せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

一つの青い照明、その点滅の奇跡

 

 

全くなにも上手くいっていませんが

落ち着いているというか、

自尊心・損なわれず

好奇心・だだあがり。(笑)

 

かたちへのこだわりがなくなった、

ということは良いことなんだろうか。

どんなかたちでも認めると

決めてしまったら、なんでも来い状態。

むしろ認めがたいことに挑戦したいという

欲求さえある。

 

 

存在していることに特定の意味はない。

というより、かたちが意味であるだけだ。

かたちである限り意味から逃れられないが、

評価から逃れることはできる。

評価は、ある特定のかたちにとって

利益になるという意味合いで、一般に価値と

呼ばれる。けれども本来、価値は

「ふさわしい」という表現の方が正しい。

存在価値となれば、かたちある存在者として

己のかたちを出しきる状態、という訳が

しっくりくる。ふさわしさはかたちによって

異なるから、様式も無論異なるだろう。

 

すべてのかたちある存在者は境界線を持つ。

推測だが、おそらく存在そのものは

かたちがない。つまり、境界線を持たない。

存在の豊かさを認識する為に存在者が

かたちをもつのであれば、他のかたちとの

境界線を明確にしたりあるいはすべて

飲み込んで一つにまとめたり(世界宗教的なイメージ?)する方向性は、違和感を覚える。

各々のかたちを出しきるのであれば、

他のと境界線ではなく、己の輪郭を打ち出す

という方が近いのではないか。

だからこそ、かたちを出しきる

つまりいききる状態は幸せに勝るのである。

 

かたちは意味である。しかし、特定の意味

を持つわけではない。だから、○○しなければいけないとか、○○することが

いきる意味とか、たぶんないよ。(爆)

意味付けは存在者が生きやすいように操作

されているにすぎない。そして、その

役は本来存在自らが背負わなければ

ならない。かたちを出しきるために、ね。

にもかかわらず、放棄し追従するかたちの

多いこと。選ぶことは恐いからね。

生きることを選び直す、という過程を

経ないと背負うことはできないのかも

しれないなぁ。

 

私はこのかたちをどのように出せるだろう。

木の中に眠る仏像を掘り出す仏師の如く、

余分な諸々を脱ぎ捨てて打ち出さねば。

そうやって生ききる時だけ、かたちの

虚しさが癒される。

一つの青い照明である我々は、

点り続けることはなく、瞬間ちかっと

発光して収束する。別の点滅が続き、

それはあたかも一つの光が

点り続けているようにみえる。

まるで永遠のよう。

そうやって、この有限の虚しさを

ごまかしてきた。それを欺くことだと

卑しく思っていたけれど、祈りでも

あるような気がした。

バベルの塔は透明なかたちでもって

今も積み重なっていると、

信じることは哀しいのかな。

 

かたちであることを認め、

かたちである今を生ききりながら

無形をいとおしく思うことは

可能だろうか。

かたちを肯定することが無形の否定には

ならないと、証明することはできるのか。

正反対ではなく、対になっている。

かたちはないけど、終わらない世界。

ルートは無意識中にあるのか、

はたまた目覚めたまま見る?

 

繁殖と形の永続性の是非は

問い続ける。安易に納得などしない。

にらみ合いながらジリジリ過ごす猛暑、

熱中症に気をつけましょう(⌒‐⌒)エッ