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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

答えられなかった問い

 

『なぜ死にたい人を殺しては

ならないのか』 

 

大学の時、哲学の試験で出た問題。

習った内容とか教授の性格とか

自分の経験とか三面記事とか

頭んなかで切り貼りして書くには

書いた。

でも、納得いく答えは書けなかったし

いまだにこれだと思う解答は得られて

いない。

 

この問いの核は、

『死にたいと思う人がなぜ

死んではならないのか』

という点にあるだろう。

命が私だけのものではないから、

という解答は優等生だけど

突き放した冷たさを感じる。

宗教的、経済的知見はいうまでもなく

隔たっている。

切実に、私事として考えようとすると

底がスコンと抜けるような

無重力感。

 

 

大きな病気もなく、老いにも遠く

生活における不足や不快も特になく、

周りの人にも認められ、社会とも

つながりを感じられ

休暇もありぐっすり眠れる。

週末には出掛けの予定もあり、

その気になれば旅行にも行ける。

朝は満員電車に乗ることもなく、

夜は蝉の鳴き声が微かにきこえる。

 

疑うまでもなく満たされている。

欲しいものも取り除きたいことも

多少はあるが持ちえるレベルだ。

それでも、それなのに。

 

 

前を向く、という意味がとっくに

わからない。甘えやゆとりの審議は

何回しただろう。

今は罪の意識もなく、ただ問いたい。

生きることに納得している人間が

死を望むのはなぜなのか。

 

″有限な私が永遠を求むこと、ほとんど

それは死を望むことなのだ″

そういうかたちで、死にたいも含めて

認めてきた。

カメのようにじっと背負って。

 

ふと、なんでこんなことしてるんだろう?

と冷静になってしまう。

いくら理由を探しても、

それらしい着地点を与えても、

結局「純粋な死にたさ」はないものとされ、

死にたい気持ちは誤魔化しながら

生きていくものであるとされる。

 

確かに、死を望む気持ちが

肯定されれば色々厄介ではある。

みんな、幸せに生きたいという

名目のもと頑張ってきたのに。

そこから外れるやつは外道なのだろう。

欲のために罪を犯す、

愛のために心中する…

そこには生き物の獣臭さがあり、

蔑まれながらも共鳴する部分がある。

そこへして、一見穏やかな人間の

自分の死にたさは余程おどろおどろしい

ものがある。犯罪はおかさないゆえに、

一層狂気的だ。

 

わからんなぁ。

とりあえず、起きないことを

緩やかに願って