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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

「生活」に迷う時、本当に対峙すべきこと

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「迷い」について!

 

 

人生は選択の連続だとかいうけど、

じゃあその選択の基準って何なの?

連続していった先には何があるの?

ってところはあまり語られない。

 

いや語られてはいるんだけど、

あまりに軽い。ことばを持つ

一握りの先人らの肩にずけずけと乗り、

そのことばを漂白してデコって

額にいれて飾ってるみたいな感じ。

そんなぺらっぺらなものを

どれだけ垂れ流したって、そいつの

ことばじゃないわけで。まして、

他人のことばを盾にしてやいのやいのと

お祭り騒ぎしてるだけなのに

深刻な顔で「生活」を憂うなんて。

冒涜だとすら思う。

 

 

 話がそれた。

人生において選択を迫られるとき

「生活」と「生きる」を天秤にかけて

迷うんなら、その「生きる」は

自分にとって一等の熱じゃなく、

引き合いに出される「生活」は

芯から望むかたちではない

ということ。

 


 生活は、会社や結婚や子供や趣味。

 生きるは、生活を貫く芯。熱そのもの。

「生きる」なしの「生活」は

主役不在の誕生パーティーみたいなもんだ。

みんなおだやかに笑いあい、

豊かさを享受しているつもりでいて

なんのために集まったのかすっぽり

抜けていることをごまかしている。

(正確に言えばごまかしている自覚は

ないからこそ、生活といきるを天秤に

かけられるわけだけど。)

さも、みんなで微笑みあうことが

最初から目的だったかのように。

 

 「生きる」にこだわったり、

語ったりすることにたいし、

「生活」を持ち出して諭す人の

話は聞くもんじゃない。

「生きる」ことを見いだすとき、

その熱のなかにあって「生活」は

二の次だとわかる。その声に従うことだ。天秤にかけられるもんじゃない。

逆に言えば、天秤にかけられるなら

それは本物の熱源じゃないのかも?と

立ち止まってみた方がいい。

掘り下げてみたら

今ここから逃げたいためだったり、

馴染めない自分を正当化するため

だったり…

見なかった方がよかったと思っても、

開けちゃったもんは仕方ないよなぁ。

そしてそれでいい。



「生活」に迷った時、「生活②」

 「生活③」と選択肢を増やすことは

有効だろう

でも真に有効なものにするには、

「生きる」という芯が

燃えていなくちゃならない。

(あるいは選択肢が燃える方向)

そうじゃなければどんな「生活②」も

「生活③」もただの選択肢だ。

多くても少なくても、何を選んでも

それは結局「生活」だ。


わたしは、「生活」のなかで

「生きる」がうやむやにされ

そのまま凍んでいくことが

堪えられない。

その熱がわたしにとり、「生活」を

貫く「生きる」だと感じる。

だから、自分一人だけそうしていれば

いいだなんて思えない。

すべての存在者が「生きる」へ

向かい、各々のことばで「せかい」を

拓く。そんなせかいを見たい。

せかいとせかいで語り合いたい。

生活を越え、生きるを語り合いたい。

だから、そこにこだわっていたい。



「生活」に迷った時は、

「生きる」と対峙することだ。