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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

″ありのまま″を履き違えていないか?

こんにちは、ぴーやまです。

今日は、ありのままとはなんぞ?や

という話。

 

ありのまま、オンリーワン。

そのまんまでいいんだというメッセージは

事象や思考がぶつかり傷ついた後に

必ず出てくる。

衝突の原因を取り除き、二度と

起こらないようにすることで

傷を癒そうとするからだと思う。

どちらが悪いのでなく、素晴らしさに

差違はなく、どちらもそのまんまで

良いとすれば理論上衝突はなくなるだろう。

でも実際のところ、衝突はなくならない。

ありのままがダメだからぶつかっている

のではない、ありのままだからこそ

ぶつかるのだ。

 

ありのままの″かたち″とはなんだろう。

存在者はかたちを持つし、かたちをもつ

ことで意味が生じる。そのエネルギーを

燃やして世界をつくるのが、

存在者としてふさわしいあり方で

それがすなわち″ありのまま″なんだと思う。

 

ありのままは、変化しないという意味

じゃない。世界(せかい)がつくられるとき、

解体と創造という運動を伴うから。

解体は、今ある何かが崩されるということ。

それは″変わらない″ことじゃないよね。

そして、付随するように創造が起こる。

それも″変わらない″ことではない。

 むしろ、かたちは″変わっていくことを

内包している存在″なんだとわかる。

 

だからさ、ありのままを認めるって

ことは、『今あるかたちのまま認める』

とは少し違うんじゃないかな。

『かたちは変わっても在ることを認める』

ということなんだと思う。

だから、『あることを認めるために、

今あるかたちを認められるかたちに

変えよう』とする動きは起こり得るし、

それこそ世界をつくる運動だろう。

  

 

 

ありのままを履き違えたままだと

世界(せかい)は廃れ、朽ちていく。

 

衝突を悪いものだととらえると、

あらゆるかたちあるものは

ぶつからないように固まっていく。

その力が強まれば、ありのままを建前に

差違は画一化され格差や差別は黙殺され、

「世界」の不条理も当事者自身の

「せかい」の問題にすり替えられる。

当事者である″わたし″も、どうにか

不条理をのみ込もうとする。

結局のみ込めないことに蓋をして、

片付けたふりをしなくちゃいけなくなる。

いつしか蓋したことにも鈍感になって、

本当にほしいものがわからなくなるのも

頷ける。だから、「言葉」じゃなくて

「ことば」が見つからなってしまうのだ。

 

逆に、″在ることを認めるため″という

前提を忘れて、今あるかたちを変える

運動だけを推し進めて世界をつくろうと

するのは、解体ではなく単なる破壊だ。

存在者の理想と異なる事象や思考を

無理やり変えようとすれば、

自身はかたちを変えることなく

「世界」は認められるかたちになるかも

しれない。でもそれは、他の存在者の

在るを阻害することになるし、

そもそも存在者自身の「せかい」が

変わらないままでありつづける

こと事態、″ありのまま″のかたち

とはいえないんじゃないかな。

 

 

かたちがあるから変わるのだし、

かたちがあるからぶつかる。

それは世界をつくる過程で

起こる運動でありそれ事態が悪

ではないけれど、核心を忘れると

破壊につながるから時々自省したい。

変わらないでいてほしいと思う

ものや瞬間もあるけれど、

かたちは変わっていくものだ。

変わっていける、ということは

希望なんだろうと思う。