せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

いいんだよ

 

 

思えば、たくさん回り道をしたものだ。

母から認められたい、愛されたいという

思いが根底にあったわけだが、

その思いを認めるのにも時間がかかった。

記憶を捏造したり取り繕ったり

しないでも立っていられるようになるまで

そこからさらに時間がかかった。

最初から、ストレートに受け取り

認め、渡せたなら今の私とは

かなり違った自分になっていただろう。

けれど私はこの私しかいないし、

なんだかんだ人間臭い自分が好きなのだ。

 

感情の豊かさを感じられるのは、

翻弄されたことがあるからだし

失っていた2年間包まれていた

あの透明な膜を知っているから。

豊かさ=幸せではないと

豊かさ=善ではないと、

自分だった欠片の上に寝そべって

一人空を仰いだ夜があるからだ。

認めることは簡単じゃない。

求め、掴めず、諦め、それでも

欲し、慟哭し、やっと触れられたときに

泣きながら悟ることなのだ。

決して手に入らないことを、

それでも求めてしまう虚しさを

抱き締めてなお立つことなのだ。

 

私はもう、愛された記憶をもち

認められるかいなか戦々恐々したことや

愛されていない可能性を疑ったことのない

健全な自尊心を育んできたひとから

奪わなくていい。

お前も苦しめと、引きずり下ろさなくて

いい。

ただとなりにいて、その暖かさを

素直に受け取っていいんだ。

いいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

ことばの海から

 

 

これまで、特にこの4年間は

ことばのために費やしてきた。

たくさんのことばに触れ、

自我を幾度もとり崩しては

その破片を積み重ねてきた。

今回ばかりはもうだめだと

毎度思ったが、じっと亀のように

待っているうちにいつの間にか

春を迎えていた。

 

少しずつ栄養を与え、豊かになった

ことばの海から引き揚げてきた言葉を

私は私のためだけに使いたくない。

正直に言えば、

得るまでの道のりやそのために

選ばなかったことを思うと、

ぽんと差し出すことに対して

惜しい気持ちがあった。

あるいは同じだけの血を流し

得てきた言葉を差し出せと、

腹のなかで思っていた。

かけてきた時間や労力に対する自負、

そのために得られなかった充足感や幸福感を

思うと、軽く扱われることに

怒りを覚えた。それがプライドである。

そしてことばは、私にとって

一番大事なものだ。

 

どうすれば自尊心を育てられるかを

ずっと考えてきた。頭の片隅に

おきながら、ヒントを探し続けてきた。

自尊心の本質は、全面的な肯定経験と

自らの振る舞い・結果等の経験に対する

肯定。肯定するためには、肯定された

経験が必要なのだ。それは、一般的に

良いとされる行いをし誉められた等の

狭い意味での肯定ではない。

しこう(思考、志向、嗜好)!

を、共感ではなくそれそのものを

認められた経験をさす。

この基盤なしに肯定する経験を積み上げる

のは難しいし、狭い意味での

肯定のみを積み重ねてきた場合、

その規範からずれる行いをするものや

自らのしこうを裁くようになる。

自尊心を育てられなければ、

プライドとのバランスがとれなくなる。

肥大していくプライドが己を

押し潰す。その時、認められた経験という

基盤までボロボロの人間は、立っている

最後の土台まで壊してしまう。

肉体か精神を病むか、死に傾くのは

時間の問題だ。

 

 

時代の病理はそこにある。

であるならば、価値観の多様化の前に

多様さを認めうる柔らかさが必要だ。

それは決していいね!という共感の

強要であってはならない。

そういうものがあるんだな、

という形で認められればよい。

そして、認めてもらえなかった自分が

いるのなら、認めてほしかった自分を

肯定していくしかない。

認められていたと記憶を捏造する必要は

ない。ただし一つ大事な点として、

我々存在者は愛のへたっぴ症候群を

患っていることを頭の片隅にいれて

おくことだ。

渡すこと、受けとること、気づくことが

とても難しい。

愛が難しいのは、私たちがかたちだから。

それでも愛を求むのは、愛をわけもって

いるから。

 

