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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

生きると生ききる

 

そもそも、生きるって義務や権利なのかな。

選んでないことを生まれでてから選ぶのは、

生ききるためだ。

そうでなしに、義務だとか権利だとか

言い合ったところで何も出やしないと思う。

 

生命は、連鎖的に引き継がれてきたもの

だけれど、誰かから与えられるもの

ではない。何人もその行方を定められる

ものではない。

永遠を求め、引き継がれてきた生命の連鎖。

個々の命の不死を実現することで完成される

と思うのは、かたちゆえの過ちだろう。

 

 

何が言いたいのかといえば、

全体の意志として希求される『永遠』と

それゆえに引き継がれてきた生命。

その連鎖のうちに生きることは、

大きな意志の働きによって与えられた

ものなんだと思う。

けれども、生きることを選ぶことは

与えられるものではない。意識的かつ

能動的な行為である。

すなわち、大きな意志を認め

永遠なるものを求めることだ。

存在そのものである、愛を求めることだ。

 

でも私はかたちを持つから、

愛そのものにはなれないし、

最期までその全貌を知ることは

叶わないだろう。

けれど、その多面体のある側面なら

かたちの中に認めることが

できると思う。愛をわけもつのだから。

 

認めることは、必ずしも肯定ではない。

在ることを、在るね、と点検するだけ。

そこから愛に迫ることは、すなわち

愛でないものを明らかにしていく

ということにほかならない。

これは違うね、これも、それも。

違和感と怒りを頼りに、いびつな目を

自覚しながらできるだけそのままを

見ようと努める。それが生ききる姿勢

だと思う。

 

 

日本の年間自殺者は、約三万人。

未遂者も大勢いるだろう。

経済や物資の豊かさが

幸福感をもたらすのは事実だろうが、

生きることに踊らされているだけ

だとすれば、無味乾燥じゃないか?

その得体の知れない鬱屈がはびこって

いるから、忘れるためにさらに

豪奢に着飾りけばけばしく踊る。

踊ることに疲れた人間や不向きな人間は

刹那的に生きることの鬱屈を認めただけだ。

自殺者や未遂者のなかに、生ききるために

死を選んだ人間はどれだけいるだろう。

刹那的に生きることと永遠を求めて

生ききることはまるで違う。

ふざけるな、ちゃんと見ろ、と思う。

かたちで解決できることなんかで

死ぬんじゃねぇよ、なぁ。

かたちで超えられないもののために

賭けるもんだろ、命はよ。

 

そんなことを考えていると、

いつの間にか次元の壁の前にいる。

にらみつけながら、どこかに穴を開けて

やろうと酒をあおる。

酔ってたまるか、踊らされて終わるもんか。

そんな気持ちになる。