せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

継続のうちに見る肯定

 

 

続けることの中に、肯定を見つけた。

 

善悪の善だけでなく、悪を含む

肯定。好き嫌いの好きだけでなく、

嫌いを含む肯定。生産性の有無を

問わない肯定。

 

綺麗事ではない。むしろ、清濁あわせ

のみ泣きながら頷くような肯定。

私に、できるだろうか。

大きなものを畏れ、尊重し

祈るように生きることが。

 

 

自信はないけれど、ひとまず

落ち着けそうな方向性を見出だした。

続ける理由として納得はできる。

となると、生活へ目線はいく訳だが

こちらも一筋縄ではいかない。

不安をあおるような要素が一杯だ。

それでも、生きることの模索とは

比べ物にならない。

暖かろうが冷たかろうが、風が

こそばゆくて。

ただ、彩ることには相変わらず関心がない。

生活はミニマムに、生きるはマキシムに。

生活をできるだけ簡略化して

生きることに力を注ぎたい。

はっきり分離できるものではないけど、

生きるが豊かになるように。

 

本音をいえば、先を見据えて

生活を学んでいること自体

ちょっと嬉しい。

 

 

 

 

肚でわかること

 

 

生きることはいいことじゃない

ということと、

(生きるのを)続けていくこと

が私のなかでうまく繋げられず、

前提が間違っているのか

はたまた続けていくことが

間違いなのかと問い続けてきた。

 

でも、どちらも間違いではないとすれば

私が探すべきなのは「接続詞」

なのかもしれない。

そう考えてふっと力を抜いたとき、

出てきたことばが

″さぁ、″

だった。

 

 

 

青年は考える。

生きることはいいことじゃない

だから、続けない

 

あるいはこう考える。

生きることはいいこと(のはず)だ

だから、続けよう

 

 

 

大人はどう考える?

生きることはいいことじゃない

それでも、続けるものだ

 

あるいはこう?

生きていればいいこともある

だから、ひとまず続けよう

 

 

生活や生きるのあらゆる悩みや

虚無感の奥に、この問いがあるように

思う。

現時点で、私はこう答えることを

目標としたい。

 

生きることはいいことじゃない

さぁ、続けよう

 

人生は問うものではなく

答えるもの、というフランクル氏の言は

こういうことを指すのだろうか。

続けようという意志の奥底に、

肯定を見つけた。

続けることが、私が何よりも求めている

生きるを認めることへの解なのか。

そしてこの解は、問い続けられる限り

答え続けるものなのだろう。

続けること、それ自体を通して。

 

 

私たちが選べること、力およぶ領域は

考えているよりきっと狭い。

それは不条理と嘆かれ処理されるが、

生きることはそもそも不条理だ。

いいことではなく、さらに続けるのだから。

ただ、別のみかたをしてみると

そこに超越したものへの畏敬が感ぜられる。

続けていく営み自体が、我々を包む

無量光を尊ぶことであるかのように。

考えのおよびもしないなんらかの

力や意志が、続けようとする我々の

少し先を照らしてくれている。

ならば、その光を求め歩むしか

道はないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

年の瀬に思う

 

 

年の瀬の、忙しない雰囲気が

割りと好きだ。

非日常なのに毎年型通りというか。

落ち着かないのに懐かしい感じ。

いつも年の瀬だったらいいのに。

(同じ型通りでも年始は好きじゃない)

 

帰省ラッシュの映像を見て、

皆帰る場所があるんだなと

しみじみ思う。

そんな中、一人あてどもなく

電車に乗る。遠いところ、できれば

雪深いところか灰色の空と海を

眺められるところでぼんやりするために。

 

 

ぼんやりしながら、生きることを考える。

日常でも非日常でも考えることは同じだ。

そして、目覚めなければいいのにと

いつも同じ結論にいきつく。

でも、目覚めてしまうのなら

来年がやって来てしまうのなら

どう生きるか考えた方が建設的だ。

そして、生きるのを望んでいることを

前提に日常を計画する。

茶番だ。

 

 

仕事に打ち込み、誰かのために生きる。

家庭を持ち、家族を一番に生きる。

どんな生き方も望まないので、

なんとか耐えうる選択肢を探す。

本当はどうでもいい。

恵まれているのだろう。

本当にどうでもいい。

 

 

 

新幹線で人を刺し殺し

無期懲役になった人。判決の際

万歳三唱したそうな。

少々芝居臭いが、どうでもいい日々を

何食わぬ顔で過ごす私の方が

狂っている。

いや、結局何を望んでいるかも

わからないのに思い込みだけで

生きている大勢のほうがよほど狂っている。

狂っていないと生きにくいらしい。

 

 

生きることは良いことではない、

さぁ続けよう

 

これが言えるようになったら

大人だろうが、まだまだ遠そうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良いことではない、そして続ける

 

 

生きることは、良いことではない。

かたちは不条理であり、無常だ。

それでも生きることを好む人たちは

たくさんいるし、続いていくことを

願っている。

 

