せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

生きにくさ その他諸々。

 

 

生きにくさ。

それは、生存しにくいという

意味ではないと思う。

経済的な貧困は、生存しにくい

状況を招くかもしれないが

=生きにくい、ではない。

それに、衣食住揃い十分生存できる

状態であったとしても

生きにくさは感じるものだろう。

 

差別や偏見だろうか。

確かに性別や人種によっては、

屈辱的な扱いを受けてきた

歴史がある。しかしながら、

受け入れられなかったことを

反省し、差異あるもの同士が

認めあうために試行錯誤を

し始めている風向きがある。

差別や偏見が生きにくさの

元凶であるならば、近年の動きは

むしろ生きやすさへ向かう

明るさや豊かさが席巻するはずでは

なかろうか。

 

現代、とりわけ日本における

生きにくさの正体はなんだろう。

空笑い、感動消費、効率性の追求、

無駄のない設計、希薄なつながり、

スローライフ、多彩なレジャー、

IoT化、過労死、汚職とゴシップ、

インスタント祈り、マウンティング、

毒親、未曾有の災害、スタッフの笑い、

無差別殺人、無機質なやり取り、

マインドフルネス、インスタ映え、

少子高齢化…

 

なんだなんだなんだ?

この重苦しい空気の正体は、

たぶん顔のない「世間」だ。

世間の核はどこだろう、と考えて

ふとおもった。世間、と言う時

そのなかに私がいない!

私と切り離して語るとき、それが

世間の「顔」だと知った。

面倒なこと、理解できない諸々の

ことをスパッと切り離す。

それが生きにくさの元凶ならば、

その原理はなんなのだろう。

 

 

切り離す…切り離す!それこそ原理か。

世界を変えろと叫ぶこと、

せかいを理解されないと嘆くこと、

それを外から見物すること。

それらはいずれも切り離されている。

それぞれに矛盾なく、整合性はとれていると

思い込んでいる。でも本当は

切り離したことも矛盾をみてみぬ

ふりをしていることも、遠くで知っている。

分けるときにこぼれ落ちるものを

小数点繰り上げ的に解決する。

それが社会性だと言われれば、

それまでなのだけど。

二元化の限界も感じるところだ。

 

 

 

 

 

傍観者として見物するのも、

当事者として嘆き叫ぶのも

『なんか前に見たことある』。

そういう既視感から目新しいもの、

より過激なものを求め、あてどなく

歩きまわるゾンビのような人間。

洗い流したい、遠ざけたい、

ああなのに私も私も人間だ。

寸分変わらぬ人間だ。

うまく呼吸ができない。

 

 

父性的愛による『分解』を、

破壊だと恐れたり所詮わかりあえぬと

つながり云々にシラケたりする。

その過ちを反省し、母性的愛による

『統合』を望んだのに、

正義同士が殴り合ったり

優しさ同士がののしりあったりする。

 

その原理を、人間のおかしみかなしみ

つまるところ愛しみに″変換″して

なんとなく納得した気でせかせか

生活に専念する。

それのなにが悪かろう!となじる声。

でもさ、うまく言葉にできないけど

なんか違うと思う、とつぶやく声。

 

 

 

 

 

近い将来、『なにかできそうな予感』の

構成要素である、″できることがある″が

脅かされてくるだろう。

無批判に信じてきたあらゆる価値を

問い直さねばならぬ地点がくる。

働くことや学ぶことについて、

もうその一端がみえはじめている。

臨界点に達したとき、果たしてわたしは

生ききれるだろうか?

照らしておくれ、と願う心を

今夜は裁かないでいたい。

 

 

 

 

 

 

 

生きると生ききる

 

そもそも、生きるって義務や権利なのかな。

選んでないことを生まれでてから選ぶのは、

生ききるためだ。

そうでなしに、義務だとか権利だとか

言い合ったところで何も出やしないと思う。

 

生命は、連鎖的に引き継がれてきたもの

だけれど、誰かから与えられるもの

ではない。何人もその行方を定められる

ものではない。

永遠を求め、引き継がれてきた生命の連鎖。

個々の命の不死を実現することで完成される

と思うのは、かたちゆえの過ちだろう。

 

 

何が言いたいのかといえば、

全体の意志として希求される『永遠』と

それゆえに引き継がれてきた生命。

その連鎖のうちに生きることは、

大きな意志の働きによって与えられた

ものなんだと思う。

けれども、生きることを選ぶことは

与えられるものではない。意識的かつ

能動的な行為である。

すなわち、大きな意志を認め

永遠なるものを求めることだ。

存在そのものである、愛を求めることだ。

 

