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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

ミニマリストの効用

 

 

【ものを厳選する】

 

かたちはどこまでいってもかたち

だけれど、私にとって心地よいかたちと

そうでないかたちがある。

できる限り、心地よいかたちに囲まれていたい。

 

 

私が好むのは、経年変化をするものだ。

例えば、銅製のカトラリーや鉄製のフライパン

分厚い牛革の財布に鞄、アタのボックス。

色が深まりツヤが増し、傷が入り込み馴染み、

美しい。

同時に、ストーリーを感じる。

植物や動物、鉱物を感じる。

命をいただいて生きていると、その変化を

見て肌で知る。大きな流れの中にいると

思うと、心強くて温かい。

 

 

あとは、無駄のないもの。

シルエットやシステム、動線など

無駄だなときづくと途端に

億劫になる。逆に計算されたかたちは

使いやすく、そのシンプルさにグッとくる。

また、色も派手な色や多色使いは

見ていて疲れる。

インテリアやファッションの

色味を穏やかなトーンで統一したら、

コーディネートにまとまりが出て

心地よいものになった。

特に服は、色形系統別にたくさん持って

いたけれど、ほとんど着ていなかったし

コーディネートに時間がかかっていた。

本当にお気に入りだけを残したら、

どの組み合わせでもウキウキするし

コーディネートも3秒で決まる。

そして、あれが足りないという気持ちが

なくなった。

これで充分。今ほしいものは、足りない

からではなく、あったらウキウキすると

わかるからだ。

今までは、この色のこの形を持っていないから

買っていた。今は、これを着たら

ワクワクするな、他のお気に入りと合わせたい

と思って買う。

だからシルエットや手触りの

イメージが具体的だし、なんとなく

しっくりこないものは買わないでいられる。

不安や渇きで選んではいけないと、

一歩踏みとどまることが出来るように

なってきた。

 

 

ものと向き合い、じっくり考えて選ぶことは、

私の大切を浮き彫りにする。

かたちに囲まれることは悪ではない。

かたちをさばくためではなく、かたちを

通し、その本質に触れるために

じっくり選ぶのだ。

 

小さく、シンプルに、変わるを楽しむ。

そうやって生きていたい。

ただ私の性格は保守よりだから、

苦しくない範囲でゆるめていこう。

なにもなくても生きられる、でも

これがあったらちょっぴりうきうき生きられる。

そんな感じで。

 

 

 

 

 

球体の世界

 

 

人が、ものが、

すべて球体だったらいいのに。

それならシンプルでわかりやすい。

 

我々が考えるべきは、かたちの些細な

違いではない。悩むべきは

かたちの色や大きさではない。

これは慰めではない。

その事をはっきりさせないと、

いつまでもかたち上のしょうもない

悩みに翻弄され、仕事に

とりかかれないからだ。

労働ではない。仕事だ。

 

 

かたちであること自体について

考える、それこそ仕事だろう(しんどいが)。

そもそも考えるとは、かたちと意味と

それらを引き受けて生きる方を

選択するために頭を使うことじゃないか?

かたちはどこまでいってもかたちだ。

かたちa→かたちa′で解決される問題なんて

もともと解決する必要もない、

勝手に問題に仕立てあげた暇潰しの

玩具だろう。

 

 

すべてが球体。

同じ輪郭と体積を持つ、まんまるの顔。

人間の記号とは一体なんだろうか。

言語を生み出す?道具を使える?

理性的である?

すべての人間に当てはまる記号は

思い浮かばない。

すべてのかたち、これも同じだ。

 

シンプルに考えるなら、時間と空間に

おいては同じ条件下にあるといえる。

一方通行の時間、これはかたちにとって

経年変化および劣化を意味する。

また、3次元空間に存在し輪郭と体積を

持つ。これらを複合して考えると、

かたちはその中に有限性を内包している。

外ではない。かたちであるために、

有限でなくてはならない。

その意味で、内包しているのだ。

 

 

 

逆に考えよう。かたちが多様である

ということは、何を意味するか。

すべてのかたちが球体ではない、

むしろ同じかたちが存在しない。

その唯一性はおそらく護られる

べきだろう。かたちの多様さは、

存在の根源にあるものの照射で

あるから。おそらく。

だから、多様性は排除すべきではない。

人権だのピースだのといった

存在者側の益を根拠とする抗議では、

多様性は護られまい。

(誰かの益は誰かの損だ)

 

 

 

では、かたちでないとは一体どういう

ことだろう。輪郭も体積もなく、無限。

なんとなく宇宙や真っ白い部屋を

思い浮かべてしまうが、それもかたちだ。

かたちがない、ということを

どうやっても考えられない。

肉体というかたちから解放されたら、

知ることができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうせ続くのなら

 

