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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

かたちを続けていくこと

 

 

死にたいと思うことは解放への希求で

あって、特定のかたちへの絶望ではない。

かたちでしかあれないことに虚しさを

感じているわけで、別のかたちを

あてがわれても消えるものじゃない。

 

○○であれば生きていたい、

というのは立派な生存願望だ。

どのような状態であっても

生きていたくない、

というのは歪められた願望なのか?

正常であれば、生きていたいと

思うものなのか?

 

 

かたちからの解放を望むことに

いかなる問題があるのか。純粋に知りたい。

社会が成り立たなくなる?

そもそも成り立たせなくてはならない理由が

わからないのだ。

真面目な顔で生活しながら

その意味するところがわからない。

 

 

精神的に奇形なのだろうか。

通常よりも多かったり少なかったり

するかたちを見ると、正直なところ

不安にかられる。遠ざけたいと思って

しまう。ハンセン病はうつる病気で

あるからと隔離された歴史があるが、

もっと奥の方に恐れがあったのではないか。

うつるからではなく、そのかたち自体を

恐れ遠ざけたのではあるまいか。

同じように、精神的な奇形も

遠ざけたい対象なのかもしれない。

 

 

誰かをこの虚しさとの対峙に

引きずりこみたいわけじゃないけれど、

もし対峙せずにはいられない人がいるなら

話してみたい。

そう思って、本をたくさん読んできた。

著者との対話によって、少し癒される

部分はあった。ことなる角度からの

視点も面白いなと感じたりもした。

でも結局、この虚しさは

誰かとわけもつことはできないのだと

気がついてしまった。境界線は溶けない。

 

 

生活を分析したり記述したりするの

ではなく、生活者としてこの世界に

馴染みたい。

誰かをいとおしく思ったり、また憎んだり。

何かを尊く思ったり、憤ったり。

そういう豊かさを認識するのではなく、

まさに当事者として翻弄されたい。

時々そうして寂しくなって

ふれあいを求めても、結局当事者に

なりきれない自分が浮き彫りになるだけだ。

頭ではわかっていても、時より思い出した

ように近づくことを繰り返している。

生活から離れてしまわないために。

 

 

 

 

「特定の意味などない。

無意味なのではなく、

すべての在るものは意味でしかない。」

ここが解体されない限り、

次のせかいは拓かれないように思う。

一体どのように展開できるだろう?

何らかの特定の意味をどこかから

あてがうことを私は信じられるのか。

それが祈りだとしても、

私を救うものだとしても、

おそらく私は盲目になれないと思う。

科学も宗教も正しい世界のあり方へ

近づくアプローチだと

信じることができないのだから。

 

 

解く鍵があるとすれば、

わざわざかたちであるという事実だろうか。

幸せは第一義にはなりえない。

かたちじゃない方が幸せなのだから。

この事を念頭におき、生ききること

つまりかたちを出しきることを第一に

据えた。わざわざかたちであることの

辻褄はあう。ここでまたむくむくと

沸いてきた問いは、続けていくことに

由来する。このかたちを続けていくことと

繁殖という方法でかたちを引き継いで

いくこと。かたちを出しきることは

ある程度納得したけれど、続けていくこと

は別問題だ。

ここで、停滞している。ざっと2年くらい。

続けていくことを悶々と考えて

否、という結論を出しにかかっているが

となればかたちであることは

やはり無駄ということになるのではないか。

それは死=敗北の定理よりも

一層虚しい仮説かもしれない。

(生物の繁殖はもちろん、文化や思想の

継承も同様に考える。かたちが

続いていくこととは、、)

 

かたちを続けていくことは、

永遠性を勘違いしたためではない

とするならば、一体なんだというのだろう?

生きていれば楽しいこともあるよ、

などという慰めは必要ないどころか

一層虚しいだけだ。そんなことで

納得してるなら、とうに好き勝手

やっている。

納得できないから苦闘を引き受けた。

すべてのかたちが報われることを

祈るから死を敗北と思えない。

私の願いなんて祈りの前に霧散している。

だからこそ、この虚しさとの

対峙に追い込まれているのだ。

 

行き止まりまできたのかもしれない。

一度戻ろう。否、かたちを壊して

次の創造へ向かうのだ。