せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

はじまり

 

おはようございます、ぴーやまです。

新年度始まりますね。

命のはじまりも考えてみたくなりました。

 

この頃、子供を産むか否かに

ついて考えることが多い。

結婚してないし、そもそもその予定も

まるでないのになにいってんだ(笑)と

思われることだろう。

でも、なんとなく~で

選択したくないし、選択してはならない

ことだと思うから考えておきたい。

 

 

まず、単純に子供が欲しいか否か

ということを考えてみる。

幼い子を見て可愛いなぁと思うことは

あるけれど、犬とか猫に思う愛玩的な

可愛さの域は出ていないと感じる。

母性が強い人だと中学位から

子供欲しいなぁと口にしていたのを

思うと、なにがなんでも

欲しいタイプではないのだろう。

欠如とまではいかないにしろ、

だいぶ弱めなんじゃないかと思う。

(あるいは、彼女らも愛玩的可愛さの

ままに産んでいるのだろうか?)

 

次に、なぜ子供を産むのか考えてみる。

本能。それもあろう。

愛する人の子供が欲しい。あるかも

しれない。

社会のため。およそ労働力

としてという意味だろう。頷きたくも

なるが、人であることは生産の反面

消費から逃れられないことも

忘れてはならないと思う。

自分のため。育てる楽しさや

一人前の証、老後の支え、暇潰しに

理想の再現、血をわけた存在が

欲しい、愛情を注ぐ対象、かすがい、

家庭に入る口実、何らかの自己実ら現…

親の期待。孫の顔がみたいに答えるのが

親孝行になるのかもしれない。

様々まとめると、生物的・社会的に産んだ

方がいいと思うからというところだろう。

 

では、なぜ産まれたか。

どのようにして、ではなく、

何ゆえに産まれたか。その答えは、

存在のなかにしかないと思う。

存在者である我々の思い込みや願望で

決まるものではないし、そのような

慰めは本来の意味を持たない。

この「なぜ」を、どのようにしての意味に

とらえる時答えを見いだそうとして

八方塞がりになる。

望む望まないとか、どのような動機で

なんてのに確たる答えがあったとしても、

それは媒介としての生産者(親)の

時点の思いにすぎない。

何ゆえにという問いには、存在者である

我々は誰一人答えを持っていないと

いうことを頭の片隅にいれておきたい。

 

 

まあ、なんやかんやいったけど

一番気にかかっているのは

存在に迫るにあたり子供を産むことが

どういった展開をもたらすのか?

ということだ。

子供という新しい存在者のせかいにより

世界の一部が拓かれるのは、親として

喜ばしく存在者としてワクワクすると思う。

けれども、そのために人一人を

何十年とこの世界に留めておくことは

倫理的ではないのでは?と考えてしまう。

わざわざ存在者としてかたちを持たせる

ことは、わたしの価値観からすると

破壊に近い解体のように感じる。死が存在者の最大の解体なら、誕生は存在の最大の

解体だろう。存在の中からポンと

押し出されることを、よかったね!と

心から思うことが私にはできない。

確かに存在者として押し出されなければ

全景をみることは出来なかろう。

その意味で、かたちをもつことは

有意義ある。

だからといって、存在そのものの圧倒的

豊かさから引きずりおろすことを

素直に肯定できるわけではない。

 

けれども、生殖活動によって子孫を残し

生存競争を生き抜いていくという

生物全般の共通項を思うと、

もっと大きな意志がはたらいている気も

してくる…。

 結局わからないということだけ

わかった。あるのは、自分と世界との

約束だけだ。いかに世界を拓くか、

その姿勢へと着地する。

 

 

 

わたしが何かを残したいのは、

個体(あるいは生命体)として逃れられない

有限性を、全体の一部であるという

かたちで克服することで、永遠性を

獲得できると直感的に思うからだ。

(これは四次元には到底できない、

かたちをもつ三次元特有の超克のあり方 

だと思う。四次元を目指すんじゃなく、

異なる方法で永遠性を獲得するのだ!

