せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

自信は根っこ。「よう、ちゃんと養分吸えてるか?」

 

「把握しているぞ」というアピールは

いったい何なのか。

おおよそ、「どれだけ大きいことを

いっても所詮子供だ」という安心感を

得たいのだろう。だとすれば、ずっと

管理しつづけることはできないという

不安や一種の寂しさを感じている

ということか。だから存在感アピールを

してしまうのだと思うと、親というより

命ある存在者へ対する哀愁のような

ものを感じて、ピントを会わせる

ことを躊躇してしまう。

もうすこし年を取って、安心して

立場が逆転する事態に身をまかせられる

ようになればまた違うのかもしれない。

移行期間はちょっと難しいよなぁ。

 

 

どうやら頭が悪いとか自分の考えがない

ことに、かなりコンプレックスを

感じているらしい。思うに、それ自体は

今からどうにでもなる些細なことで、

本当に根深いのが「自信のなさ」だ。

だから、他人の選択に何かしら

不安要素を見つけ、怖がる。

自分が選ぶこと(またその結果をうけとる

こと)に自信がないからなのだが、

投影している自覚はない。

なにも選ばないなんてできないのに、

なるべく選択を避けようとする。

そのくせ、選択肢が広がるからと

勉強させようとするのだが

なぜ選択肢が必要ないと体現している

人の説教を素直に聞くと思うのだろう。

子供は矛盾に敏感だ。なめちゃいけない。

 

私はあまのじゃくのへそ曲がり

だから、納得できないという理由で

放棄していた時期もあった。

おそらく一番勉強すべきときに放棄

していた(!)でも後悔はしていない。

好んでやるようになったのは、

結果が出る喜びと世界がひろがる驚きを

発見してからだ。

もし勉強が選択肢のためだと

信じて義務的にやっていたなら、

生涯学ぶ楽しさを知らないままだった

かもしれない。

選択肢を広げるなんて綺麗事で、

結局進学のために勉強して

良いとされる会社に入るという

一つのルートしか認めていないから

「後悔してるでしょう?」なんて

いえるんだろうな。

自分の大事がわからなかったら

磐石そうな選択肢もそのレパートリーすら

意味ないのにね。

 

子供に勉強させたいなら、

自分自身が楽しそうに勉強することだ。

そしたら、見よう見まねで真似するよ。

 教養は、世界を翻訳者し

自らのせかいを拓くためのツールだと思う。

あくまで手段だ、目的じゃない。

だから金、学歴、就職先、資格、婚姻等も

もちろん目的じゃない。

生きることにゴールなんてない。人生は、

生の起源から終末までの

「軌跡」のことだ。それはまさしく、

連続であり過程だろう。

ゴールと感じる区切りも、

結局過程の上にある。最終ゴールと

思える死にいたっては、生の外にある。

私たちに関与できるのは、あくまで

生の終末までなのだ。終末は死ではない。

終末のさきにある死まで関与できると

思い込むからおかしくなる。それに傲慢だ。