 

ことばの海はだいぶ豊かになってきた。

さぁ、引き揚げよう

 

 

 

 

 

 

 

宣戦布告

 

考えても答えがでない、

そういう問いが好きだ。

たとえ悶え苦しんでも、ぽっかりあいた

虚無の洞窟を前することになっても。

考えても答えがでないことを

考えるのは社会的に有用ではないが、

考えて答えが出ることなど

面白くない。

 

 

自分の地位や有能さに

鼻高々になる人は多い。(逆もしかり)

確かに社会に認められる努力を

したという事実は評価に値する。

ただ思うのは、その評価は

いかほど大切なのだろう?ということ。

人は見た目が9割

なるほどそうかもしれない。

ただその9割はなんのための9割か。

他人に好かれる、評価されることは

社会生活を営む上で重要なのは

わかるが、その中心が語られていない。

たとえ完璧な9割を作り上げても

そこに己がいなければ虚しいではないか。

そんなことで虚しくなってはならない。

本当に虚しくなるべきときに、

ごまかしてしまう社会性という

フィルターこそ警戒すべきだ。

 

特に、道徳的な生活人間が腹立たしい。

道徳とはなにか。

誠実とはどういうことか。

ギリギリの場面で何を選び、何を捨てるか。

お前の感じる正しさなどどうでもいい。

道徳とは本来生易しいものではなく、

引き裂かれながらあるいは何者かの命を

奪いながらそれでも敬意を払うような

もののはずだ。

それゆえに普遍的で絶対的なのだ。

生活でしか悩まない人間に、

生への葛藤で手を汚した人間を

蔑んだり裁いたりする権利などない。

社会の求める金型に自らを流し込む

ような自尊心のないプライドばかりの

空気人間は、評価されど評価することなど

できやしない。お前のことばで

話すことができない人間が、

ことばのために身を投じる人間を

嘆くことなどそれこそ冒涜だ。

 

 

私は、肯定したい。

生きることを肯定したい。

無論良いことだと自らを洗脳したいわけ

ではなく、善悪や好き嫌いを越えて

在ることを認めたいということ。

そういう肯定を求めているし、

だからこそことばを磨かねばならない。

慰めや嘆きに満ちたぬるく諦めることばを

述べるようなモノワカリノイイ人間に

などなるな。

それでも肯定する、肯定されるものだと

信じているからこそギリギリまで

暴くことができる。

決していいことじゃない、

そういう自覚とそれ自体の肯定からし

本当にいきるためのことばなど

出てきやしない。

 

 

 

戦え戦え戦え!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋とか愛とか。

 

今夜は月が見えない。

あの重く厚い雲の奥に

きっといるのだろうが、

月のない空はどこか不穏だ。

外灯の心許ない明かりが

寒空にぽつりぽつりと滲んでいる。

 

こんな夜は、後ろめたい関係の

カップルにとって都合が良いだろう。

お互いのギラギラした光だけが

絡み合って、夜が濃くなっていく。

 

 

 

不倫。たびたびワイドショーでも

話題になるが、明確な嫌悪感を

抱くことが出来ないでいる。

頭や心を超えたところに、

まるで雪崩のように押し寄せてきて

圧倒される可能性は誰しもある。

やめろ、という理性の声を一瞬聞いた

ような気もするが、もはや身動きできない。

それが結婚後に起こった場合、どういう

態度をとることが誠実なのだろう。

 

 

そもそも、結婚とは契約だ。

では、なんの?と聞かれると

ちょっと難しい。

ずっとあなただけを愛しますと誓い、

愛し続ける努力をお互いにしましょう

というところだろう。

では、愛するとはなにか。

まずは恋と愛の違いを考えてみよう。

 