今ひらめいたけど、この方向は

新鮮でワクワクするナァ。)

 

それはつまり、わたしという個体が

終末を迎えても世界は続いていくだろうと

期待できることを意味する。

この期待とは、世界の存在者らが

もつ「なにかできそうな気が

する」という予感に裏打ちされている。

予感は環境と能力の側面をもつが、

つまるところ世界が未完成であり

せかいが拓ける環境があることと、

その過程に各々携われるということだ。

人生は、過去を認めより豊かな未来を描き

今この時を生ききっていく過程そのものだと

常々思ってきた。でもそれだけでは、

生の終末を生ききる在り方が説明

しきれなかった。わたしのせかいが終わる、

その未来が生々しく実感されるほど

今を生ききることは困難になってしまう

のだから。

けれども、「全体の一部としてのわたし」

という視点を持つことで、その困難は

わたしの破壊ではなく全体の解体として

認めることができると思う。

(生々しく終末を感じられない今においては、

その視点が北極星を見いだすだろう。

つまり、どの段階においても重要な視点だ)

 

子孫を残すことは、続いていく世界の

一つの象徴なのだと思う。

各々のことばでもって、残る存在者の

せかいを揺るがすことや存在者が

せかいを拓ける環境を整えること、

拓いていく能力を見いだすこと…

これらも続いていく世界を描く方法だ。

(もちろん、それを受けとる存在者が

いることも暗黙のうちに含まれている。)

 

私は、後者にとりつかれている。

それは前者の可能性を捨てることを

意味するわけではない。が、少なくとも

生まれてくる一人の人間を巻き込む以上、

全力を注げないことにたいして

折り合いがつけられないうちは

産みたくない。

 

いつまでもつけられないかもしれない。

年を取って産むのが難しくなってから

ほしいと思うかもしれない。

そのリスクを見なかったことにも

誰かや何かのせいにもしない。

両手にもったまま引き裂かれ続ける

覚悟はできている。

※この覚悟は、失敗体験の承認でえた

自信に裏打ちされている。つまり

できなくても何らか得られるものがあり、

また再起可能だと信じているということ。

それは物語力のうち、素材の豊かさではなく

構成力の豊かさに依るところが大きい。

 

 

せっかくだから(?)

生の終末のイメージをまとめておく。

おそらく、意識が朦朧としながらも

次元の壁を超えることが直感的にわかり、

別の感覚が冴えてくるだろう。

肉体の心拍数は下がるが、感覚の心拍数は

急上昇する。バクバクなるテンポが

早まり、早まりきって一つの音になる。

連続が点になり、すべてになる瞬間がくる。

残る世界を照射していた最期の姿勢の

まま突入すると、壁を越えるとき背面から

はいり見上げるかたちになるだろう。

「あぁ、これが存在の」

光。そう思うのと同時にそのものになる。

 

今だって粒子に違いないけど、かたちを

もつとどうしてもリアルに実感できない。

だからこそ、意味であれるのだろう。

 

 

 

拓け。それだけが人生だ

 

整形、それは君が見た光?②

 

 タイトルの元ネタは全国区だった

ろうか…?無駄に気になるけど、

引き続き「整形」について!

 

整形するかいなかの差をコンプレックスで

片付けてしまうのはつまらないので、

もう少し詳細にできぬものかと考えた

ところ4つに分類できる気がしてきた。

※美人は個性のない顔と

きいたことがあるので、美人でない方を

個性的と表現して進めていくよ!

 

 

①自意識が高い×個性的~やや個性的な容姿

これは整形する人のなかで3割くらい

占めるんじゃなかろうか。

自意識は、わたしに注目してほしい、

いや注目されるべきだという思いに近い。

(もっと言えば、認められたいであり、

掘りさげると存在論になるが今回の

主旨ではないので割愛します)

 

この手の人は自意識が満たされる場を

うまく見つけたり、

他に強固な軸を形成していたりすると

整形に傾く比率は少ないように思う。

目的は造形美ではなくあくまで

注目の的である自分、だからだ。

しかし、うまく昇華されないと

短略的に整形へ向かいやすい。

 