かたちの存続を維持するよう努め、

妨げない態度をとることは

道徳的に正しいことなのだろう。

それは私が存続を望まなくても

或はその意味を理解できなくとも、

続けていくための一切を肯定する

根拠となる。

存続を望む人がマジョリティだから

という理由では脆い。

そもそも高齢化に伴う病苦、重い税負担、

老老介護長時間労働、過度な情報化…

そういう情勢にあって

口にせずともかたちの存続を望まない

人は少なくないと感じる。

高度経済成長期のように、頑張れば

もっと豊かになる・いい暮らしができる

という観念は持ちにくい時代である。

その頃よりはるかに便利で豊かであっても

ある種の虚しさは癒されないことを

みんなどこかで気づいていて、

観念にかわり諦念が時代の空気に

漂っているようにすら思う。

 

 

そこで、誰一人存続を望まなくなった

世界を想定してみる。

そのような状況の中にあって、

続けていくための一切を肯定することは

可能だろうか。

道徳が続けていくための秩序を保つ目的

としてあるのではなく、それ自体が

生きることを肯定するものだとすれば

可能かもしれない。

 

そう考えると、続けていくことと

それに付随する行為や規則は、

生そのものを肯定する道徳に

貫かれていなくてはならない。

感性や経験に基づくものではならない。

創造も解体もコントロールできると

盲信していたと気づくのは、

いつも制御不能になってからだ。

コントロールできないものを自然と呼ぶ

ならば、自分自身も含めて自然である。

自然と共に生きる宿命から

誰も逃れることはできない。

かたちである限り。

円環をどこかで絶つことができると

考えるのも、結局驕りなのだろう。

 

 

そうであるならば、存続の是非を問う

のではなく、なにをどのようなかたちで

存続させるかを問うべきなのかもしれない。

とはいえ、思うように存続できるわけでも

ない。

その狭間にあって、引き裂かれながら

それでもなお続けていく。

私が生きることを愛したいのは、

何らかの価値を見出だしたいためではない。

すべての在るものが、たとえ目的なく

さまよいやがて死ぬだけの物体で

あっても、在ることそれ自体を

認められうると信じているから。

 

 

生きることは、良いことではない。

それでもなお続けていくことは

道徳以外の何者でもない。

生の肯定は死の否定ではなく、

むしろ地続きの彼方にある死を認める事だ。

わざわざかたちであることの意味を

知りようもない私たちが、

かたちを存続していくことは

存在そのもの或は円環するエネルギー

にたいする畏敬であり、永遠への祈りだ。

 

 

良いことだから続けるのではない。

良いことではないからやめるのでもない。

良いことではない、そして続ける。

そしてなのか、さらばなのか

ゆえになのかはわからないけれど

これからはその道を探すのだ。

慰めも諦めもいっそう虚しいだけだから、

ただ一心にその道を求むのだ。

 

 

 

 

電車に乗って

 

 

たまに、何もかも捨てたくなる。

仕事も趣味も人との付き合いも家も物も。

捨てたところで、どうなろう。

そうは思うが、長く持ち続けると

澱のようなものが少しずつ溜まっていく

息苦しさがある。

別に嫌いになった訳じゃない。

でもそういうときはあるし、

誰かの顔に同じような色が

しゅっと浮かぶのをみることもある。

淋しい共感は少し温かい。

 

 

 

だからだろうか。時折、電車に乗る。

一応の行き先はあるが、目的は乗って

移動することだ。なんのつながりもない

ところへ無性に行きたくなる。

街行く人を眺めて、二度と会わない

んだろうな、などと思う。

それでいて、自分が景色になったような

軽さを感じる。考える主体でなく、

感じる主体。ただ在るだけの、今。

ぼーっとして、また電車に乗って帰る。

 

 

 

年を取るにつれ、計画的に生活する

ことを考え始める。生活の様々は

向こうから降ってきて待ってはくれない。

なにかを望まなくてはいけない、

というよりも、望まないと正気で

いられない。だから、生活を細々彩り

ながら生きている。

それでいて、生きることは

なんにもわかりやしない。

生活にだけ詳しくなって、

なんだか哀しくなるね。

 

 

 

 

もし、二度と戻らないつもりで

電車に乗るなら、どこへいくだろう。

生活はどこまでいっても生活で、

なにをもっても不安だった。

頑なに守ろうとしても、すべてかたち

なのだからいずれ朽ちて消える。

そう考えると、次に乗る電車の行き先は

生きることへ向くだろう。

どこにつくかはわからないけれど、

結局かたちであるならば

線を引けるところにたっていたい。

 

孤独なのは、愛ではないから。

存在者はみな孤独だ。

虚しさがわずかに癒えるのは

人といるからではなく、

存在に線を引けていると感じられるから。

 

 

なにもかもやる気がないときは、

ちゃんとやる気を失ってみる。

取り繕わず、低空飛行する。

その目線で見える世界は、

イキイキ生活しよう!と息巻く

生活人間の時には見えないものだ。

二面性があるせかいはせわしないし、

どっちが本当かと問われたら

どっちもそうだしどっちも違う。

ただ、そういうせかいなのだ。

どちらにあわせることもしないで

生きていることを点検確認するだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

運動としての永遠性(仮)

 

 

かたちのあるこことかたちのないそこ。

全体が一なる運動であると仮定すると、

どちらにもその起源はないのだろうか。

否、他方が他方の起源といえるのか。

ここゆえにそこがあり、そこゆえに

ここがある?

