せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

拝啓 K様

 

暑い日が続いておりますが、

いかがお過ごしでしょうか。

私は外に出るのも億劫で、

冷房のきいた部屋で本を

めくり、想像世界でいきいき

過ごすような休日を過ごしております。

 

先程、好きな詩人のあるお方が

「他者と言葉を響きあわせるために

言葉を探す時間があってもいい、

言葉との関係を深めてよい」と

仰っていました。

およそ納得するところで、

相変わらず良いこというなぁと

膝を打ったのですが、同時にちょっとした

違和感を覚えたのです。胸の端のほうに

スッと隠れたその違和感を

点検してみたのですが、それは

言葉に対する希求が強い受け手は

それほど多くないのではないか?という

素朴な実感でした。

 

自分の言葉を求める人間の多くは、

おそらく意味付けする必要があった

人たちだと思います。あった出来事を

そのまま受け取ることが難しい人たちが

自分の言葉を求め、過去を自らの言葉で

語り直すのです。そうすることで、

認めたいと望むからでしょうか。

ノスタルジックな中2の自分を

抱えたまま大人になった人、とも

いえるかもしれませんが。

 

人は意味を見出だすために、言葉を

探したり深めたりする動物なのだと

思います。そして、見出だす必要が

別段なく暮らしてきた人たちは

およそ幸せに過ごしてこられた人

なのでしょうね。

 

 

けれども、宇宙における時代という

大きな物語を考えると、そうも楽観して

いられないように思うのです。

この大きな物語は序章から始まり

二章、三章と綴られてきており、現代まで

一連の繋がりを持っています。

そして今、大きな転換期を迎えつつある。

人工知能の発達に伴うシンギュラリティが

一つです。そして、地震地球温暖化

伴う自然災害の大規模化。

また、医療技術の発達に伴う

生命維持の長期化と死のリスク軽減

および人口爆発

到達の時間は予測より前後するでしょうが、

完全に食い止めることはできないでしょう。

できるとすれば、改めてその意味を

問い、どう向き合うか考え直して

舵をきることだけです。かたちの本来性から

考えても、航海をやめることは

できないはずですから。

そして舵をきるからには、搭乗員が

総力戦であたらなければとても間に

合いません。カリスマ的リーダーが

己の考える正義のために歪んだ政策を

繰り返してきたことは、大きな書物の

前章を読めば明らかですね。

だから、リーダーによる統制を待つのでは

なく、総力戦による戦術を考えねば

ならないと思うのです。そしてその前提

として北極星を目指して舵をきる

意味を理解し、己の役割を見出だし

投入しなければ、混乱するばかりです。

人は正しさのために殴りあってきて、

いまなおそうなのです。

不毛な争いを止めるには、罰則や

脅しではききません。ほんとうに何が

大切なのか、肚で納得するしかありません。

それが難しいからと避けて安易な方法に頼り

応急処置をしても、どこか必ず

裂けるでしょう。

 

 

確かに時間の長さでいえば人類の歴史は

短いものではありますが、

だからといってああそうですか、

と統制する役割を別の知的生命体に

受け渡せるものではありません。

無論、他の生命体や自然から必要以上に

奪いすぎたり、まして次の世代から

前借りしたりして搾取を積み重ねて

きている私たちです。

横の時代、しかも人類という種族の中で

いかに生き残るかしか考えていない

ものですから、奪還されても反論できない

かもしれません。

資本主義の跋扈する世界は、

格差の固定化および拡大が顕著です。

富めるものは損をしないよう疑り深く、

貧するものは生活に手一杯で生きることを

志向することができません。

社会とつながるにはそのツールとなる

言葉が必要ですが、教育は商品化され、

しかも高級品ですから。

また、できることがあるという予感を

持ち、豊かに未来を描くことも相当に

難しいことでしょう。

 

 

話が長くなってしまいましたが、

要するに言葉を求めぬ人々にどのように

働きかけていけるのか?ということです。

半径五メートルの幸せを守ることは

精神衛生上そしていきるを認めるために

大切なことではあります。

しかし、基準がそこにしかなく

主観の損得でしか物事を測れない

のでは、一搭乗員として不安です。

乗客ではなく、クルーであろうと

どうしたら語りかけられるでしょうか。

 

マズローさんの理論を借りれば、

とりわけ先進国の比較的裕福な

人々において、自己実現の段階へ

進みつつあるように感じます。

けれども、腹を割ってみれば

認められたいという渇望が

透けてみえることが多い。また、

自己実現の先にある自己超越の段階。

ユートピアの創造やみんな平等・愛が

大切、マインドフルネスで宇宙とつながる、

動物を食べるとはエゴでいやしい…

そういうもっともらしいセリフで

さばく人びとが、自己超越の段階と

賞賛される風潮もなんだかなぁと思います。

それらの大きな選択は、本来ギリギリの

ところで差し迫られて

泣きながら選ぶようなことです。

安全地帯からなんとなくみんなハッピーな

方を選ぶというような易いものではない。

何かの恵み、ひいては犠牲なしには

我々は生きていけない。それを切り離し、

操作できると頭で簡単に考えるから

原子力に頼るというところから抜け

出せない。そういう危うさと背中合わせで

あることを肝に命じるべきだと、

思うのです。

 

情報化の恩恵を受け、我々は

大きな物語を読むことも出来るし

同時代の識者たちの結晶に触れることも

出来る。大変恵まれた時代であると

思います。しかしながら、それ故に

他者の言葉にたいする敬意や

自ら思考し言葉を見出だす意義という

ものが軽視されているのかもしれません。

ネットで調べれば大抵のことはわかります。

しかしそのわかるは、つまるところ頭で

わかっただけで、心や肚のわかるとは

全く異なるものです。自分の言葉を持ち、

ぶつけていかない限り、それらはただの

記号として浮遊する文字でしかなくなって

しまう。自分にとって心地よい言葉で

周りを飾り、それを自分の世界だと

履き違えるような没個性的なかたちたちに

憤りを感じずにはいられません。

そしてまた、情報の多さに満足する限り

台頭してくる人工知能と共存していく

ことは難しいのではないかと思います。

なぜなら人類は情報を記憶するメモリでは

完全に負けてしまいます。勝つことは

難しくとも、対等にわたりあう部分が

なければ共存ではなく淘汰されるだけ

ですから、それを避けるには情報と情報を

つなぎあわせ物語を描く力を

伸ばしていくべきでしょう。

原始時代、身体能力では他の巨大生物に

及ばなかった人類はどのように衣食住を

確保し、今日まで子孫を繁栄してこられた

のか今一度考えてみたいところです。

 

一人一人の搭乗員が歪んだ認知を補正し、

思考を深め、言葉を磨く。その地道な

積み重ねなしに、一足で平成の世は

実現できないと思います。

そしてそれは、ただ苦しくつらい

戦いなだけではないと確信しています。

北極星を目指すのであれば、

他者と戦うのではなく言葉を求め己と

闘うことになる。そうして

せかいを拓いていく喜びや得られる

豊かさは、本当の意味で人びとの渇望を

癒すことになるのですから。

 

 

 

すっかり話しすぎてしまいましたね。

お忙しい中お時間を割いていただき、

ありがとうございます。

一クルーとしてどうあれるのか、

心して丁寧に生きていきたく思います。

残暑の折、どうぞご自愛ください。 敬具