恋は、相手を認めることだ。

私から見て、独占したいと感じるほど

魅力的だという認識から発する。

たいして愛は存在だ。

存在そのものは我々かたちあるものには

理解できないから、愛へ照射する線を

一般に愛と呼ぶ。それはつまり、

存在の肯定だ。魅力的な一側面を

評価するのではなく、在ること自体を

肯定することである。

そして、愛するという能動態になると

存在を認められるよう努めるという

意味合いになる。

相手が相手自身(部分的な承認ではなく

存在そのもの)を認められるように

努めるということだ。

 

だから、恋する気持ちが大きくなることを

愛と呼ぶのは違うし、恋が必ずしも愛に

発展するわけでもない。

目的地が違うのだ。

 

 

不倫は絶対的に恋だ。愛にはなれない。

相手に後ろめたさを背負わせるのは、

相手が相手自身を認める上で障害に

ならざるを得ないからだ。

一方、結婚は恋のままであるカップルも

多いが、愛に向かっていく可能性を

秘めている。障壁にぶつかり、

力をあわせて乗り越えていくなかで

ことばと出会うからだ。

ことばが豊かになり、見える世界が

奥行きを増す。

そうやって、愛に向かって線をひくことが

できるようになっていく。

 

 

と、割りきっていえばそれまでだが、

恋自体は悪いものではない。

突然圧倒されるものでも、じんわり

惹かれていくものでも。

いわば花のようなものだ。

時折心にぽっと咲く、芳しい花。

しかし、結婚という契約には

それを摘み取らないという約束が

含まれている。

花が咲くのを止めることはできないので、

咲いてしまったらただ眺めているだけ。

見方によっては苦い想いを味わうとも

いえる。

 

 

では、すでに摘み取ってしまったなら

どうすべきだろうか。

誰に、どのように、何を反省する?

恋は本能、愛は理性を重んじる。

故に本来同じルールで裁くことはできないの

だろうが、人間の意義という観点から

俯瞰してみることでヒントが見えてくる。

 

 

せかいを豊かにし、世界に還元することが

人間の意義だと考える。

それは好き嫌い、善悪を超えたところに

あるものだ。祈りの領域である。

たとえ興味がなくても知らんぷりすることは

できない。望まずとも、その基盤の上に

我々の生活はいとまなれているのだから。

恋よりも愛を選ぶべきである理由。

愛こそ生だから。

 

 

 

 

さよならと言われるよりも、

言う方が痛いこともある。

想った時間の半分は、ふいに涙が

こぼれるだろう。

ただ会いたい、体温を感じたい。

そういう本能的な願いは理性でぬぐえる

ものではないから、気がすむまで

そこにいていい。

大切なのは絶対に振り向かないこと。

 

身を裂かれるような想いを引き受けて

その選択をすることができたとき、

はじめて愛したのだ。

二度とまじわらない相手の未来を、

そして私の未来を尊重するということ。

そのために決断した事実は、

いずれ己を助ける。

ここぞというときに、凛と胸を張って

愛を選ぶことができる。

自分のことばで語ることができる。

 

 

恐らく、咲いた花の扱いに人間の器量が

あらわれる。その香りを纏いながら、

そして向けられた花束をにっこり笑って

かわす。それが色気だろう。

なにか起きてもおかしくないのに、

決して摘みとらない花。

いつも恋の芳しい香りを纏いながら、

愛を選ぶような女でいたいものです。

 

 

 

 

 

 

継続のうちに見る肯定

 

 

続けることの中に、肯定を見つけた。

 

善悪の善だけでなく、悪を含む

肯定。好き嫌いの好きだけでなく、

嫌いを含む肯定。生産性の有無を

問わない肯定。

 

綺麗事ではない。むしろ、清濁あわせ

のみ泣きながら頷くような肯定。

私に、できるだろうか。

大きなものを畏れ、尊重し

祈るように生きることが。

 

 

自信はないけれど、ひとまず

落ち着けそうな方向性を見出だした。

続ける理由として納得はできる。

となると、生活へ目線はいく訳だが

こちらも一筋縄ではいかない。

不安をあおるような要素が一杯だ。

それでも、生きることの模索とは

比べ物にならない。

暖かろうが冷たかろうが、風が

こそばゆくて。

ただ、彩ることには相変わらず関心がない。

生活はミニマムに、生きるはマキシムに。

生活をできるだけ簡略化して

生きることに力を注ぎたい。

はっきり分離できるものではないけど、

生きるが豊かになるように。

 