でも私はかたちを持つから、

愛そのものにはなれないし、

最期までその全貌を知ることは

叶わないだろう。

けれど、その多面体のある側面なら

かたちの中に認めることが

できると思う。愛をわけもつのだから。

 

認めることは、必ずしも肯定ではない。

在ることを、在るね、と点検するだけ。

そこから愛に迫ることは、すなわち

愛でないものを明らかにしていく

ということにほかならない。

これは違うね、これも、それも。

違和感と怒りを頼りに、いびつな目を

自覚しながらできるだけそのままを

見ようと努める。それが生ききる姿勢

だと思う。

 

 

日本の年間自殺者は、約三万人。

未遂者も大勢いるだろう。

経済や物資の豊かさが

幸福感をもたらすのは事実だろうが、

生きることに踊らされているだけ

だとすれば、無味乾燥じゃないか?

その得体の知れない鬱屈がはびこって

いるから、忘れるためにさらに

豪奢に着飾りけばけばしく踊る。

踊ることに疲れた人間や不向きな人間は

刹那的に生きることの鬱屈を認めただけだ。

自殺者や未遂者のなかに、生ききるために

死を選んだ人間はどれだけいるだろう。

刹那的に生きることと永遠を求めて

生ききることはまるで違う。

ふざけるな、ちゃんと見ろ、と思う。

かたちで解決できることなんかで

死ぬんじゃねぇよ、なぁ。

かたちで超えられないもののために

賭けるもんだろ、命はよ。

 

そんなことを考えていると、

いつの間にか次元の壁の前にいる。

にらみつけながら、どこかに穴を開けて

やろうと酒をあおる。

酔ってたまるか、踊らされて終わるもんか。

そんな気持ちになる。

 

 

 

 

 

「すべては、愛」はことば足らず ①

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は、愛についての考察をば。

 

 

愛は、存在だ。

愛それ自体は現象界にはない。

現象界にあるのは、存在者だけ。

存在者を存在者としてあらしめる、

起源であり原子でありすべてを含む

愛。在る、その不思議に私たち

存在者は、驚き戦き喜び哀しみ怒り畏れる。

在ることの不思議の前には

どんな技術も思想も力を持たない。

それでも(それ故?)、

探求せずにいられない。

 

 

存在者は愛をわけもつかたちあるものだ。

かたちのないものは現象界に存在しない。

かたちのないもの=目に見えないものでは

なく、輪郭のないものだ。

故に想像上の生き物や思想も存在する。

存在者が認識できるものはすべて輪郭を

持つ。それは、我々がかたちだからだ。

だから、我々は″無″がわからない。

○○が無い、はわかっても

純粋な″無″を認識できない。

かたちないものをかたちのある我々は

認められない。

そして、愛そのものもかたちを持たない。

だから我々は、純粋な″無″と″存在″を

混同する。

 

つまり、我々は現象界にいる限り

かたちという枠組みを超えることは

出来ない。肉体というかたちを

失えば愛そのものになる可能性は

あるものの、それは我々の探求目的が

達成するということではない。

かたちを失い愛そのものに

なったその瞬間、意味も失うから。

すなわち、かたちが意味なのだ。

 

だから、意味があるかないか?ではなく

意味である意味こそ、真に問いたい

ことだろう。俗に言う意味がある・ない

が指すところの『意味』は、利益の有無

でしかない。利益をもたらすか

そうでないかを問うことは、かたちへ

埋没している自覚のなさゆえだ。

かたちがないものへの希求として

発せられる、意味である意味を問うこととは

正反対だといってもいい。

 

つまり、かたちあるままかたちないものを

探求しようという試みが、存在者の

存在意義だといえよう。

かたちゆえの問いはかたちの喪失と共に

存在に吸収されるとして、わざわざかたちで

あるならばかたちを最大限発揮する

しか存在に迫る道はないのではない

だろうか。

 

最大限発揮するには、特性を知って

いなくてはならない。ということで、

次回はかたちの特性について。

今日はここまで、ばいちゃ!

 

 

 

 

死にたさとの向き合い方

 

こんばんは

死にたがり界の新星、

ぴーやまです。(どや)

 

まったくどやるとこではないけど、

唯一真剣に向き合ってきたことと

いっても過言じゃないわけで。

誰になんといわれようとも(むしろ、

なにもいわれなくとも!!)