②他意識が強い×やや個性的~個性的な容姿

全体の4割くらいを占める気がする。

積極的に注目されたいというよりも、

周りからの見え方や他者からの期待に

影響されやすいタイプだ。

プチ整形が流行れば、気になってたし

やってみようかくらいの感覚で

手を出す。

この手の人は、周りの動向が自らの

行動の指標であるから、さしたる

覚悟がないという点で一番怖い。

失敗例やメンテナンスの必要性等も

知ってはいても、「みんなもやってる

みたいだし、たぶん大丈夫でしょ」と

簡単に境界線を越えてしまう。

失敗したときはもちろんだが、

周りの動向が変わったときに後悔する

場合がある。例えば、結婚を考えていた

人が整形反対派だった、とか。

Yahoo!知恵袋で相談して自業自得だ、

と言われ落ち込むだろうか。

あなたは悪くないですよ、運気が

悪いのですという言葉に吸い寄せられ、

胡散臭い占い師や虚空な目をした

新興宗教会員にこれだ!とばかり

ついていくのだろうか。

 

③美意識が高い×やや個性的~個性的でない容姿

これは二割五分くらいかな?

自意識、でなく美意識。

それは、自分の中に美しさの観念があり

自らの容姿について各々の美意識で

評価するタイプだ。周りから

きれいと言われようが、自分の思う

美しさでなければ意味がない。

 

この手の人は、整形へ全面賛成ではなく

①や②のような整形へは嫌悪感さえ示す

ことがある。センスのない整形は、彼女らの

美意識からすれば認めがたく、

同じ整形だとひとくくりにされたくない

と感じるのではなかろうか。

ある程度のところで打ち止めできれば

満足するのかもしれないが、

美意識のあまりもう少しあとすこしと

繰り返し細かな修正を重ねていく人も

多い。そのうち、あまりに整いすぎて

人間味がなくなるのはこの手の人だ。

自分は満足(あるいはもう少し習性可能)

と思っていても、ごく一般の人から

みればなんともいえない異様感がある。

脱毛サロンのお姉さんの、脱毛しすぎて

生気が感じられないあの感じ。(どの感じW)

 

この手の人は、老化にともない

割合的に増えてくる。

(老化の恐怖体験に人一倍おののくのも

このタイプだろう。)

エステの延長線上的な感覚で

通うのは、近々ステータスになるやも

しれない。

 

 

④戦略的な野心家

これは、残りの五分くらい。

ざっくりまとめたけど、要は美しさという

評価軸を効果的に利用しようと考えて

いるタイプだ。

①~③までは頑張っても小悪魔にしか

なれないが、このタイプは例外なく

悪魔的である。

あまり見るタイプではないが、

ある目的のためなら整形も厭わないという

考え方をしている。

いわば、外交カードとして有利なら

整形でもなんでもしようという感じ。

 

この手の人は、恐ろしく賢い。

(少なくとも賢さを隠すくらいには賢い。)

そして、くだらないプライドは持たず

いざという瞬間以外はひっそり潜伏

している感じ。

容姿にかかわらず、このタイプの人にとって

その辺の男をおとすことくらいわけない

ことだし、実際モテてきたかもしれない。

しかし、そのゲームには飽きてしまって

もっと魅惑的な目的へ熱意を抱いている。

 

 

まあ、大雑把な分類でしかないが

こんなところか。

そう考えてみると、単純にいい悪いの

問題ではなくて、目的と手段が

合致するかが満足感の鍵だと思う。

整形は自由意思だ。禁じられてもいない。

ただ、倫理的な問題としてルールは

守った方がいい。例えば、結婚を

する前に整形について告白するとか。

「言って取り止めになるなら愛ではない」

とかそういう話ではない。

(そうやって取り乱して被害者面する人は、

自分の打算を棚にあげてないか?)

結婚相手の意志を一人の人間として

尊重するから、言うのだ。

「こんなわたしでも受け入れて!」

という己の際限ない願望のためではない。

また、後々ばれて揉める要素をつぶすため

でもある。

 

ちなみに、③のタイプと結婚する男は

素朴に女の生態を読めない

(金はあるかもしれないが)ヒエラルキー的

に格下のタイプか知った上で自らの

所有欲を満たすために結婚するタイプ

なので言わなくてももめる心配はない。

④にいたっては、もう好きにしてください

という感じですね…!

 

 

 

なんだかんだ言ったけど、

やっぱり人間嫌いじゃあないな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

整形、それは君が見た光?

