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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

祈るにはまだ早い

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「祈り」について!

 

特定の宗教を持たない人は多いし、

わたしも信心深い方ではない。

でも「祈る」という行為は、

誰に教わらずともあるかたちで存在

していたと感じる。

たとえ神社で手を叩かなくとも、

教会で牧師の説教を聴かなくとも。

「祈り」の本質は、神なるものとの

交信だろうと思う。

 

仏閣やパワースポットをめぐる企画ものや

霊感商法なる詐欺事件の横行からも、

神なるものへの関心の高さがうかがわれる。

でもさ、それは本当に「祈り」かな?

ファストファッション、ファストフード、

ファスト祈りってくらい

隙あらば祈ってるようなアレは

単なる願望じゃなかろうか。

 

 

わたしにとって、神なるものは

存在だ。存在そのもの。

そして、わたしが「祈る」のは

生涯を通し存在そのものに迫ること。

具体的には、(自力では操作できない)

迫るための出来事や出会いについて。

それは、楽しいことや嬉しい出会い

とイコールではない。

勿論かたちある存在者としては、

苦しいこと痛ましい出会い等は

正直いってとても怖い。

でも、存在に迫る中でのものならば

その杯を余さず飲み干したいのだ。

 

 

だから、わたしはすべてを差し出す。

それは場合によって差し出すとか、

程度によって少し差し出すとか

ぬるい話ではない。いつでも全部

まるごと差し出すのだ。具体的にいえば

生ききる姿勢であり続けるということ。

それが、わたしの「祈り」にたいする

対価だ。

 

 

自力では操作できないこと、

という意味では願望も同じだろう。

結婚できますように、子宝に

恵まれますように、家内安全であります

ように、健康長寿でありますように…

あげればきりはないが、では対価は?

と問われたとき答えられるだろうか。

お賽銭だろうか?神は対価なんてケチ

臭いこと望まない?

 

前者は拝金主義のリアリズムで

本心では神なんて信じてないし、

後者は自力で操作できることさえも

丸投げして惰眠を貪っているだろう。

願望における対価は、問いに答え続ける

ことだけじゃないかと思う。

なぜ、なぜ、なぜ… 

それらの問いに、自分のことばで答える。

その上で、その先で、願う。

最後の一点で。

 

 

祈りを北極星に、願望をランタンにして

濃紺の世界を拓いていきたい。

誰も到達していない、未開の地へと

続くこの道を行きたい。