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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

良いことではない、そして続ける

 

 

生きることは、良いことではない。

かたちは不条理であり、無常だ。

それでも生きることを好む人たちは

たくさんいるし、続いていくことを

願っている。

 

かたちの存続を維持するよう努め、

妨げない態度をとることは

道徳的に正しいことなのだろう。

それは私が存続を望まなくても

或はその意味を理解できなくとも、

続けていくための一切を肯定する

根拠となる。

存続を望む人がマジョリティだから

という理由では脆い。

そもそも高齢化に伴う病苦、重い税負担、

老老介護長時間労働、過度な情報化…

そういう情勢にあって

口にせずともかたちの存続を望まない

人は少なくないと感じる。

高度経済成長期のように、頑張れば

もっと豊かになる・いい暮らしができる

という観念は持ちにくい時代である。

その頃よりはるかに便利で豊かであっても

ある種の虚しさは癒されないことを

みんなどこかで気づいていて、

観念にかわり諦念が時代の空気に

漂っているようにすら思う。

 

 

そこで、誰一人存続を望まなくなった

世界を想定してみる。

そのような状況の中にあって、

続けていくための一切を肯定することは

可能だろうか。

道徳が続けていくための秩序を保つ目的

としてあるのではなく、それ自体が

生きることを肯定するものだとすれば

可能かもしれない。

 

そう考えると、続けていくことと

それに付随する行為や規則は、

生そのものを肯定する道徳に

貫かれていなくてはならない。

感性や経験に基づくものではならない。

創造も解体もコントロールできると

盲信していたと気づくのは、

いつも制御不能になってからだ。

コントロールできないものを自然と呼ぶ

ならば、自分自身も含めて自然である。

自然と共に生きる宿命から

誰も逃れることはできない。

かたちである限り。

円環をどこかで絶つことができると

考えるのも、結局驕りなのだろう。

 

 

そうであるならば、存続の是非を問う

のではなく、なにをどのようなかたちで

存続させるかを問うべきなのかもしれない。

とはいえ、思うように存続できるわけでも

ない。

その狭間にあって、引き裂かれながら

それでもなお続けていく。

私が生きることを愛したいのは、

何らかの価値を見出だしたいためではない。

すべての在るものが、たとえ目的なく

さまよいやがて死ぬだけの物体で

あっても、在ることそれ自体を

認められうると信じているから。

 

 

生きることは、良いことではない。

それでもなお続けていくことは

道徳以外の何者でもない。

生の肯定は死の否定ではなく、

むしろ地続きの彼方にある死を認める事だ。

わざわざかたちであることの意味を

知りようもない私たちが、

かたちを存続していくことは

存在そのもの或は円環するエネルギー

にたいする畏敬であり、永遠への祈りだ。

 

 

良いことだから続けるのではない。

良いことではないからやめるのでもない。

良いことではない、そして続ける。

そしてなのか、さらばなのか

ゆえになのかはわからないけれど

これからはその道を探すのだ。

慰めも諦めもいっそう虚しいだけだから、

ただ一心にその道を求むのだ。