 

おはようございます、ぴーやまです。

今日は「整形」について!

(女性の整形に絞ります)

 

 整形は、論点が多いので

まずわたしの思いをば。

わたし自身は、整形したことがない。

歯も直したことはないので、

完全無整形といっていいと思う。

だからといって別段美人ではない。

肌は荒れてるし唇も

荒れている(荒れすぎやろ)

造形でいけば、鼻は低めで顔はでか目だ。

じゃあ整形したいか?と聞かれたら、

今のところしたいと思っていない。

ポリシーとかではなく、そこまで気に

することができないため。気にしていない、

といえば聞こえはいいが無頓着に

なったという方が近い。十代後半の時は、

それなりに気にしてノーズシャドーを

駆使したり小顔に見える髪型を模索したり

していた。あまり頓着しなくなった 要因は

様々考えられるが、まとめると

価値観の変化と自らの納得によると思う。

わたしの遍歴はここまでにして全体に

せまっていこう。

まずは縦軸にそって下地を考察するよ!

 

学生時代(とりわけ中学)は、

可愛さというのが

かなり重要な指標になっていた。

勉強ができるとかスポーツが得意

であっても、可愛さ指標からは

抜けられないのが女子社会。

「⚫⚫だけど可愛くない」というのが、

それだけで十分な評価として成り立つのは

そういう理由だ。まぁ、周りにどう評価

されようが気にしなければいいという

意見もあろう。(大人だ、アダルト!)

でも、表だって評価されるわけではなく

同世代女子共通の価値観として

空気に折り込まれているのだ。

同世代の子達と交流しようと思えば、

その空気を吸わねばならない。

ましてまだ価値観も固まりきっていない

から、揺らぐのは当然だろう。

個人の責任にするには重すぎる。

 

次に高校だが、この段階で「偏差値」

によってすみわけされる。

比較的偏差値が高い人たちは、大学や

その先を視野にいれるため「偏差値(学歴)」という価値軸を意識して学生生活を

送ることになる。

一方、あまり偏差値が高くない人たちは

相変わらず「可愛さ」が価値軸として

影響力をもつ。誰と誰が付き合ってる、

どんな人とどんなデートをしたかが

現在の話題であるし、近い将来に

結婚を見据えている人が多いためだ。

進学や就職よりも、楽しい恋愛の末

旦那さんに大切にされながら子どもを

育てたいという母性的な人でもある。

(単に勉強したくない、働きたくない

という人もその傘の中に隠れているが

今回は触れないでおく)

 

次に、就職。顔採用ということばが

あるように、建前上は能力といっても

同程度なら顔のいいほうをとるし

能力をしのぐ迫力(!)があれば

採用にかかわってしまう事実は

嫌がおうにも感じる。

旧い会社だと男性社員の嫁さん候補

としての考慮、若さ+可愛さをもつ

新人が入ることで生まれる活気への期待が

大きいのではないかと思う。

(そして、そういう期待をされているという

ことに気づいているかいなか、また

気づいているならどのようにとらえて

いるかという部分にこそ注目している

のではないかと思う。いや、願う。)

まぁ、最近はどこも人手不足だし

次第に減っていくことをみこして

がっつり採用する(ブラック)企業も

普通にあるから確実に壁にぶち当たる

とまではいえないが。

実際働き始めると、「仕事」が軸に

加わる。これは偏差値(学歴)にかわる

指標でもあるが、高学歴でも腰掛けと

思って出会いにせいを出すタイプと

男性とならんで競争し成果を出そうと

女を捨てるタイプがいる。なぞというのは

ちょっとお粗末な分類で、実際はもっと

グラデーションに富んでいる。

とはいえ、仕事に熱意を燃やせるタイプと

そうでないタイプがいるのは間違いない

だろう。

 

そして、結婚。婚活ブーム以前から

大多数の女性における最大の関心事

だろう。かつてのような家同士のつながり

=結婚という概念がほとんど薄れている今、

出会いの場において可愛さ問題に直面

せざるをえない。選ぶのは男である

ということを改めて実感させられるのだ。

仕事ができても料理が得意でも、

あくまで相手側の見た目基準を

満たさない限り土俵にはあがれない。

人間中身だとかどうせ衰えれるのにとか

ガヤガヤいったところで、この基準は

(無意識に)譲れないのが男の性。

好みはそれぞれあろうが、要は

そそらなければどう頑張ってもダメなのだ。

 