誇ってやろうと思っているわけです。

てことでさっそく、ぴーやま流

死にたさとの向き合い方、いくでー!

 

 

①死にたさは、まず「点検確認」

死にたさがもたげてきたときに、

百人一首かな?って勢いで

吹き飛ばそうとする人がいるんですが

ピー!お手つき!!

瞬発力、まったく発揮しなくていい。

むしろしてくれるな、といいたい。

 

死にたいも様々で、明確な理由が

ある場合とそうでない場合がある。

いずれにしても、初動は「点検確認」。

 

死にたい…ん?死にたい?

ああ、″死にたい″ね。

 

こんだけ。心の中で指差し確認!

(できればぽそっと口に出してみよう)

言葉にすると簡単だけど、

これはなかなか出来ない。

いや、でも、だって…と思いたい

欲求の方が強いもんね。

そんなことない、と打ち消した

つもりになって死にたくなくなるように

つまり生きたくなるように(安易に)自分を

仕向ける方が簡単だ。

自分の欲求と世間の要請が

一致すれば摩擦もないから一石二鳥、

うまくすれば死の直前まで

ごまかしていられるもんなぁ。

 

 

②死にたさは、理想とセット

「理想のないところに死にたさはない」

なんかかっけー。しびれるー。(棒読み)

けどこの意味を考えてみると、結構重い。

理想って叶ったらなくなると思うじゃん?

否!理想はプロジェクトじゃないから。

叶ったのは、形象化した理想の一側面

であって、届かないものへの

希求(祈り)こそが理想の正体。

つまり、かたちの特性である

有限性を超えること、

だから理想はなくならない。

究極の理想は、(恐らく)彼岸にあるから

死にたさがセットになる。

「死にたいは、生きたいだ!」

というややぶきっちょな翻訳がおきるのは

この辺がごっちゃになってるからだろう。

生きたいは、有限性に固執することで

ある場合も少なくない。だから、

生きたいとセットなのは理想でなく

願望という方が近い。

 

 

③死にたさは、解体期に自覚される

創造期は、気分も明るく心豊かで

世界を愛し世界から愛されているぞ、

という充足感を持ちやすい。

けれども、せかいを解釈し世界を拓く

鶴嘴となる「ことば」は、

解体期(特に解体後期)に見つかりやすい。

その間、重低音で響いているのが

存在者の内から溢れる永遠への旋律。

創造期の時だってもちろんあるけど、

芯に近いところからだから

よほど注意して耳をすまさないと

聞こえにくい。

その点、解体期は内へゆっくり

沈み込んでいくものだから

音の輪郭がよくわかる。

それをしっかり掴んでおいて、

創造期に世界を拓いていく際の

北極星にする。

 *かたちそのものを理想とすれば、

近眼的ゆえ不和を生むしうつろいゆく

かたちに無力感を抱くことになるが、

解体期にみつけたかたちないものへの

希求は永遠を見据えることになる(と、思う。)

 

理想は、解体期に見つかる。

片鱗を掴んでおくことだけが、解体期

の仕事であって豊かな過ごし方だ。

基本的に早く終わってほしいな、

と思っちゃうけど解体を経ない

ほんとうの創造なんてないことに気づく。

積み重ねていくものだと思っている″創造″

なんて、吹けば飛ぶ軽さだ。

ほんとうの創造は、かたちがガラガラ

崩れた後、一つ一つ積み上げていくこと。

解体期は「さてはて、どっから手を

つけるかなぁ」と破片と対峙する期間。

(やり過ごすのはもったいなさすぎる!)

ことば1つでも掴んでやろうと

奥歯噛み締めて立つ。歯ぎしり身悶え

ながら、睨みつけて目を離さない。

その野心は最期まで持っていたいな。

 

そして、改めて理想を求める道をいく。

持ち続ければ、確固たる信念がうまれる。

信念は、万人から認められるものではない。

その地点でなら万物を認められる、

それが信念だろうと思う。

 

 

 

⑤死にたさは、独りで対峙する

誰かと慰めあえるもんじゃない。

自分自身の声に耳を傾け、

独りで向き合わなくちゃならない。

見ないふりしたってなくならないし、

慰める必要なんてない。

有限性に固執して願望のために

生きるなんてよほど空しいよ。

 

