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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

原点回帰

 

 

愛するとは、何であろう。

存在=愛ならば、

愛をするとは一体?

 

する、つまり動詞であるならば

なんらかの働きかけがあるだろう。

私は今まで、それは『認める』だと

主張して譲らなかった。

それ故なのか、この5年ほど大きな解体も

なかった。

私の中で一応の整合性がとれていた

から、意識を生活の方へ向けて

走ってきたのである。

 

しかし、子供が生まれ

この子を愛する″方法″を

知りたくなった。

むろん、存在そのものの

愛おしさは表現するまでもないが、

可愛い可愛いいう事が

愛することとは思っていない。

(愛情表現としてあって良いとは思う)

 

どうすれば、存在をみとめる事が

できるのか。いかに表現すれば

相手に伝わるのか。

認めることをどのように教えるか。

 

認め、渡し、受け取る。

そのキャッチボールを実際に

やってみせることだろうか。

教育にも関心がわいてきた。

 

 

考え悩みながら、

向き合っていこう。

 

 

 

学校では教えてくれないこと【労働編】

 

 

労働は、仕事ではない。

仕事は、生きることそのもの。

(なぜそれでも生きるかを問い続けること) 

 

労働は、労働力や時間の対価として

金銭を得て、生活に役立てるためのもの。

だから、労働力や時間ともらえる金銭を

天秤にかけて、条件のいい方を

選べばいい。

 

社会貢献とかスキルアップとか

やりがいとか将来性とか、

色々考えて悩むこともあるだろう。

今までもあったし、これからも

節目節目にもたげてくるはずだ。

だが、考えてみればどんな労働も

似たりよったり。

仕事に集中していないから、

手軽に変えられる労働に目が向くだけだ。

仕事に集中するためにも、

下記のことを忘れるな。

 

【なるべく少ない労力と時間で、

妥当な生活に足る金銭を得られる労働を選べ。】

 

 

これである。

具体的に言えば、

●一日の標準労働時間は、8時間以下

(&慢性的に残業はない)

●年間休日は、125日以上(&有給とりやすい)

●労働時間以外、労働のことを考えずにすむ

●肉体的、精神的負担が少ない

(ハラスメントがはびこっている、

ノルマがきつい、売っているものがやばい、

夜勤があってリズムが乱れる等の状況は避ける)

 

 

業界と会社の立ち位置も重視したほうがいい。

新規参入の難しい既得権益がある

業界は比較的穏やかであることが多いし、

下請けが多数存在する業界は下流に行くほど

厳しい。

 

 

そして、求人票の甘い言葉に惑わされず、

働く人と面接官をよく見ること。

疲れた顔してるとか、胡散臭いとかね。

社員を大切にする会社かどうかは、

ケチ臭くないかでおよそ図れる。

貧乏くじ引かないように、守れるのは

自分だけ。直感を信じろ。

 

 

 

労働以外の生活部分との両立に迷ったら?

まず、金銭を得たい目的と目標金額・期間を

明確にすること。

現状働き続けた場合と、

転職や退職の道を選んだ場合で

達成可能性を計算すること。

感情ではなく、論理で考えて冷静に動くこと。

大事なのが、外的リソースを

一緒に計算することだ。

例えば夕飯は毎日作らなくていい、

パートナーが家事育児協力的で○○は頼れる、

実家が近いから病気のときは頼める等

時間や労力を(気持ち割り引いて)計算に

入れる。 

逆に、金銭面に関してはかなり割り引いて

計算に入れておくこと(夫の給料、

実家の相続等)。

何があるかわからないからね。

 

むろん、目標とすべき金額は

"妥当な"生活という点を忘れてはならない。

特に教育費と住居費。青天井にしないこと。

予算の中でやれるだけのことをする。

自分が触れたことがないような生活を

描くべきではない。

等身大であれ。

 

結婚前夜

 

 

結婚する、ということが

いよいよ現実味を帯びてきた。

もちろん、生きたいという概念はない。

ただ、生きることを肯定したいという

野心がある。

 

