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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

永遠性と時間

 

「時間を忘れることが

なぜ幸福感と結び付くのか?」

 

これは私が解きたい問いのひとつだ。

そこに、「永遠性」というキーワードを

かけてみると片鱗が見えてくるように思う。

 

永遠性とは、存在をわけもつかたち

あるもの、すなわち我々存在者が

存在そのものへ至る間にある

「次元の壁」だと考える。

存在者と存在を隔てるものだ。

永遠性を紐解いてみるに、

・無限(限りがない)

・不変(変化がない)

・永続(終わりがない)

の要素が絡み合って成り立つ概念の

ように思う。

そしてそれは、存在者として

かたちを持つ我々が住む三次元には

存在し得ない。ひとつも。

このわたしも散り散りになり、

そう遠くない将来、死んでいくのだ。

 

 

存在者はより高次元へ向かおうとする。

それは存在者のもつかたちに組み込まれた

有り様に思う。

では、我々存在者の高次元へ向かう

有り様として、永遠性へ挑むとは

いかなることか。

無限不変永続を全身全霊目指すことか、

はたまた有限可変断片に徹底することか。

 

考えるほど視界が霞み思考が揺らぐ。

そんなとき思うのが、夢中の至福だ。

夢中とはすなわち時間を忘れて没頭する

こと。いつの間にか夜になっていたとか、

春になってたとかそういう圧倒的な

自らの投入に依る。その時の何にも

変えがたい幸福感は、⚫⚫ハイと

呼ばれることもある。

脳内のなんチャラ物質がとか

幸福感の前払いとか分析され、

善悪論のまな板に乗せられては

裁かれ調理されてゆく。

 

その激流の中に操を立てて、考える。

時間が″ない″ことが幸せ?

時計をはずすとなるほど腕は軽くなった。

が、朝は日が昇りやがて暮れる。

あらゆる存在者は時間のなかに

生きている。光の届かぬ地下空間に

幽閉される位しか時間から

脱する術はないのか…

(それですら、時間の観念は私たちから

消えはしないだろう。)

 

 

日本において延命治療は発展し、

我々は容易に死ななくなった。

それは我々が永遠性を目指す試みの

ひとつのかたちだろう。だが、

死ぬことつまり生の終末を先伸ばしに

することはできてもいずれは死ぬ。

不老不死の薬はまだないし、

今後もない。私たちがかたちである限り。

また、生命の永遠性を追求することは、

決定的なことを見過ごしている。

単純に生きる時間が長くなるのなら

その分幸せが遠ざかりはしないか?

時間はなくすことはできないが

忘れた方がいいものではなかったか。

じゃあさっさと死んだ方がいいよね、

ええいままよっと死んでしまう?

それでは、存在者が存在をわけもち

ながらかたちをもって在ることが

解けぬままではないか。いや解けない

にしろ、かたちをもったからには

挑みたい。そう思う。

 

かたちの境界線が溶けていく過程は

甘美だ。時間というかたちが

溶けていく夢中という疾走で

生涯を駆け抜け、気づいたら死んでいた。

という人生であったならサイコーだな、

と思う。なんだ、やっぱり生ききること

じゃねぇか。

 

「次元の壁」の前で手酌であおる

酒は塩辛い。それを大きく笑って

飲み干すような、大人でありたい。