 

家庭を持ち、子を産み育てる

 

それが生きることの肯定だと決めて、

もうなにも考えずにさっさと

取り組もうと思った。

仕事、子育て、それに付随する

コミュニティ内の役割。

忙殺されてしまえば、あっという間に

時間が過ぎて、忘れられるんじゃ

ないかという期待もあった。

 

どうせ生きるなら、

生きることを続けなくちゃいけないのなら

考えないでいたい。

考える上に続けるなんて拷問だ。

砂を盛って、盛ったら崩して、

また別の場所に盛るのとおんなじだ。

意義を見いだせないと生きられない。

意味なんて要らないのに、

生きなきゃいけない。

 

 

 

かたちに埋没すればいい、そう思った。

誰かの悪口をいってみたり、

社会問題を遠くから嘆いたり、

後先考えず遊びほうけたり。

そうやって生きて、死なんて考えないで

今好き勝手やるのを望めばいいだけ。

感覚のスイッチだけをいれて、

思考のスイッチを切ればいい。

 

 

でも、ふと冷静になる。

あははははと笑ってる奥の方で、

くっそどうでもいいと思ってる。

深刻にうなずいていながら、

本当はなにも感じていない。

そういう自分をみつけると、

結局家庭をもって子を生んでも

同じじゃないかと思えてきた。

忙しさの合間に、

『さっさと終わんないかなぁ』と

きっと思うのだろう。

 

 

生きることの肯定が続けること

それ自体であるのなら、

自らの子孫を産み育てるというかたち

でなくてもよいのではないか。

そもそも性的な欲求という極めて動物的な

感覚によって引き継がれてきた筈である。

そして、その快楽欲求によって

身を滅ぼすのが常である。

日本の少子化、とか小さいレベルで

生めよ増やせよとやってる場合なのか。

多くの問題は人間自身が蒔いた種であろう。

…と、いう感じで続けないための

理論武装に走りそうだ。

 

 

 

個人としての継続ではなく、全体として

続けていく。全体、というのは

人間だけでなくその他諸々の生物を

含む生命体、およびその基盤たるこの星。

何十億年後には太陽が爆発し、地球も

吹っ飛ぶらしいが、その頃には別の惑星を

作り出して移住してるかもしれない。

人工の太陽で案外快適に暮らしてるかも

しれない。(たまに目撃される宇宙人は、

未来人だったりするのか?)

言語が必要なくなって、もしかしたら

食べ物も要らないかもしれない。

感情も邪魔だから、必要なくなって

いるかもしれない。

犯罪も貧困も環境汚染もいじめも

欲望も労働もないかもしれない。

 

なんの問題もない、無菌室の地球A′。

果たして問うことは残るだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正しく問う、泥臭く応える

 

 

物事を考えるに辺り、

正しく問うことがなにより重要だ。

 

根本的な前提として、生きることの

善悪は我々には判断できない領域にある

ことを知らねばならない。

こういう状態なら善、こうなら悪と

決めることは出来ない。

唯一できるとすれば、主観的な意見を持つ

ことだけである。そしてそれは、

人類全般に共通するものでもないし

多数決で決まるものでもない。

単なる好みである。

生きることの善悪については、正解を

知るよしもないが問うことはできる。

むしろ問うことだけが、生を意義

あるものにする。

(なお、意味はかたち伴って存在する)

 

 

ただ残念なことに、生を問うことが

できている人は本当に少ない。

主観的な好き嫌いの問題にすり替えて

しまっている。

朝食がパンかご飯かでもめてるような

もんで実にどうでもいい話なのに、

テーマの大きさ故に深刻な気がして

いるだけだ。

 

 

 

ここからが本題。

少子化について考えたい。

なぜ生む人が減っているのか、

と問うたなら

⚫一次産業から離れる人が増え、労働力として子をもうける必要性がなくなった

⚫娯楽が多様化し、子育て以外に人生の暇を潰す道具が増えた

⚫共働きが必須にもかかわらず、男性稼ぎ頭モデルから脱却できない雇用体制への不安

といった理由が上がられるだろう。

 

しかしながら、これは根本的な問いに

答えていないので、それぞれ潰したところで

流れが変えられるとは思えない。

問うべきなのは、

『なぜ、続けるか』

この命題に尽きる。

上記した例は、今の社会における

続けることの障壁であって、

かつても別のかたちで存在していた

筈である。(飢えや病気等)

それらが改善されてきても

また別のかたちで障壁が現れている

わけで、これからもそうだろう。

一切を解決したいなら、かたちで

なくなるほかない。

 

