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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

宣戦布告

 

考えても答えがでない、

そういう問いが好きだ。

たとえ悶え苦しんでも、ぽっかりあいた

虚無の洞窟を前することになっても。

考えても答えがでないことを

考えるのは社会的に有用ではないが、

考えて答えが出ることなど

面白くない。

 

 

自分の地位や有能さに

鼻高々になる人は多い。(逆もしかり)

確かに社会に認められる努力を

したという事実は評価に値する。

ただ思うのは、その評価は

いかほど大切なのだろう?ということ。

人は見た目が9割

なるほどそうかもしれない。

ただその9割はなんのための9割か。

他人に好かれる、評価されることは

社会生活を営む上で重要なのは

わかるが、その中心が語られていない。

たとえ完璧な9割を作り上げても

そこに己がいなければ虚しいではないか。

そんなことで虚しくなってはならない。

本当に虚しくなるべきときに、

ごまかしてしまう社会性という

フィルターこそ警戒すべきだ。

 

特に、道徳的な生活人間が腹立たしい。

道徳とはなにか。

誠実とはどういうことか。

ギリギリの場面で何を選び、何を捨てるか。

お前の感じる正しさなどどうでもいい。

道徳とは本来生易しいものではなく、

引き裂かれながらあるいは何者かの命を

奪いながらそれでも敬意を払うような

もののはずだ。

それゆえに普遍的で絶対的なのだ。

生活でしか悩まない人間に、

生への葛藤で手を汚した人間を

蔑んだり裁いたりする権利などない。

社会の求める金型に自らを流し込む

ような自尊心のないプライドばかりの

空気人間は、評価されど評価することなど

できやしない。お前のことばで

話すことができない人間が、

ことばのために身を投じる人間を

嘆くことなどそれこそ冒涜だ。

 

 

私は、肯定したい。

生きることを肯定したい。

無論良いことだと自らを洗脳したいわけ

ではなく、善悪や好き嫌いを越えて

在ることを認めたいということ。

そういう肯定を求めているし、

だからこそことばを磨かねばならない。

慰めや嘆きに満ちたぬるく諦めることばを

述べるようなモノワカリノイイ人間に

などなるな。

それでも肯定する、肯定されるものだと

信じているからこそギリギリまで

暴くことができる。

決していいことじゃない、

そういう自覚とそれ自体の肯定からし

本当にいきるためのことばなど

出てきやしない。

 

 

 

戦え戦え戦え!