生きることはいいことじゃない、

"さぁ" 続けよう。

 

寿命まで生きる現実は変わらなくとも、

接続詞を見つけたことで

少しだけ気が楽になった。

 

道徳は義務だ。

やりたいという感情で守るものではなく、

いやいやであっても遵守するもの。

生きることは、私にとって極めて道徳的だ。

淡々と守る道徳そのものだ。

 

子供が生まれれば、紛れもなく義務になる。

少なくとも成人になるまでは、

育てあげようと思う。

反出生主義に近い考えを持っているものの、

確実に異なる点がある。

それは、いいことばかりの人生であっても

生きること自体を善と判断できないし

全く好きでもない(生きたくない)

という点である。

 

生まれることによって確実に生ずる

苦を避けるために、

そもそもかたちを生み出さない。

その考えはわかる。

”では、なぜかたちなのか。”

それが知りたいのだ。

そしてそれは、かたちなくして

問うことはできないのである。

 

ーすべてのかたちは意味である。

 

また、かたちがないことが最善というのも

結局かたち側の主観によるものである。

苦しくても悲しくても生きたい人は

いるのだから。

そしてなにより、かたちの生成と消滅の

循環を断つことができるという

考えの傲慢さ。

決める権利など、あるのか。

私は照明そのものではなく、ただの点滅だ。

この容器はただの消耗品。

そしてこの感情や思考は、

・・なんだろう。

 

結婚前夜マリッジブルーになるかと

思いきやなんてことはない。

生きていること自体の不明瞭さに比べれば

実にわかりやすい不安だけだ。

解決しようとしないで、ぼうっと

眺めているのが最善手なのは同じかな。

誰と暮らそうが、子供ができようが

どんな仕事をしようが、

どんな親に育てられようが、

どんな私であろうが、

 

 

 

おさらばするまで、問い続けたい。

問えなくなったら、意味を全うしたい。

それだけが、肯定だから。

 

 

 

 

 

ミニマリストの効用

 

 

【ものを厳選する】

 

かたちはどこまでいってもかたち

だけれど、私にとって心地よいかたちと

そうでないかたちがある。

できる限り、心地よいかたちに囲まれていたい。

 

 

私が好むのは、経年変化をするものだ。

例えば、銅製のカトラリーや鉄製のフライパン

分厚い牛革の財布に鞄、アタのボックス。

色が深まりツヤが増し、傷が入り込み馴染み、

美しい。

同時に、ストーリーを感じる。

植物や動物、鉱物を感じる。

命をいただいて生きていると、その変化を

見て肌で知る。大きな流れの中にいると

思うと、心強くて温かい。

 

 

あとは、無駄のないもの。

シルエットやシステム、動線など

無駄だなときづくと途端に

億劫になる。逆に計算されたかたちは

使いやすく、そのシンプルさにグッとくる。

また、色も派手な色や多色使いは

見ていて疲れる。

インテリアやファッションの

色味を穏やかなトーンで統一したら、

コーディネートにまとまりが出て

心地よいものになった。

特に服は、色形系統別にたくさん持って

いたけれど、ほとんど着ていなかったし

コーディネートに時間がかかっていた。

本当にお気に入りだけを残したら、

どの組み合わせでもウキウキするし

コーディネートも3秒で決まる。

そして、あれが足りないという気持ちが

なくなった。

これで充分。今ほしいものは、足りない

からではなく、あったらウキウキすると

わかるからだ。

今までは、この色のこの形を持っていないから

買っていた。今は、これを着たら

ワクワクするな、他のお気に入りと合わせたい

と思って買う。

だからシルエットや手触りの

イメージが具体的だし、なんとなく

しっくりこないものは買わないでいられる。

不安や渇きで選んではいけないと、

一歩踏みとどまることが出来るように

なってきた。

 

 

ものと向き合い、じっくり考えて選ぶことは、

私の大切を浮き彫りにする。

かたちに囲まれることは悪ではない。

かたちをさばくためではなく、かたちを

通し、その本質に触れるために

じっくり選ぶのだ。

 

