せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

その弦は震えているか

 

おはようございます、ぴーやまです。

今日は「感動」について!

 

感動は、せかいを拓く上で

非常に重要な要素だと思っている。

感動には起こす側と起こされる側

すくなくとも2以上の存在者が

必要だと考える。

つまり他の存在者(注:人間に限らない)

が不可欠だ。自分が自分の考えや

なしたことに対して起こるのは

震えであって感動ではないと思う。

どちらかといえば、興奮に近い。

 

もちろん、2以上の存在者が接すれば

感動が起こるのかと言えば

必ずしもそうではない。では、

感動を構成している要素は何か?

主に、3つの要素が揃う必要があると

考える。

 

①「存在」という共通項

すべての存在者は、なんらかの

かたちをもつ。それは、「存在」の

一部であり、「存在」の多様で多面的な

要素を各々がわけもっていると

いうことだ。つまり、我々は「存在」の

一部分を示しているだけだということで

ある。肝心の「存在」そのものは

我々存在者の起源であり、原子であり、

すべてを含むわけで、存在者の

門戸外にある。

それは、アダムとイヴを創造した神を

存在させたものやビッグバンを存在

させたものを考えてみるとわかる。

遡れば、存在そのものは存在者の手の

内にはないのだ。

ゆえに、「存在」がなぜ多種多様で

どれ程バリエーションがあり、

そもそも何ゆえ在るのかについては

答えることはできないだろう。

(それっぽい答えを見つけても、それは

一つのかたちである以上すでに存在に吸収

されている。存在そのものに意味をつける

ことは不可能である)

しかし、一見バラバラに見える存在者の

共通項として″在る″ことがあげられる。

在ることは実存に限らない。

ゆえに空想や死者ももちろん在る。

つまり、ないものはないのだから

すべてあるといってよく、その意味で

在ることは存在者の共通項である。

すなわち共鳴の土台である。

 

②演者の「震え」

演者、すなわち感動を起こす側の

「震え」は不可欠だと考える。この

震えとは、自らのせかいにおいて

意味エネルギーを最大限燃やし

解体や創造を体現しているときに

起こるものだと考えている。

(→人間という存在者においては、

震えを意志できると考える)

自己を越えてほとばしる「いのち」

といってもいい。絵画やコンサートで

感動するのは、それがきれいで心地よい

からではない。「いのち」の燃焼を

見るからだ。あくまでその瞬間に

今あるすべてをかけるという熱が

伝播するからだ。

 

③観客の「弦」

もちろん、演者の震えだけでは

感動とは呼べず、他者が震えて

初めて感動と呼べる。

そのためには、観客すなわち

起こされる側の「弦」が必要である。

これは感受性とも言い換えられるが、

この弦が手入れてされほどよい

遊びをもってピンと張られた

状態でなければ、いくら演者の腕が

あっても良い音は鳴らない。

 

 

思うに、①を土台とし②と③が

揃ったとき「感動」が生まれる。

そして感動は、共有され昇華した

確かな震えは、互いにとってせかいを

揺るがす力になりうる。

それは、刹那的な透明な統合であり、

瞬間的に孤独を癒す力がある。

(=自他の境界線が蕩ける至福)そして、

己のなかで発酵熟成し、次の感動を

紡ぐ力(震え、熱、感受性)が醸造

されていく。

 

すべての存在者は起こす側と起こされる側、

どちらの側面も持ち合わせている。

また、ほんとうの「感動」においてのみ

かたちの孤独は瞬間的に癒えるが、

存在そのものでない故の孤独は

なくならない。持ったまま生きていく、

少なくともそう意志できるのは

人間という存在者のおかしみかもしれない。