創造期は思い切り世界と向き合えばいい。

けど、解体期は自分とじっくり向き合おう。

パンドラの箱を開けて語り明かそう。

遅れをとる?何のために生きてるか

わかりもしないのに、何に遅れるの。

どこに向けて生きるかは、自分と

向き合った後で北極星に誓うこと。

安易な生き甲斐を求めるな。

自分を小さく見積もるな。(と言い聞かせる)

 

 

⑥死にたさは、滅するものではない

滅しようとする必要はなく、

また滅することができるものでもない。

誤魔化すことはできるけど、

かたちに溺れるのは淋しい。

どうせなら、かたちに挑み

虚しくなっていたい。その空間に、

かたちない光が満ちるから。

それで、十分だ。

 

⑦死にたさは、抱きしめるもの

もののあわれを知りながらも、

かたちを受けとること。

一番いい方法は、自分を抱きしめること

だろう。

抱きしめて、頭を優しく

優しくなでて。死にたいねぇ

そうだねぇ。いつか死んでしまうねぇ、

そうだねぇ。なんでだろうねぇ、

そうだねぇ。

 

万物は、かたち故に変わりゆくし

孤独だ。有限だ。

我々は、かたちの虚しさを遠くで

知っているのだろう。

だからこそ、永遠を希求する。

その祈りも、虚しさに寄り添うように

あり、遠くで知っているんだと思う。

 

死にたいを認め、抱きしめよう。

虚しさと共に永遠を、抱きしめよう。

 

 

 

 

ちなみにぴーやまは

死にたさの定点観測が趣味(!)。

 

寝る前に、目が覚めたいか否か?

覚めたくない、を選んだのを

点検確認して、寝る。そして目覚める(笑)

ああ、まだかたちだな。

しゃーない。かたちのまま、迫ってやんよ!

そんな感じ。形而上に理想を描き、

形而下を泥臭く人間臭く生きる。

否、生ききる!

たまに目覚めたいを選ぶのも

人間臭いってことでオッケ~てことで(^o^)

(てきとーか)

 

 

 

中学生を見ると、鼻の奥がツンとする

 

こんばんみ、ぴーやまです。

ちょっと思ったことをば。

 

今どきハイソックスって短めが

流行りなんだね。

膝下まであげてる子ってほとんど

いないなぁ、何てことを思いながら

眺めてたらふいに鼻の奥が

ツンとした。

あ、決して汗くさいとか思春期特有の

においじゃなくてね。

あの頃を思い出して、胸がつかえる

というか…

 

自意識でぱつんぱつんだったなぁ。 

何が不満といえないけど、

鬱屈としてそれでいて猛烈に

走り出したくて

なにか確からしいことを求めながら

誰とも違う自分を見つけたくて。

自分の輪郭を暗中模索、

意味を求めるゆえに混沌から

めりめりと分裂が起こる。

でもそれにうまく言葉を見つけられず、

怒りなのか焦りなのか恐怖なのか

とにかくごった煮状態で。

〔初めての大きな解体期なのだろう。

ここをうまく切り抜けられる人は

安定体質というか、現実的な人だろう。

そこでつまづいたり、その後も大きな

解体期が何度も起こったりする人は

創造体質というか。よくも悪くも

意味を求めるエネルギーが強く、

中2性を持ち続ける人ですね。〕

 

 

ニキビ面で足もたくましく、

どてっとした体型に腫れぼったい目。

鏡を見るたび憂鬱になる、そんな日々

だったようにおもう。

多かれ少なかれこういう衝動に

引き裂かれている、

自制のきかない自意識の塊が

ちっさい教室に四十人も詰めこまれたら、

いじめなんて簡単に起きる。

ゆとりのせいでも時代のせいでも

なんでもない、どちらかといえば

生理現象に近い。

 

ぱっつんぱっつんの自意識にぷすっと

空気穴をあけなきゃとても正気で

いられない。これは個人ではなく、

およそ全体の意思だ。

(解体期ゆえの境界線の越えやすさ

というか溶けやすさにより

個人を越えて全体の意思になるんだと思う)

それがいじめという

形態をとってしまいがち、というだけ。

もちろん、いじめをよしとしてる

訳じゃないが、存在者の根底にある

どうしようもない弱さ醜さとして

露出している側面も認めた方がいいと思う。

ダメ、ぜったい!とがなりたてるのは

自分のなかにある残虐性を

認めるのが怖いからじゃないか?