 

ここまでは各ライフステージで直面する

であろう可愛さ問題だが、すべての人が

直面する訳ではない。

そこそこかわいい子が若いうちにぱっと

結婚してしまうパターンとか。

でも、忘れてはならない誰もが

直面する問題が「老化」だ。(ぎゃああ)

去年と同じメイクでもなんかくすんでいる、

化粧水がなかなか吸い込んでくれない、

地下鉄の窓に映るブスッとしたおばさん…

と思ったら自分だった等数えきれない

恐怖体験が生涯続くかと思うとちょっと

泣きたくなる。

可愛さ云々ではないにしろ、

やはり整形について語るには外せない。

 

 

ここまでは、女性が整形にいたる

ポイントを縦軸にそってざっくり

見てきたが実際にする人としない人、

して満足する人としない人がいる。

ということで、次回は個人を

詳細に考えてみます!

 

 

 

 

 

 

「ライヴは演者とお客さんで作る」は建前ではない

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「ライヴ」について!

 

生歌を聞けて本人も見れて

CDにはない息遣いや熱まで

伝わってくる「ライヴ」。

二時間くらいの時間だけど、

あの一体感と独特の共鳴は

余韻として残る。時間を経てからも、

曲を聞くと情景がバッと浮かび、

背筋がのびる。

彼らがせかいを拓いていき見える景色が

変わるのを同じ思いで見れるよう、

わたしもわたしの土地で頑張ろう、

そう思える。

 

これは、とても素晴らしい<対話>の

かたちだろう。

わたしの弦は震えたし、みんなの弦も

震えているのもわかり、演者もまた

震えている。そんなとき、この場面に

立ち会えて本当によかったと心から思う。

 

一方で、同じ演者でも何故か

不完全燃焼なライヴになることがある。

それは、やはり私だけでなく

みんなも、演者自身もどこかで気づいて

いる。ふと帰りの電車を心配していて

ハッとする。ごまかすように腕を挙げても

あぁすでに心ここにあらず!

 

 

その差が生まれる理由について、

主に三つの可能性があるように思う。

可能性と対処法について考察

するよ!(シュワッチ!)

 

 

①私自身の心配や不安感

ライヴは少しの心配事や不安感を

払拭するにはむしろうってつけだが、

あんまり深刻になっていると

集中できなくなるものだ。

人生そこまで深刻になることも、

深刻になったからといって解決策が

見いだせることも本来的にあまりない。

そんなときは、大概なにかに

蓋をしている。無意識だからたちが悪いが

開けて見れば大したことないぞ!

ということでそんな場合は

感動体験を重ねて浄化を図るのではなく、

自分と対話しましょう。

 

②感動モンスター、インスタ映えラーの席巻

感動モンスターは、感動したがりや。

演者や作品にはさして興味がなく、

なんか感動しそう!という期待だけで

あらゆる娯楽に身を委ねる人々。

インスタ映えラーはそのまま。

人気の演者のライヴに行ったよ(ぱしゃ)

マイナー応援してる自分(ぱしゃ)

生活のほとんどがパンケーキ感覚な人々。

この手の人たちは、会場が大きくなるほど

増える。そりゃ当たる人も多いから

だろうが、より大きいとかより多いとかが

元来好きなのではないかという

気がする。人の多いところに集まる習性?

彼らを掘り下げるのはまた別の

機会にして、とりあえずこの手の人が

多いほど不完全燃焼なライヴに

なりやすいと感じる。

なんというか、あまり楽しんでないし

集中してないんだけど(そらそうだ)、

お客だからとふんぞりかえっている。

メジャー曲じゃないときの

盛り下がり感!確かにあんまり知らん

のかもだけどさ、完全直立不動とか

腕組みってアータそれどうなん!

