せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

誰の期待にも応えない

 

 

これが案外難しいよね。

人様に迷惑かけず、とか

お世話になった人に恩を返す、とか

働いて税金納める、とか

老後のお金をこつこつためる、とか

 

まぁ、気づけば色々考えてしまっている。

そして荷物が増えていく。

 

たまにそれらを点検するといい。

いつのまにか増えた荷物を

見直してみる。

持たなくていいな、と思ったら

捨ててしまおう。

捨てられないものには、居場所をあげよう。

 

空いたスペースに思わぬものが

入り込んできたりするから。

 

 

深呼吸して、想像してみる。

今の状況や環境を脇において、

胸にある景色を思い浮かべる。

小さながらんどうの部屋の、

壁にかかった絵画。

灰色の空と灰色の海を切り取ったような

寂しくて暖かくて懐かしい風景。

そこにいるのは、私ひとりで

鍋を火にかけながらコーヒーを飲んでいる。

これが嬉しいことなのか悲しいことなのか

わからないけれど。

いつか起こりうることで、そこまで私は

生きているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

生のOS論

 

 

たぶんOSが違うんでしょうね。

WindowsMACかくらい、

最初から違うようだ。

 

WindowsMACに似た仕様に

カスタマイズして使うことはできる

けれど、いちいち手直しがいるし

工夫や技術も必要だろう。

iTunesも″あいちゅうんず″みたいになって

なんか無理あるなぁ感は否めない(笑)

 

そして世間は、およそMAC向けの作りに

なっていて、新しい課題に出会うたび

アプリ作りから始めなければならない。

MACがOSの人がぽちっとアップデート

している横で、盗み見ながら真似っこ

しつつやり過ごしてきた。

 

 

生きることに関して、価値観の違い

という次元では片付けられない程

大きい隔たりを感じながら過ごしてきた。

少数派かもしれないが、人類のなかで

私ひとりなんてことはないはずだ。

生きたいという概念がないために、

様々な物事に引っ掛かりを覚えてきた人。

生き続けること前提の会話、

生き続けること前提の教育、

生き続けること前提の保障、

生き続けること前提の生活。

○○だから死にたい、

○○のように生きたい

将来○○になりたい

 

よくわからない。″将来″にいたっては、

嫌いな言葉の上位にはいるレベルだ。

今でさえうんざりしてるのに、

勘弁してくれや…が本音(笑)

それでもどっこい、生きている。

なんでかと問われれば、

生きることを肯定すると決めたから。

続けることが肯定だと、何度めかの

葛藤の末に肚落ちしたからだ。

何度もいうが、生きることがいいことだと

思わないし、個人的に好きでもない。

ついでに何者にもなりたくない(笑)

 

でもひとつ、欲をいえば。

生きたいと思ってみたいかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日もりんごの木を植える

 

 

続けると決めたら、

すぅっと心が軽くなった。

どうすれば続けないでいられるか

思い煩っていたときは

重くて苦しくて薄暗かったのに。

 

本心では生きたかったから、

なんていうつもりはない。

今でも茶番だと思っている。

それが喜劇であり、演者になりきると

腹をくくっただけ。

覚悟なんて大それたもんじゃない。

それに、かたちの痛みがなくなるワケ

じゃない。身もだえる冬は近い。

 

 

また、若い命が喪われた。

SNSの誹謗中傷が要因ではあるだろうが、

本人の心が不安定であったことには

違いなかろう。

そんなの気にするな、強くなれ

などとぬかすつもりはない。

ただね、くだらねぇなとは思う。

そんなの、死ぬことを″選ぶ″なんて

言わないんだわ。

死んだらみんな一気にシュンとして、

犯人探しして、そして、忘れるんだ。

そういうくだんねぇ社会性だけで

身をかためている人間に

殺傷なんてできっこねぇんだよ。

自分を守るための柔なトゲしか持って

ないんだから。

自分の内にある刃でしか、

一番深いところは刺せないんだよ。

だから、最後の鍵は誰にも渡しちゃ

いけない。踏み込ませちゃいけない。

私たちはかたちだ。どれだけ信用して

愛しい人であっても、境界線を越えちゃ

いけない。

 

 

【もし明日世界が終わるとしても、私は今日りんごの木を植えるだろう】

これは理想の生き方の話でも、美しい終末の話でもない。今いきる私自身の話だ。

明日世界が終わる、というのはつまりいずれ死ぬ存在ということ。地球が終わらなくても、私が死んだらせかいが終わるのだから。

今日りんごの木を植える、というのはつまり世界になにかを残そうとすること。次の世代、次の世界に。そこに私がいなくても。

 

そうだよ、もうすでにみんなやってる。

少なくとも、そう生きるためにもがいてる。

 

 

 

 

 

 

虚しさを引き受けて

 

