思えば、たくさん回り道をしたものだ。
母から認められたい、愛されたいという
思いが根底にあったわけだが、
その思いを認めるのにも時間がかかった。
記憶を捏造したり取り繕ったり
しないでも立っていられるようになるまで
そこからさらに時間がかかった。
最初から、ストレートに受け取り
認め、渡せたなら今の私とは
かなり違った自分になっていただろう。
けれど私はこの私しかいないし、
なんだかんだ人間臭い自分が好きなのだ。
感情の豊かさを感じられるのは、
翻弄されたことがあるからだし
失っていた2年間包まれていた
あの透明な膜を知っているから。
豊かさ=幸せではないと
豊かさ=善ではないと、
自分だった欠片の上に寝そべって
一人空を仰いだ夜があるからだ。
認めることは簡単じゃない。
求め、掴めず、諦め、それでも
欲し、慟哭し、やっと触れられたときに
泣きながら悟ることなのだ。
決して手に入らないことを、
それでも求めてしまう虚しさを
抱き締めてなお立つことなのだ。
私はもう、愛された記憶をもち
認められるかいなか戦々恐々したことや
愛されていない可能性を疑ったことのない
健全な自尊心を育んできたひとから
奪わなくていい。
お前も苦しめと、引きずり下ろさなくて
いい。
ただとなりにいて、その暖かさを
素直に受け取っていいんだ。
いいんだよ。