小さく、シンプルに、変わるを楽しむ。

そうやって生きていたい。

ただ私の性格は保守よりだから、

苦しくない範囲でゆるめていこう。

なにもなくても生きられる、でも

これがあったらちょっぴりうきうき生きられる。

そんな感じで。

 

 

 

 

 

球体の世界

 

 

人が、ものが、

すべて球体だったらいいのに。

それならシンプルでわかりやすい。

 

我々が考えるべきは、かたちの些細な

違いではない。悩むべきは

かたちの色や大きさではない。

これは慰めではない。

その事をはっきりさせないと、

いつまでもかたち上のしょうもない

悩みに翻弄され、仕事に

とりかかれないからだ。

労働ではない。仕事だ。

 

 

かたちであること自体について

考える、それこそ仕事だろう(しんどいが)。

そもそも考えるとは、かたちと意味と

それらを引き受けて生きる方を

選択するために頭を使うことじゃないか?

かたちはどこまでいってもかたちだ。

かたちa→かたちa′で解決される問題なんて

もともと解決する必要もない、

勝手に問題に仕立てあげた暇潰しの

玩具だろう。

 

 

すべてが球体。

同じ輪郭と体積を持つ、まんまるの顔。

人間の記号とは一体なんだろうか。

言語を生み出す?道具を使える?

理性的である?

すべての人間に当てはまる記号は

思い浮かばない。

すべてのかたち、これも同じだ。

 

シンプルに考えるなら、時間と空間に

おいては同じ条件下にあるといえる。

一方通行の時間、これはかたちにとって

経年変化および劣化を意味する。

また、3次元空間に存在し輪郭と体積を

持つ。これらを複合して考えると、

かたちはその中に有限性を内包している。

外ではない。かたちであるために、

有限でなくてはならない。

その意味で、内包しているのだ。

 

 

 

逆に考えよう。かたちが多様である

ということは、何を意味するか。

すべてのかたちが球体ではない、

むしろ同じかたちが存在しない。

その唯一性はおそらく護られる

べきだろう。かたちの多様さは、

存在の根源にあるものの照射で

あるから。おそらく。

だから、多様性は排除すべきではない。

人権だのピースだのといった

存在者側の益を根拠とする抗議では、

多様性は護られまい。

(誰かの益は誰かの損だ)

 

 

 

では、かたちでないとは一体どういう

ことだろう。輪郭も体積もなく、無限。

なんとなく宇宙や真っ白い部屋を

思い浮かべてしまうが、それもかたちだ。

かたちがない、ということを

どうやっても考えられない。

肉体というかたちから解放されたら、

知ることができるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうせ続くのなら

 

 

家庭を持ち、子を産み育てる

 

それが生きることの肯定だと決めて、

もうなにも考えずにさっさと

取り組もうと思った。

仕事、子育て、それに付随する

コミュニティ内の役割。

忙殺されてしまえば、あっという間に

時間が過ぎて、忘れられるんじゃ

ないかという期待もあった。

 

どうせ生きるなら、

生きることを続けなくちゃいけないのなら

考えないでいたい。

考える上に続けるなんて拷問だ。

砂を盛って、盛ったら崩して、

また別の場所に盛るのとおんなじだ。

意義を見いだせないと生きられない。

意味なんて要らないのに、

生きなきゃいけない。

 

 

 

かたちに埋没すればいい、そう思った。

誰かの悪口をいってみたり、

社会問題を遠くから嘆いたり、

後先考えず遊びほうけたり。

そうやって生きて、死なんて考えないで

今好き勝手やるのを望めばいいだけ。

感覚のスイッチだけをいれて、

思考のスイッチを切ればいい。

 

 

でも、ふと冷静になる。

あははははと笑ってる奥の方で、

くっそどうでもいいと思ってる。

深刻にうなずいていながら、

本当はなにも感じていない。

そういう自分をみつけると、

結局家庭をもって子を生んでも

同じじゃないかと思えてきた。

忙しさの合間に、

『さっさと終わんないかなぁ』と

きっと思うのだろう。

 

