忘れて)しまっている。
私たち存在者は存在をわけもつかたちある
ものであり、存在そのものではない。
存在者のはじまりのきっかけは、
存在者以外であるからこそ有難い=愛です。
つまり、″すべてを理解できるわけがない″
という大前提が抜けている!
(はじまりではないし、はじまりは
わからないのにすべて″わかる″わけがない!)


「わかったつもり」や「すべて理解できるはず」
という慢心が存在者を苦しめるのです。
みんな認めたいだけなのに、なんと
ぶきっちょなんだろうかと思います。
存在者はみんな多かれ少なかれぶきっちょで、
ぶきっちょという点で存在者同士
つながれるのでは?と感じています。
(詳しくはまたの機会に話したいとおもいます)



そして、もうひとつ苦しくなる要因として
わかろうとする場所が違っていることが
挙げられます。
あたまで理解するところをこころで
理解しようとしたり、こころで理解するところを
あたまで理解しようとしたり…

具体的な例は後々あげるとして、
世界が面積(広さ)×奥行き(深さ)であるように
わかるにも広さ・深さがあります。
そして、わかる場所つまり理解の領域は
主に三つあると考えます。
※わかるは、「せかい」における
「世界」の解釈であるため、
領域についてもひらがな表記にしています。


『わかるのトライアングル』
①あたまの理解
②こころの理解
③はらの理解



またも勝手に名付けました。笑
皆さん、どこでわかりました?