となれば、かたちのないそこでも

終わりが来るということになるだろう。

またかたちの方へ生まれでてくるのなら、

そこではある種の終わりがある。

であるならば、そこへ入ることは

一時的にかたちから解放されるだけで

永遠に無形であれるわけではない

ということになる。

つまり、かたちがないこと=永遠

とはいえなくなる。

むしろ、かたちの創造と解体を

繰り返すこの運動そのものが

永遠性をはらんでいるというのだろうか。

 

解体と創造、そして永遠への希求は

かたちゆえにあるのでないとすれば。

光の微粒子が結合と分解を繰り返し、

かたちへ向かうということが

あるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かたちを続けていくこと

 

 

死にたいと思うことは解放への希求で

あって、特定のかたちへの絶望ではない。

かたちでしかあれないことに虚しさを

感じているわけで、別のかたちを

あてがわれても消えるものじゃない。

 

○○であれば生きていたい、

というのは立派な生存願望だ。

どのような状態であっても

生きていたくない、

というのは歪められた願望なのか?

正常であれば、生きていたいと

思うものなのか?

 

 

かたちからの解放を望むことに

いかなる問題があるのか。純粋に知りたい。

社会が成り立たなくなる?

そもそも成り立たせなくてはならない理由が

わからないのだ。

真面目な顔で生活しながら

その意味するところがわからない。

 

 

精神的に奇形なのだろうか。

通常よりも多かったり少なかったり

するかたちを見ると、正直なところ

不安にかられる。遠ざけたいと思って

しまう。ハンセン病はうつる病気で

あるからと隔離された歴史があるが、

もっと奥の方に恐れがあったのではないか。

うつるからではなく、そのかたち自体を

恐れ遠ざけたのではあるまいか。

同じように、精神的な奇形も

遠ざけたい対象なのかもしれない。

 

 

誰かをこの虚しさとの対峙に

引きずりこみたいわけじゃないけれど、

もし対峙せずにはいられない人がいるなら

話してみたい。

そう思って、本をたくさん読んできた。

著者との対話によって、少し癒される

部分はあった。ことなる角度からの

視点も面白いなと感じたりもした。

でも結局、この虚しさは

誰かとわけもつことはできないのだと

気がついてしまった。境界線は溶けない。

 

 

生活を分析したり記述したりするの

ではなく、生活者としてこの世界に

馴染みたい。

誰かをいとおしく思ったり、また憎んだり。

何かを尊く思ったり、憤ったり。

そういう豊かさを認識するのではなく、

まさに当事者として翻弄されたい。

時々そうして寂しくなって

ふれあいを求めても、結局当事者に

なりきれない自分が浮き彫りになるだけだ。

頭ではわかっていても、時より思い出した

ように近づくことを繰り返している。

生活から離れてしまわないために。

 

 

 

 

「特定の意味などない。

無意味なのではなく、

すべての在るものは意味でしかない。」

ここが解体されない限り、

次のせかいは拓かれないように思う。

一体どのように展開できるだろう?

何らかの特定の意味をどこかから

あてがうことを私は信じられるのか。

それが祈りだとしても、

私を救うものだとしても、

おそらく私は盲目になれないと思う。

科学も宗教も正しい世界のあり方へ

近づくアプローチだと

信じることができないのだから。

 

 

解く鍵があるとすれば、

わざわざかたちであるという事実だろうか。

幸せは第一義にはなりえない。

かたちじゃない方が幸せなのだから。

この事を念頭におき、生ききること

つまりかたちを出しきることを第一に

据えた。わざわざかたちであることの

辻褄はあう。ここでまたむくむくと

沸いてきた問いは、続けていくことに

由来する。このかたちを続けていくことと

繁殖という方法でかたちを引き継いで

いくこと。かたちを出しきることは

ある程度納得したけれど、続けていくこと

は別問題だ。

ここで、停滞している。ざっと2年くらい。

続けていくことを悶々と考えて

否、という結論を出しにかかっているが

となればかたちであることは

やはり無駄ということになるのではないか。

それは死=敗北の定理よりも

一層虚しい仮説かもしれない。

(生物の繁殖はもちろん、文化や思想の

継承も同様に考える。かたちが

続いていくこととは、、)

 

かたちを続けていくことは、

永遠性を勘違いしたためではない

とするならば、一体なんだというのだろう?

生きていれば楽しいこともあるよ、

などという慰めは必要ないどころか

一層虚しいだけだ。そんなことで

納得してるなら、とうに好き勝手

やっている。

納得できないから苦闘を引き受けた。

すべてのかたちが報われることを

祈るから死を敗北と思えない。

私の願いなんて祈りの前に霧散している。

だからこそ、この虚しさとの

対峙に追い込まれているのだ。

 

行き止まりまできたのかもしれない。

一度戻ろう。否、かたちを壊して

次の創造へ向かうのだ。