 

生きることの肯定が続けること

それ自体であるのなら、

自らの子孫を産み育てるというかたち

でなくてもよいのではないか。

そもそも性的な欲求という極めて動物的な

感覚によって引き継がれてきた筈である。

そして、その快楽欲求によって

身を滅ぼすのが常である。

日本の少子化、とか小さいレベルで

生めよ増やせよとやってる場合なのか。

多くの問題は人間自身が蒔いた種であろう。

…と、いう感じで続けないための

理論武装に走りそうだ。

 

 

 

個人としての継続ではなく、全体として

続けていく。全体、というのは

人間だけでなくその他諸々の生物を

含む生命体、およびその基盤たるこの星。

何十億年後には太陽が爆発し、地球も

吹っ飛ぶらしいが、その頃には別の惑星を

作り出して移住してるかもしれない。

人工の太陽で案外快適に暮らしてるかも

しれない。(たまに目撃される宇宙人は、

未来人だったりするのか?)

言語が必要なくなって、もしかしたら

食べ物も要らないかもしれない。

感情も邪魔だから、必要なくなって

いるかもしれない。

犯罪も貧困も環境汚染もいじめも

欲望も労働もないかもしれない。

 

なんの問題もない、無菌室の地球A′。

果たして問うことは残るだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正しく問う、泥臭く応える

 

 

物事を考えるに辺り、

正しく問うことがなにより重要だ。

 

根本的な前提として、生きることの

善悪は我々には判断できない領域にある

ことを知らねばならない。

こういう状態なら善、こうなら悪と

決めることは出来ない。

唯一できるとすれば、主観的な意見を持つ

ことだけである。そしてそれは、

人類全般に共通するものでもないし

多数決で決まるものでもない。

単なる好みである。

生きることの善悪については、正解を

知るよしもないが問うことはできる。

むしろ問うことだけが、生を意義

あるものにする。

(なお、意味はかたち伴って存在する)

 

 

ただ残念なことに、生を問うことが

できている人は本当に少ない。

主観的な好き嫌いの問題にすり替えて

しまっている。

朝食がパンかご飯かでもめてるような

もんで実にどうでもいい話なのに、

テーマの大きさ故に深刻な気がして

いるだけだ。

 

 

 

ここからが本題。

少子化について考えたい。

なぜ生む人が減っているのか、

と問うたなら

⚫一次産業から離れる人が増え、労働力として子をもうける必要性がなくなった

⚫娯楽が多様化し、子育て以外に人生の暇を潰す道具が増えた

⚫共働きが必須にもかかわらず、男性稼ぎ頭モデルから脱却できない雇用体制への不安

といった理由が上がられるだろう。

 

しかしながら、これは根本的な問いに

答えていないので、それぞれ潰したところで

流れが変えられるとは思えない。

問うべきなのは、

『なぜ、続けるか』

この命題に尽きる。

上記した例は、今の社会における

続けることの障壁であって、

かつても別のかたちで存在していた

筈である。(飢えや病気等)

それらが改善されてきても

また別のかたちで障壁が現れている

わけで、これからもそうだろう。

一切を解決したいなら、かたちで

なくなるほかない。

 

ゆえに、貧富の差もなく食べるに困らず

労働も適度にこなせ子を生むことの

不安が取り除かれたとて、

問いは残るのである。

むしろ純化して残る分、残酷かも

しれない。

いかなる問題が解決されようとも、

形でしかあれず、またそれを継続する

意味、つまり意味である意味を

理解できないことに代わりないからだ。

二千年以上前にこの問いと向き合った

人々と同じ絶壁に立たされ続けるのである。

 

 

『いかにして、続けるか』の前に

『なぜ、続けるか』に

自分の言葉で応えなくてはならない。

続けることを良いことだと

洗脳できる時代ではもはやないのだから。

 

 

例え善でなくても続ける。

自らの子孫を残すというかたちで

なくても続ける。

私というかたちが終わっても続ける。

問うこと自体がこたえとなるように、

生きる。