人間はたいした理由もなく、

いじめてみたり傷つけてみたり

殺してみたりする。

良心が咎める?それは、

世間に馴染むために身に付けてきた

道徳観のようなもので、

全存在者共通の本質なのかは

甚だ疑わしいなぁと思う。

 

とはいえ、「真・善・美なんて

所詮個人差じゃんね」とは思わない。

それらは個人、個体を越えて

共通するものを祈る地点にあると思うから。

 

ここまで来て、言いたいことの

輪郭が見えてきた!

どうしようもない弱さ醜さを

自分事として向き合って、

突き抜けた先で共通するものを

祈る、というのが1つのルート

なんじゃないか?ということ。

それは、私が解体を経ない統合を

信じていないという事情もあるだろう。

引き裂かれて、「うっわーダッセー

めっちゃ醜いな自分、認めてこなかったのは

直視できない弱さのためか…」

のあとに、

(いやそれでも…だからこそ…!)

と奮い立つ。そういう祈るかたち

そのものが真で善で美だったりするの

かもね。

 

 

***********

すべてに理由がある

すべてに正解がある

と思うのは、思いたいのは、

私たちがかたちだからだろう。 

 

各々に何らかの意味がある、

と思いたいのはかたちが意味だからだろう。

 

だから、「意味である意味は?」が

ほんとうに問いたいことなんだろうな。

 

 

 

なんで鼻ツンから存在者の真善美

の話になるのか自分でもよくわからないけど

楽しいなぁ。

そんでもって、私も自分事として

向き合うことを止めたらダメだなと改めて

思う。それは、生きることを引き受ける

ということ。

 

選んでない(かも)、でも生まれてきた。

意味はない(たぶん)、でも意味だ。

引き受けるぞ、生ききるぞ。

心のハイソックス、ぴっかり引きあげて

あがく大人になりたいです。(なんやそら)

 

 

 

 

 

 

 

 

詩/星の祝詞

 

静かな夜がある

 

寝そべった甲板は冷たく硬い

生ぬるい風があたまを撫でて

別の石あたまをくすぐりに行った

 

 

星が降ってくる

 

ひとつも取りこぼさないよう

にゅっと目を動かせば、 

向こう側がぼやけてしまう

 

 

星はずっと昔に消滅しているのだと

科学は仁辺もなくいうけれど、

ほんとうはその彼方

科学も同じ彼方を祈るから

眺めずに測るのだろう

 

それすらも照らして響く

無邪気な星たちのわらい声

 

 

眺めるこの魂は

何処まで見れるだろう

静かで騒がしいこの夜が明ける前に

 

 

遠い海に ぽつりぽつりと

剥き出しの魂が浮かんでいる

星のような魂よ 同士よ

焚き火に木をくべる熱でなく、

摩りきれる熱 

漏れでる体液を燃料に

何処までも行かんとする魂よ

 

冷たく硬い甲板を焦がし尽くし

海の藻屑になろうとも

同情などしない

正しく怒る 激しく怒る

 

もしもこの魂が 先に藻屑となったなら

怒ってくれるか 友よ

足掻いてくれるか 同士よ

 

藻屑となる一瞬前に見える景色は

まるで星を反射したような

魂の燃焼であってほしい

ずっと同じ地平にあったのだと

そのひとつであったのだと

 

  これが祈りでないのなら

  何を祈りと呼べばいい

 

とっくに消えちまったはずの星が

瞬きわらうように

深い青い海の底 珊瑚になろう

 

 

 

 

 

 

詩/讃歌に捧ぐ

 

心がびしゃびしゃだ

嗚咽が止まらない

内蔵が痙攣する

 

愛の讃歌は 乱暴に殴り付け

痛みのまま受け取ることを要求する

怒りのまま凝視することを要求する

 

 

すなわち楽器になりきることだ

にじみ出ることを望んではならない

奏でる音に酔うことも許さない

 

繊細な弦と正確な調律を欲しながら、

楽器に徹すること

ただそれだけが 讃歌を聴く対価だと

 

 

近くで遠くで鳴っている

讃歌に殴られた者共の慟哭が

聞こえぬか

 

遥か彼方へ響いていく

永遠への旋律が 憧憬が

 

 

殴られたことを認めたとき、

魂は取引された

望んできた地平は唾棄され

拓きかけていた視界は霧に包まれた

 

 

かたちを超えよ かたちのままに

白線を引け お前の手で

境界線ではなく 輪郭を求めて

徹底的に打ち出す刹那

かたちのない光を見ゆ

その震えを 讃歌に捧げよ