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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

100日後に死ぬワイ

 

 

Twitterで話題のパロディ

…我ながらくだらない( ̄ー ̄)

 

 

100日後に死ぬかもしれない。

もしかしたら、明日かもしれないし

明後日かもしれない。

だから、生きている日々を当たり前と

思わずに大切に過ごそう。真剣に生きよう。

そういうメッセージを込めたらしい。

 

確かに何気なく生活していると、

明日も明後日も来年も10年後も

波風はあれど来るものだと疑わないだろう。

でもそれは、生きることに真剣じゃない

からではないんだと思う。

 

 

(どのような軌跡を描いたとしても、)

生成し発達しやがて消滅するという

かたちの法則にしたがっている我々は、

存在そのもののの意図は解けない。

かたちにはじまり、かたちにおわる。

その点滅に何らかの意味を見いだすか

否かの違いだけだ。

無論それは真理ではない。

己の地点から見えるこの星のかたちだ。

どこまでいってもかたちだ。

 

真剣に生きることを求めたなら、

手の届かない真理とやらの前で

悶絶するだろう。だから、

生きることを真剣に考える

    ↓

大切に生きよう(はぁと)、とはならない。

 

生きることそのものを本当に考えるならば

「なぜ、それでもいきるのか」

という問いが残るだろう。

そしてそれに答える形で生きることを

続けていかねばならない。

それが本当の意味で真剣に生きる態度で

あるし、馴れ合いや感傷が入る余地はない。

 

 

 

話がそれた。

つまり、我々が明日や1年後を

想定して生きることは

生活を計画し円滑にすすめる目的に加え、

無意識の防御なんだと思う。

生きることに真剣じゃないわけではなく

真剣になると、なにげなく信じている

物事や決まりごとを一度全部解体し

点検しながら積み上げるような、

大変ややこしく潔癖な生き方を

せざるをえない。

そのような状況で生活を器用に

維持するのは困難で、意義だったものや

価値だったものの欠片の上で

ただぼんやりと生きることを眺める

ことになる。

そこで生きることを再定義できたなら、

燃えるように激しく自分の思う生を生き、

すべきことをなすだろう。

(ゴッホや賢治やソクラテス

ドストエフスキー

今なお各界で存在感を放つ人々は

そういう過剰さを持っており、その仕事や

振る舞いの端々に再定義したことばが

充満し、独特のエネルギーにみちている。)

 

だが、おそらくほとんどの人には

今見ている世界や信じている価値観を

打ち崩すエネルギーも、またそれに

耐えうる器量もない。

(せいぜい脆弱なニヒルに陥るか、

繊細であれば生きること自体に耐えられない。だから、疑わないでいられるような

自己防衛本能が働いているのかもしれない。)

 

そして、上記した人々のように

生きたいと思う人もなかなかいないのでは

ないだろうか。

絶対に届かないものを求め続ける生き方は

おのれの熱で擦りきれて死ぬまで

続くし、幸せとは言いがたい。

そうなると、本末転倒ではないか?と思う。

生きることを真剣に考えれば

当たり前のことなどなく、今に感謝し

つまりは幸せを感じられるだろうと

いうのが隠れた狙いだったのだろうが、

 

 

生きることを真剣に考え

それに万が一にも成功したならば、

所謂幸せとは縁を切ることに

なるのだから

 

 

 

 

と、いいつつも真剣に生きる人々の

存在は心弾むものだ。そのせかいを

みたい。そのせかいを確かに味わえるよう、

私も真剣に生きねば。