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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

死ぬ権利じゃなく、生ききる権利

 

 

パラでメダルをとった女性が

安楽死で亡くなったという。

享年40歳。

耐えがたい痛みを抱え、

晩年は夜も眠れなかったそうだ。

 

世界最高齢でギネス認定された

女性が後悔していることを聞かれ、

「長く生きすぎたこと」と語った。

知人や子供たちを見送り、

生き続けることに虚しさを感じたそうだ。

 

 

あげればキリがないが、そろそろ

本気で考えた方が良くないか?

存在価値を生産性で測る社会だから、

導入に慎重なのだろうけど。

迷惑がかかるから生きたいけど死ぬ、

という事態を防ぐ方法は検討すべき

だと思う。だからといって、

尊厳死そのものを導入しない

というのは話が違う。

 

 

 

尊厳死は死ぬ権利じゃなく、生ききる

権利として必要だと思う。

我々は生まれることも死ぬことも

本当の意味で選ぶことは出来ない。

選べるのは、生の起源と終末までの

過程だけだ。そしてその過程で

行われる選択の数々は、どう生きるかの

選択だ。

生の終末を選ぶことは、生き方の選択

における集大成ともいえるのに

なぜこんなに不自由なのか。

 

 

かつてのように、40歳50歳で死ぬのなら

かたちを出しきっている間に

死を迎えられたかもしれない。

でも今は、80歳90歳まで平気で生きる

時代だ。かたちの終い方と向き合うのは

自然な流れだろう。

 

 

万物は流転し、かたちは変化し続ける。

生まれ成長し衰退し死ぬ。それらの運動は

意味を求めるかたちの特性(エネルギーでも

ある)により引き起こされる。

意味のないかたちなど存在しえない。

かたちが意味だからだ。

我々が意味がない、というとき、

それは存在価値がないと訳す方が近い。

だが、存在価値とは何か?

資本主義社会に生きる我々において、

生産性という答えが模範解答だろう。

より多くのより多様なかたちを

生み出す個体こそ存在価値が高い、

ということだ。

でも、本当にそうだろうか?

それではわざわざかたちであることの

説明がつかない。無形であれば永遠なのに

あえてかたちを持つのだから。

有限であることの意味を頭が擦りきれるほど

考えなくては。思考停止している

場合じゃない。

 

 

一方で、死を克服しようとする

人々がいる。それを望む人がいる。

話してみたけれど、健全である。

健全すぎるくらいだ。

生きることの是非を疑っていない。

彼らは人口が増え生態系が乱れても、

なんとか破壊を食い止める方法を

考えようとするだろう。

根本的に生まれてくること、

かたちを持つことがあらゆる問題を

引き起こしているのにもかかわらず。

なぜそこを見ない?

生きることに恋をしているんだろうな。

その方が生きやすいことはわかる。

それでも、生きることを愛したいのだ。

恋ではなくて。見とれずに、認めたいのだ。

 

 

生きることはいいことなのか?

愛したいからこそ、問いつづける。