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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

はじまり

 

おはようございます、ぴーやまです。

新年度始まりますね。

命のはじまりも考えてみたくなりました。

 

この頃、子供を産むか否かに

ついて考えることが多い。

結婚してないし、そもそもその予定も

まるでないのになにいってんだ(笑)と

思われることだろう。

でも、なんとなく~で

選択したくないし、選択してはならない

ことだと思うから考えておきたい。

 

 

まず、単純に子供が欲しいか否か

ということを考えてみる。

幼い子を見て可愛いなぁと思うことは

あるけれど、犬とか猫に思う愛玩的な

可愛さの域は出ていないと感じる。

母性が強い人だと中学位から

子供欲しいなぁと口にしていたのを

思うと、なにがなんでも

欲しいタイプではないのだろう。

欠如とまではいかないにしろ、

だいぶ弱めなんじゃないかと思う。

(あるいは、彼女らも愛玩的可愛さの

ままに産んでいるのだろうか?)

 

次に、なぜ子供を産むのか考えてみる。

本能。それもあろう。

愛する人の子供が欲しい。あるかも

しれない。

社会のため。およそ労働力

としてという意味だろう。頷きたくも

なるが、人であることは生産の反面

消費から逃れられないことも

忘れてはならないと思う。

自分のため。育てる楽しさや

一人前の証、老後の支え、暇潰しに

理想の再現、血をわけた存在が

欲しい、愛情を注ぐ対象、かすがい、

家庭に入る口実、何らかの自己実ら現…

親の期待。孫の顔がみたいに答えるのが

親孝行になるのかもしれない。

様々まとめると、生物的・社会的に産んだ

方がいいと思うからというところだろう。

 

では、なぜ産まれたか。

どのようにして、ではなく、

何ゆえに産まれたか。その答えは、

存在のなかにしかないと思う。

存在者である我々の思い込みや願望で

決まるものではないし、そのような

慰めは本来の意味を持たない。

この「なぜ」を、どのようにしての意味に

とらえる時答えを見いだそうとして

八方塞がりになる。

望む望まないとか、どのような動機で

なんてのに確たる答えがあったとしても、

それは媒介としての生産者(親)の

時点の思いにすぎない。

何ゆえにという問いには、存在者である

我々は誰一人答えを持っていないと

いうことを頭の片隅にいれておきたい。

 

 

まあ、なんやかんやいったけど

一番気にかかっているのは

存在に迫るにあたり子供を産むことが

どういった展開をもたらすのか?

ということだ。

子供という新しい存在者のせかいにより

世界の一部が拓かれるのは、親として

喜ばしく存在者としてワクワクすると思う。

けれども、そのために人一人を

何十年とこの世界に留めておくことは

倫理的ではないのでは?と考えてしまう。

わざわざ存在者としてかたちを持たせる

ことは、わたしの価値観からすると

破壊に近い解体のように感じる。死が存在者の最大の解体なら、誕生は存在の最大の

解体だろう。存在の中からポンと

押し出されることを、よかったね!と

心から思うことが私にはできない。

確かに存在者として押し出されなければ

全景をみることは出来なかろう。

その意味で、かたちをもつことは

有意義ある。

だからといって、存在そのものの圧倒的

豊かさから引きずりおろすことを

素直に肯定できるわけではない。

 

けれども、生殖活動によって子孫を残し

生存競争を生き抜いていくという

生物全般の共通項を思うと、

もっと大きな意志がはたらいている気も

してくる…。

 結局わからないということだけ

わかった。あるのは、自分と世界との

約束だけだ。いかに世界を拓くか、

その姿勢へと着地する。

 

 

 

わたしが何かを残したいのは、

個体(あるいは生命体)として逃れられない

有限性を、全体の一部であるという

かたちで克服することで、永遠性を

獲得できると直感的に思うからだ。

(これは四次元には到底できない、

かたちをもつ三次元特有の超克のあり方 

だと思う。四次元を目指すんじゃなく、

異なる方法で永遠性を獲得するのだ!

今ひらめいたけど、この方向は

新鮮でワクワクするナァ。)

 

それはつまり、わたしという個体が

終末を迎えても世界は続いていくだろうと

期待できることを意味する。

この期待とは、世界の存在者らが

もつ「なにかできそうな気が

する」という予感に裏打ちされている。

予感は環境と能力の側面をもつが、

つまるところ世界が未完成であり

せかいが拓ける環境があることと、

その過程に各々携われるということだ。

人生は、過去を認めより豊かな未来を描き

今この時を生ききっていく過程そのものだと

常々思ってきた。でもそれだけでは、

生の終末を生ききる在り方が説明

しきれなかった。わたしのせかいが終わる、

その未来が生々しく実感されるほど

今を生ききることは困難になってしまう

のだから。

けれども、「全体の一部としてのわたし」

という視点を持つことで、その困難は

わたしの破壊ではなく全体の解体として

認めることができると思う。

(生々しく終末を感じられない今においては、

その視点が北極星を見いだすだろう。

つまり、どの段階においても重要な視点だ)

 

子孫を残すことは、続いていく世界の

一つの象徴なのだと思う。

各々のことばでもって、残る存在者の

せかいを揺るがすことや存在者が

せかいを拓ける環境を整えること、

拓いていく能力を見いだすこと…

これらも続いていく世界を描く方法だ。

(もちろん、それを受けとる存在者が

いることも暗黙のうちに含まれている。)

 

私は、後者にとりつかれている。

それは前者の可能性を捨てることを

意味するわけではない。が、少なくとも

生まれてくる一人の人間を巻き込む以上、

全力を注げないことにたいして

折り合いがつけられないうちは

産みたくない。

 

いつまでもつけられないかもしれない。

年を取って産むのが難しくなってから

ほしいと思うかもしれない。

そのリスクを見なかったことにも

誰かや何かのせいにもしない。

両手にもったまま引き裂かれ続ける

覚悟はできている。

※この覚悟は、失敗体験の承認でえた

自信に裏打ちされている。つまり

できなくても何らか得られるものがあり、

また再起可能だと信じているということ。

それは物語力のうち、素材の豊かさではなく

構成力の豊かさに依るところが大きい。

 

 

せっかくだから(?)

生の終末のイメージをまとめておく。

おそらく、意識が朦朧としながらも

次元の壁を超えることが直感的にわかり、

別の感覚が冴えてくるだろう。

肉体の心拍数は下がるが、感覚の心拍数は

急上昇する。バクバクなるテンポが

早まり、早まりきって一つの音になる。

連続が点になり、すべてになる瞬間がくる。

残る世界を照射していた最期の姿勢の

まま突入すると、壁を越えるとき背面から

はいり見上げるかたちになるだろう。

「あぁ、これが存在の」

光。そう思うのと同時にそのものになる。

 

今だって粒子に違いないけど、かたちを

もつとどうしてもリアルに実感できない。

だからこそ、意味であれるのだろう。

 

 

 

拓け。それだけが人生だ