せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

吸収される″ソレ″は一体何なのか?

 

 

肉体というかたちをいずれ

失うことは感覚的にわかる。

土になるとか、骨が残るとかは

結局「物質」としてだ。

(抜けた髪の毛やその辺に落ちた細胞が

わたしではないのと同じ意味)

なんのための肉体か?と考えれば、

土になろうが骨になろうが

それは失われたといって差し支えない

と思う。

*墓は、残されるものが

死者とつながるための象徴として

かたちをのぞむから存在するわけで、

それだけで十分なのだと思う。

 

 

では、生命が肉体をかたちとして存在

させる機構であるとすれば、

それは脳にあるのか心臓にあるのか?

簡単に言えば脳死を死とするなら脳、

生とするなら心臓だろう。

論争になるくらいだから、立場の取り方や

切り口によって異なるのだろうし

個人の意見もどっちかに少し寄る程度だ。

 

肉体は、世界とせかいの媒介であり

道具である。だから、

肉体が道具として使いこなすことができず

媒介になり得ないと考えられるとき

生死の論争が起こる。(脳死など)

生命をもつ入れ物であるだけなら、

例え媒介になり得ないとしても

何ら問題はないはずだ。けれども、

私たちの感覚としては

「それで生きているといえるのか?」

という疑念が沸いてくる。

 

 

たぶんそれは、私たちが「なぜ生きる

のか?」という問いを解明出来ない

からだろう。自分はこう思う、と

ある立場をとることはできるが

それは解明ではなく解釈だ。

生きることそのものでやっと証明を

積み重ねる可能性が残されているに

すぎない。

*こういう時、「次元の壁」の

後ろ姿がちらっと見えて虚しいなぁと

思う。でも、これが最も底にある

問いだと思うと、妙に安心する

気持ちもある。これ以上底はない

からなのか、存在者の足場だからなのか

さえわからないのだけれど。

 

 

 

で、本題。

肉体と生命(脳or心臓)が連動しているのは

わかった。死ぬということは、連動する

そのセットの運動が終わるということで

あり、かたちを失うということ。

(存在者の運動が起きないということで、

残されるものはそれが悲しかったり

ホッとしたりする。)

 

かたちを失う、そして

存在そのものになる。個として

かたちを超える唯一の方法が

肉体という境界線を

超えることなのだと思う。

だとすれば、存在そのものに

吸収される″ソレ″とは何なのか?

 

 

 科学的でいうものとは似ていて異なる

ひかり?それとも、存在者がわけもつ

愛だけ残るのかな。

 

あとずっと気になっていること。

すべてあるのかな

それとも、不全状態もある?

人が決めたことじゃなくて。