せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

正しく問う、泥臭く応える

 

 

物事を考えるに辺り、

正しく問うことがなにより重要だ。

 

根本的な前提として、生きることの

善悪は我々には判断できない領域にある

ことを知らねばならない。

こういう状態なら善、こうなら悪と

決めることは出来ない。

唯一できるとすれば、主観的な意見を持つ

ことだけである。そしてそれは、

人類全般に共通するものでもないし

多数決で決まるものでもない。

単なる好みである。

生きることの善悪については、正解を

知るよしもないが問うことはできる。

むしろ問うことだけが、生を意義

あるものにする。

(なお、意味はかたち伴って存在する)

 

 

ただ残念なことに、生を問うことが

できている人は本当に少ない。

主観的な好き嫌いの問題にすり替えて

しまっている。

朝食がパンかご飯かでもめてるような

もんで実にどうでもいい話なのに、

テーマの大きさ故に深刻な気がして

いるだけだ。

 

 

 

ここからが本題。

少子化について考えたい。

なぜ生む人が減っているのか、

と問うたなら

⚫一次産業から離れる人が増え、労働力として子をもうける必要性がなくなった

⚫娯楽が多様化し、子育て以外に人生の暇を潰す道具が増えた

⚫共働きが必須にもかかわらず、男性稼ぎ頭モデルから脱却できない雇用体制への不安

といった理由が上がられるだろう。

 

しかしながら、これは根本的な問いに

答えていないので、それぞれ潰したところで

流れが変えられるとは思えない。

問うべきなのは、

『なぜ、続けるか』

この命題に尽きる。

上記した例は、今の社会における

続けることの障壁であって、

かつても別のかたちで存在していた

筈である。(飢えや病気等)

それらが改善されてきても

また別のかたちで障壁が現れている

わけで、これからもそうだろう。

一切を解決したいなら、かたちで

なくなるほかない。

 

ゆえに、貧富の差もなく食べるに困らず

労働も適度にこなせ子を生むことの

不安が取り除かれたとて、

問いは残るのである。

むしろ純化して残る分、残酷かも

しれない。

いかなる問題が解決されようとも、

形でしかあれず、またそれを継続する

意味、つまり意味である意味を

理解できないことに代わりないからだ。

二千年以上前にこの問いと向き合った

人々と同じ絶壁に立たされ続けるのである。

 

 

『いかにして、続けるか』の前に

『なぜ、続けるか』に

自分の言葉で応えなくてはならない。

続けることを良いことだと

洗脳できる時代ではもはやないのだから。

 

 

例え善でなくても続ける。

自らの子孫を残すというかたちで

なくても続ける。

私というかたちが終わっても続ける。

問うこと自体がこたえとなるように、

生きる。