演者側になったことがないと、

なかなかわからないものなのか、

はたまた想像力にかけるのか…

 

③演者の怠慢

数曲わりとヒットしたけど、現役で

メジャー感がない人の中に

一定数いる。確かにあのときは熱狂を

起こせたかもしれない。けど、

今この場を感動で揺らせるか?

貫く芯は熱している?

重ねるにつれ、慣れる部分はあるだろうし

来ているのはファンだから自分の

独壇場ではある。

でも、それでも必ず舞台に上がるからには

もってなきゃいけないもんがあると

思う。ライヴはそれをごまかせない

場所だから、感動をおこしつづけられる

演者は例外なく大切にしていると感じる。

で、本当に真面目で熱心な演者ほど

①や②の席巻による不完全燃焼を

自分のせいだと考えてしまいがちに思う。

 

ホントに届いてんのかな、

消費されていくだけなのかな、

たまたま彼らのファッションに

マッチしただけでどうあがいても

流れていくのかな…

そういう表現者の孤独や焦燥は、

次の表現へ向かう震えになるのかも

しれないー

 

 

以上、勝手きままなライヴ論でした\(^o^)/

こんなことを考えられる今は、

そこそこ安定した期間なのだろう。

次の解体や創造までしばらく自由に

興味の向かうところを考えたおそうかな。

 

 

 

愛まであと何里だろう

 

ずっと、愛の周辺をぐるぐる

まわっている

 

存在は愛、存在者は愛をわけもつ

かたちあるもの、かたちの輪郭が

境界線、境界線が蕩ける瞬間に

感じる幸せ、幸せは権利生ききることが

意義、存在意義は各々ふさわしい在り方で

意味というエネルギーを燃やすこと、

ふさわしさはかたちによって異なり

在り方も多様・多面的、エネルギーによって

解体・創造という運動が引き起こされる、

分解・統合をへて世界は咀嚼され

せかいが拓かれていく、引き受けた世界へ

ことばで迫り立体性を獲得し

言葉として世界へ還元していく、

各々の地点から見える世界を重ね

超立体的球体を描こうとする試みが

三次元における四次元の追求、

三次元と四次元の間にある「存在の壁」、

超えることはかたちを失うこと、

かたちの有限性が克服されるすなわち

無限性という次元が加わるということ、

それは境界線もなく不可逆的な時間も

吸収されるということ、

すべてが無限に永遠に在ること、

それが存在であり愛ということ。

 

 

祈るにはまだ早い

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「祈り」について!

 

特定の宗教を持たない人は多いし、

わたしも信心深い方ではない。

でも「祈る」という行為は、

誰に教わらずともあるかたちで存在

していたと感じる。

たとえ神社で手を叩かなくとも、

教会で牧師の説教を聴かなくとも。

「祈り」の本質は、神なるものとの

交信だろうと思う。

 

仏閣やパワースポットをめぐる企画ものや

霊感商法なる詐欺事件の横行からも、

神なるものへの関心の高さがうかがわれる。

でもさ、それは本当に「祈り」かな?

ファストファッション、ファストフード、

ファスト祈りってくらい

隙あらば祈ってるようなアレは

単なる願望じゃなかろうか。

 

 

わたしにとって、神なるものは

存在だ。存在そのもの。

そして、わたしが「祈る」のは

生涯を通し存在そのものに迫ること。

具体的には、(自力では操作できない)

迫るための出来事や出会いについて。

それは、楽しいことや嬉しい出会い

とイコールではない。

勿論かたちある存在者としては、

苦しいこと痛ましい出会い等は

正直いってとても怖い。

でも、存在に迫る中でのものならば

その杯を余さず飲み干したいのだ。

 

 

だから、わたしはすべてを差し出す。

それは場合によって差し出すとか、

程度によって少し差し出すとか

ぬるい話ではない。いつでも全部

まるごと差し出すのだ。具体的にいえば

生ききる姿勢であり続けるということ。

それが、わたしの「祈り」にたいする

対価だ。

 

 

自力では操作できないこと、

という意味では願望も同じだろう。

結婚できますように、子宝に

恵まれますように、家内安全であります

ように、健康長寿でありますように…

あげればきりはないが、では対価は?

と問われたとき答えられるだろうか。

お賽銭だろうか?神は対価なんてケチ

臭いこと望まない?