明確な要因がわからない自死は、

人を困惑させる。身体の芯の部分が

低温やけどをしたかのように

熱を持ち、落ち着かない。

その時、かたちでは解決できない

存在の壁の前で立ち尽くしている

ことに、はっと気がつく。

 

握った手のひらから漏れる空虚

地響きの耳鳴り

暗く荒れた海と曇天

 

 

 

生きることはいいことだと

自分に言い聞かせたのかもしれないな。

それだけでなく、生きることに悩む

人々へエールさえ送ろうとした。

過大に役割を意識しすぎたきらいがある。

きっと真面目で、優しかったのだろう。

そして、自信がなかったのかもしれない。

独特のらしさや尖ったところがないこと、

いい子の殻を破れないでいることが

どこかコンプレックスだったのではないか。

人中にいるほど孤独は深くなる。

まあ、本当のところはわからないし

自分ですらわからないものだ。

唯ぼんやりとした不安。

そんなもんだ。

 

 

 

私は、慰めあいなんてしたくない。

ただ、圧倒的に肯定したい。

いいか悪いかなんてどっちだっていい。

続けるんだ。かたちの問題はかたちで

解決して、それでも残る虚しさを

引き受けて、進むのだ。

そこに、損得や道理うんぬんなどが

入り込む余地はない。

泣きながら、歌うのだ。

すべての傷みを笑うのだ。

 

 

ご冥福をお祈りするほど消化できて

いないので、問い続けたいと思う。

最近よく感じることだが、

社会性は生きていく上で必要だけど、

それがあんまり過剰なら問題だ。

そんなに急いでどこへいくのだ。

はっとした問いの前では止まって

いいじゃない。

生涯ひとつの問いを背負って生きること、

そういう人生は生活にはなりえない。

すべからく、生きる人生だ。

私は表面上取り繕って上手くいった

人生より、

問いの前で悶え、続けることで

答える人生の方が好きだ。

 

 

 

 

 

人生定年制度

 

 

死にたがり度合いにおいては

シオランに負けず劣らずだと思う。

別に誇ることではないのはわかっている。

しかしながら褒めてあげてもよかろう

と思うのが、それでもなお生きることを

選択しているという点だろう。

 

いまだに生きたいという感覚は

わからないし、死にたい気持ちも

なくならない。息を吸うように、

自然にいつも死にたい。

全然健康、万事順調。むろん、死にたい。

OSが死にたいになっているとしか

思えないレベルだ。

 

私はもう、死にたい理由を自分に

問わないし裁かない。

皆に認めてもらおうとも思わない。

自分が認めればオッケーだ。

むしろ問うべきなのは、なぜ

それでも続けるかということの方だろう。

 

 

ひとつ、妄想的に考えていることがある。

「人生定年制度」とでも名づけようか。

ある年齢に達したら、そこから生き続けるか

そこで辞めるか選択できる制度があれば

心理的にかなり救われると思う。

結局、いつまで生きるかわからないからこそ

そして思うように動いたり考えたり

できなくなるからこそ、

つまるところ不自由な将来を想像して

生きることにうんざりするのだから。

(突き詰めれば、不自由でなくても

うんざりするけども。ここでは割愛)

 

貯金しておく額も少なくていいし、

家だって気にしなくていい。気楽だ。

事前に、早死にを希望した人には

年金分の税金がいくらか割引になれば

尚いい。それは贅沢かなぁ。

 

価値=生産力として裁く国家なのだから

それくらいやったっておかしかない。

秩序や体裁を鑑みなければ、もっと

シンプルだ。

生きることに権利も義務もありゃしない。

死ぬ権利がないなら、生きる義務だって

ないだろう。それに、否!!というだけの

答えを持ってるのか。あなたは。

人類の繁栄が続くよう努力する必要性を

どのように説くのか。

私はまったくわからない。

であるから、なぜ続けるのか問うのだ。

そこに感傷だの正義だの生ぬるいもんは

入り込む余地などない。

 

 

もし、続けるべしとの答えを出せたなら

その時は誰一人望まずとも

どんな展望の世であっても

私は続けることを望む。

自分を勘定に入れずに、だ。

 

 

これが祈りでなくてなんだろう。

これ以外に私に仕事などあるだろうか。

否!

 

 

 

 

生きたい、とはどういうことか

 

生きたいと思う事に

理由は問われないのに、

なぜ死にたいと思う事は

理由を問われるのだろう?

生きる理由は問われないのに、

死ぬ理由は問われるのだろう?

