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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

肚でわかること

 

 

生きることはいいことじゃない

ということと、

(生きるのを)続けていくこと

が私のなかでうまく繋げられず、

前提が間違っているのか

はたまた続けていくことが

間違いなのかと問い続けてきた。

 

でも、どちらも間違いではないとすれば

私が探すべきなのは「接続詞」

なのかもしれない。

そう考えてふっと力を抜いたとき、

出てきたことばが

″さぁ、″

だった。

 

 

 

青年は考える。

生きることはいいことじゃない

だから、続けない

 

あるいはこう考える。

生きることはいいこと(のはず)だ

だから、続けよう

 

 

 

大人はどう考える?

生きることはいいことじゃない

それでも、続けるものだ

 

あるいはこう?

生きていればいいこともある

だから、ひとまず続けよう

 

 

生活や生きるのあらゆる悩みや

虚無感の奥に、この問いがあるように

思う。

現時点で、私はこう答えることを

目標としたい。

 

生きることはいいことじゃない

さぁ、続けよう

 

人生は問うものではなく

答えるもの、というフランクル氏の言は

こういうことを指すのだろうか。

続けようという意志の奥底に、

肯定を見つけた。

続けることが、私が何よりも求めている

生きるを認めることへの解なのか。

そしてこの解は、問い続けられる限り

答え続けるものなのだろう。

続けること、それ自体を通して。

 

 

私たちが選べること、力およぶ領域は

考えているよりきっと狭い。

それは不条理と嘆かれ処理されるが、

生きることはそもそも不条理だ。

いいことではなく、さらに続けるのだから。

ただ、別のみかたをしてみると

そこに超越したものへの畏敬が感ぜられる。

続けていく営み自体が、我々を包む

無量光を尊ぶことであるかのように。

考えのおよびもしないなんらかの

力や意志が、続けようとする我々の

少し先を照らしてくれている。

ならば、その光を求め歩むしか

道はないのかもしれない。