ゆえに、貧富の差もなく食べるに困らず

労働も適度にこなせ子を生むことの

不安が取り除かれたとて、

問いは残るのである。

むしろ純化して残る分、残酷かも

しれない。

いかなる問題が解決されようとも、

形でしかあれず、またそれを継続する

意味、つまり意味である意味を

理解できないことに代わりないからだ。

二千年以上前にこの問いと向き合った

人々と同じ絶壁に立たされ続けるのである。

 

 

『いかにして、続けるか』の前に

『なぜ、続けるか』に

自分の言葉で応えなくてはならない。

続けることを良いことだと

洗脳できる時代ではもはやないのだから。

 

 

例え善でなくても続ける。

自らの子孫を残すというかたちで

なくても続ける。

私というかたちが終わっても続ける。

問うこと自体がこたえとなるように、

生きる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かたち考

 

 

かたちの虚しさは、

誤魔化せるものじゃない。

気分転換に息抜きとか

周りの人に相談とか、

そんなことでやり過ごせると

本気で思っているのだろうか。

かたちである限り、逃れられない。

影のように、どこに行ってもなにに

なっても、ついて回るんだよ。

 

いま必要なのは、誤魔化すことじゃない。

向き合うことだ。この虚しさと

対峙することだ。

 

 

対峙するには、歪めずに見なきゃいけない。

認める、とは本来そういうことだ。

いいように解釈しない、勝手に

意味付けしない。

ただ、じいっとみる。

 

かたちの本質。

輪郭と体積をもち、

いずれ朽ちて消える、有限のもの。

この私も。

 

特定の意味などないが、

すべてのかたちは意味である。

この私も。

 

 

生きることは善悪で考えるものではない。

損得で裁くものではない。

ただ地続きで今日に至ったまでのこと。

この私も。

 

そこに意志や祈りがあったにせよ、

それだけでは説明がつかない。

はじまりがわからないのだから、

おわりもわからない。

つまりは全部わからない。

 

 

結果、対峙してもわからないよ。

わからないということだけ、わかる。

わからないままで、わからないなりに

わかろうとする。

それがかたちの形態だ。生きることだ。

 

 

 

 

 

 

 

誰の期待にも応えない

 

 

これが案外難しいよね。

人様に迷惑かけず、とか

お世話になった人に恩を返す、とか

働いて税金納める、とか

老後のお金をこつこつためる、とか

 

まぁ、気づけば色々考えてしまっている。

そして荷物が増えていく。

 

たまにそれらを点検するといい。

いつのまにか増えた荷物を

見直してみる。

持たなくていいな、と思ったら

捨ててしまおう。

捨てられないものには、居場所をあげよう。

 

空いたスペースに思わぬものが

入り込んできたりするから。

 

 

深呼吸して、想像してみる。

今の状況や環境を脇において、

胸にある景色を思い浮かべる。

小さながらんどうの部屋の、

壁にかかった絵画。

灰色の空と灰色の海を切り取ったような

寂しくて暖かくて懐かしい風景。

そこにいるのは、私ひとりで

鍋を火にかけながらコーヒーを飲んでいる。

これが嬉しいことなのか悲しいことなのか

わからないけれど。

いつか起こりうることで、そこまで私は

生きているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

生のOS論

 

 

たぶんOSが違うんでしょうね。

WindowsMACかくらい、

最初から違うようだ。

 

WindowsMACに似た仕様に

カスタマイズして使うことはできる

けれど、いちいち手直しがいるし

工夫や技術も必要だろう。

iTunesも″あいちゅうんず″みたいになって

なんか無理あるなぁ感は否めない(笑)

 

そして世間は、およそMAC向けの作りに

なっていて、新しい課題に出会うたび

アプリ作りから始めなければならない。

MACがOSの人がぽちっとアップデート

している横で、盗み見ながら真似っこ

しつつやり過ごしてきた。

 

 

生きることに関して、価値観の違い

という次元では片付けられない程

大きい隔たりを感じながら過ごしてきた。

少数派かもしれないが、人類のなかで

私ひとりなんてことはないはずだ。

生きたいという概念がないために、

様々な物事に引っ掛かりを覚えてきた人。

生き続けること前提の会話、

生き続けること前提の教育、

生き続けること前提の保障、

生き続けること前提の生活。

○○だから死にたい、

○○のように生きたい

将来○○になりたい

 

よくわからない。″将来″にいたっては、

嫌いな言葉の上位にはいるレベルだ。

今でさえうんざりしてるのに、

勘弁してくれや…が本音(笑)

それでもどっこい、生きている。

なんでかと問われれば、

生きることを肯定すると決めたから。

続けることが肯定だと、何度めかの

葛藤の末に肚落ちしたからだ。

何度もいうが、生きることがいいことだと

思わないし、個人的に好きでもない。

ついでに何者にもなりたくない(笑)

 

でもひとつ、欲をいえば。

生きたいと思ってみたいかな。