 

身近な人や大事なペットが死ねば、

共に過ごした時間を思いだし

もう二度と共有できないことを知り

とても悲しい気持ちになる。

でも、死ぬこと自体を悪いことだと

思ったことがない。

もちろん死んだ人をかわいそうだとも

思わない。

同時に、死にたいと思うことを

不自然だとも思わない。

 

かたちを持つことは本来苦しいことだ。

生きたいと思う事は、その苦しみを

少しでも和らげようとする何らかの

計らいなのかな。わからん。

 

 

私の人生の目的は、

生きることを肯定することだ。

いいね!ではなく、あるね!と認める

こと。人生の目的にするくらいだから

簡単なことではないと考えている。

安易にいいね!ということや

いいね!=生きることが好き

と決めてしまうことで、本来のかたちのまま

認めることが出来なくなってしまうのを

危惧している。

愛ではないからこそ、愛せるのだ。

その最中にいては認めることが出来ない。

だからこそ、わざわざかたちをもって

生まれでたのではないのかなと

思っている。

 

 

但し、個人の気持ちの問題として

生きることが好きではない。

だから、積極的に死なないにしても

できうる限りその期間を短くしたいと

目論んでいる。

ガン検診をしないとか、座る時間を

長くとる等ささやかな抵抗ではあるけれど。

 

 

 

健康で、家族もいて、仕事もあって、

世界を知ることや学ぶことの喜びも

享受できて、お金もしばらく放浪

できるくらいはあって、好きな本を

ゆっくり読めて、まとまった休みには

のんびり旅行もできて、衣食住足りていて、これといって欲しいものもなく、

自尊心も健全と思われ、

居場所があるとも感じている。

高校生の頃の自分に教えてあげたいなと

思うくらい、穏やかに生きている。

 

 

でもさ。死にたい気持ちはなくなら

なかったぜ。むしろ濃くなるばかりだ。

もうなにもいらないのに、かたちで

溢れている。

それでも、生きている。生きてきたよ。

 

 

教えてほしい。なぜ生きたいの?

なぜ生きるの?

続けなくちゃいけないの

 

 

 

 

 

鈍感でいること

 

 

鈍感は、生活する上で一番の武器だなと

あらためて思う。

 

半径二メートルの世界で起こること以外

なにも見えていないような人や、

感受性や身体が敏感であるからと

厳しいことは他人任せでのんびり

茶を啜れる人や、

ろくに働いたこともないのに労働を

嘆き生活に足をとられる人。

捕鯨反対といいながらパンや肉を

美味しそうに食べる人や、いじめの報道に

「ありえない!」「かわいそうに…」

といいつつ身近な人の悪口や愚痴に

花を咲かせる人。

 

矛盾やほころびが生じる部分を

どういうわけだか見ないでいられる。

たとえ見てしまっても、すぐに蓋を

してしまえる。そこに罪悪感はなく、

都合のいい解釈があるだけ。

振る舞いや言動は一見すると弱者だが、

一番厚顔だなと思う。

 

 

どれだけことばを尽くしても伝わらない。

外に問題を見つけることで、自分の内の

課題に取り組まないで済んでいること。

他人のことで悩むのは美徳なんかじゃないと

いうこと。皆どのような立場であれ、

自分を生きねばならぬのに。

生きることを引き受けて、選び直して

進んで来ていなければ、他人へ手を

差しのべることだって出来やしないのに。

すぐに「わかった」というわりに、

なにもわかっていない。

だから何度も同じようなことで

悩んだふりを繰り返すのだろう。

 

 

「かわいそうに」と口にはするが、

自分が代わる気はさらさらない。

人を盾にして守られた領域で

丁寧に暮らすとかぬかしてる場合か。

気持ちいいこと、好きなことで

周りを埋めつくして 豊かに過ごすとは

けっこうなことだ。自由な時間が

豊富にあること自体、贅沢じゃないか。

 

別に、丁寧に暮らすことも

自由な時間を豊富に持つことも

非難するつもりはない。

私もできる限りそうしたい。

でも、どれだけ丁寧に暮らしても

労働から離れ自由な時間を持っても

生活は生活だ。

例えば、ギラギラした都会で賑やかな

集まりを楽しむ生活が好きな人と、

片田舎で薄暗がりのなか本を読む生活が

好きな人がいる。

前者が物的豊かさ・後者が精神的豊かさで

後者がより進んで優れている的な風潮が

大事なことを誤魔化してしまうのを

危惧しているのだ。

そういうのは好みや性質の問題であって、

生活と生きるの問題ではない。

都会で生きている人もいるし、田舎で

生活している人もいる。

 

 

恵みは無限にあるものではなく、

なにものかの犠牲(時にいのち)の上に

生活は成り立っている。誰も手を汚さずに

生きてはいけない。もし、自分の手が

汚れていないのならば、その分誰かの

手が汚れている。背負っている誰かが

いる。物言わぬ彼らの生活を、

そのなかに光る生きるを掬い上げたい。

 

だからあらゆる鈍感と今日も戦う。