 

前者は拝金主義のリアリズムで

本心では神なんて信じてないし、

後者は自力で操作できることさえも

丸投げして惰眠を貪っているだろう。

願望における対価は、問いに答え続ける

ことだけじゃないかと思う。

なぜ、なぜ、なぜ… 

それらの問いに、自分のことばで答える。

その上で、その先で、願う。

最後の一点で。

 

 

祈りを北極星に、願望をランタンにして

濃紺の世界を拓いていきたい。

誰も到達していない、未開の地へと

続くこの道を行きたい。

 

 

 

 

その弦は震えているか

 

おはようございます、ぴーやまです。

今日は「感動」について!

 

感動は、せかいを拓く上で

非常に重要な要素だと思っている。

感動には起こす側と起こされる側

すくなくとも2以上の存在者が

必要だと考える。

つまり他の存在者(注:人間に限らない)

が不可欠だ。自分が自分の考えや

なしたことに対して起こるのは

震えであって感動ではないと思う。

どちらかといえば、興奮に近い。

 

もちろん、2以上の存在者が接すれば

感動が起こるのかと言えば

必ずしもそうではない。では、

感動を構成している要素は何か?

主に、3つの要素が揃う必要があると

考える。

 

①「存在」という共通項

すべての存在者は、なんらかの

かたちをもつ。それは、「存在」の

一部であり、「存在」の多様で多面的な

要素を各々がわけもっていると

いうことだ。つまり、我々は「存在」の

一部分を示しているだけだということで

ある。肝心の「存在」そのものは

我々存在者の起源であり、原子であり、

すべてを含むわけで、存在者の

門戸外にある。

それは、アダムとイヴを創造した神を

存在させたものやビッグバンを存在

させたものを考えてみるとわかる。

遡れば、存在そのものは存在者の手の

内にはないのだ。

ゆえに、「存在」がなぜ多種多様で

どれ程バリエーションがあり、

そもそも何ゆえ在るのかについては

答えることはできないだろう。

(それっぽい答えを見つけても、それは

一つのかたちである以上すでに存在に吸収

されている。存在そのものに意味をつける

ことは不可能である)

しかし、一見バラバラに見える存在者の

共通項として″在る″ことがあげられる。

在ることは実存に限らない。

ゆえに空想や死者ももちろん在る。

つまり、ないものはないのだから

すべてあるといってよく、その意味で

在ることは存在者の共通項である。

すなわち共鳴の土台である。

 

②演者の「震え」

演者、すなわち感動を起こす側の

「震え」は不可欠だと考える。この

震えとは、自らのせかいにおいて

意味エネルギーを最大限燃やし

解体や創造を体現しているときに

起こるものだと考えている。

(→人間という存在者においては、

震えを意志できると考える)

自己を越えてほとばしる「いのち」

といってもいい。絵画やコンサートで

感動するのは、それがきれいで心地よい

からではない。「いのち」の燃焼を

見るからだ。あくまでその瞬間に

今あるすべてをかけるという熱が

伝播するからだ。

 

③観客の「弦」

もちろん、演者の震えだけでは

感動とは呼べず、他者が震えて

初めて感動と呼べる。

そのためには、観客すなわち

起こされる側の「弦」が必要である。

これは感受性とも言い換えられるが、

この弦が手入れてされほどよい

遊びをもってピンと張られた

状態でなければ、いくら演者の腕が

あっても良い音は鳴らない。

 

 

思うに、①を土台とし②と③が

揃ったとき「感動」が生まれる。

そして感動は、共有され昇華した

確かな震えは、互いにとってせかいを

揺るがす力になりうる。

それは、刹那的な透明な統合であり、

瞬間的に孤独を癒す力がある。

(=自他の境界線が蕩ける至福)そして、

己のなかで発酵熟成し、次の感動を

紡ぐ力(震え、熱、感受性)が醸造

されていく。

 

すべての存在者は起こす側と起こされる側、

どちらの側面も持ち合わせている。

また、ほんとうの「感動」においてのみ

かたちの孤独は瞬間的に癒えるが、

存在そのものでない故の孤独は

なくならない。持ったまま生きていく、

少なくともそう意志できるのは

人間という存在者のおかしみかもしれない。