かたちのあるこことかたちのないそこ。
全体が一なる運動であると仮定すると、
どちらにもその起源はないのだろうか。
否、他方が他方の起源といえるのか。
ここゆえにそこがあり、そこゆえに
ここがある?
となれば、かたちのないそこでも
終わりが来るということになるだろう。
またかたちの方へ生まれでてくるのなら、
そこではある種の終わりがある。
であるならば、そこへ入ることは
一時的にかたちから解放されるだけで
永遠に無形であれるわけではない
ということになる。
つまり、かたちがないこと=永遠
とはいえなくなる。
むしろ、かたちの創造と解体を
繰り返すこの運動そのものが
永遠性をはらんでいるというのだろうか。
解体と創造、そして永遠への希求は
かたちゆえにあるのでないとすれば。
光の微粒子が結合と分解を繰り返し、
かたちへ向かうということが
あるのだろうか。