本音をいえば、先を見据えて

生活を学んでいること自体

ちょっと嬉しい。

 

 

 

 

肚でわかること

 

 

生きることはいいことじゃない

ということと、

(生きるのを)続けていくこと

が私のなかでうまく繋げられず、

前提が間違っているのか

はたまた続けていくことが

間違いなのかと問い続けてきた。

 

でも、どちらも間違いではないとすれば

私が探すべきなのは「接続詞」

なのかもしれない。

そう考えてふっと力を抜いたとき、

出てきたことばが

″さぁ、″

だった。

 

 

 

青年は考える。

生きることはいいことじゃない

だから、続けない

 

あるいはこう考える。

生きることはいいこと(のはず)だ

だから、続けよう

 

 

 

大人はどう考える?

生きることはいいことじゃない

それでも、続けるものだ

 

あるいはこう?

生きていればいいこともある

だから、ひとまず続けよう

 

 

生活や生きるのあらゆる悩みや

虚無感の奥に、この問いがあるように

思う。

現時点で、私はこう答えることを

目標としたい。

 

生きることはいいことじゃない

さぁ、続けよう

 

人生は問うものではなく

答えるもの、というフランクル氏の言は

こういうことを指すのだろうか。

続けようという意志の奥底に、

肯定を見つけた。

続けることが、私が何よりも求めている

生きるを認めることへの解なのか。

そしてこの解は、問い続けられる限り

答え続けるものなのだろう。

続けること、それ自体を通して。

 

 

私たちが選べること、力およぶ領域は

考えているよりきっと狭い。

それは不条理と嘆かれ処理されるが、

生きることはそもそも不条理だ。

いいことではなく、さらに続けるのだから。

ただ、別のみかたをしてみると

そこに超越したものへの畏敬が感ぜられる。

続けていく営み自体が、我々を包む

無量光を尊ぶことであるかのように。

考えのおよびもしないなんらかの

力や意志が、続けようとする我々の

少し先を照らしてくれている。

ならば、その光を求め歩むしか

道はないのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

年の瀬に思う

 

 

年の瀬の、忙しない雰囲気が

割りと好きだ。

非日常なのに毎年型通りというか。

落ち着かないのに懐かしい感じ。

いつも年の瀬だったらいいのに。

(同じ型通りでも年始は好きじゃない)

 

帰省ラッシュの映像を見て、

皆帰る場所があるんだなと

しみじみ思う。

そんな中、一人あてどもなく

電車に乗る。遠いところ、できれば

雪深いところか灰色の空と海を

眺められるところでぼんやりするために。

 

 

ぼんやりしながら、生きることを考える。

日常でも非日常でも考えることは同じだ。

そして、目覚めなければいいのにと

いつも同じ結論にいきつく。

でも、目覚めてしまうのなら

来年がやって来てしまうのなら

どう生きるか考えた方が建設的だ。

そして、生きるのを望んでいることを

前提に日常を計画する。

茶番だ。

 

 

仕事に打ち込み、誰かのために生きる。

家庭を持ち、家族を一番に生きる。

どんな生き方も望まないので、

なんとか耐えうる選択肢を探す。

本当はどうでもいい。

恵まれているのだろう。

本当にどうでもいい。

 

 

 

新幹線で人を刺し殺し

無期懲役になった人。判決の際

万歳三唱したそうな。

少々芝居臭いが、どうでもいい日々を

何食わぬ顔で過ごす私の方が

狂っている。

いや、結局何を望んでいるかも

わからないのに思い込みだけで

生きている大勢のほうがよほど狂っている。

狂っていないと生きにくいらしい。

 

 

生きることは良いことではない、

さぁ続けよう

 

これが言えるようになったら

大人だろうが、まだまだ遠そうだ。