せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

鈍感でいること

 

 

鈍感は、生活する上で一番の武器だなと

あらためて思う。

 

半径二メートルの世界で起こること以外

なにも見えていないような人や、

感受性や身体が敏感であるからと

厳しいことは他人任せでのんびり

茶を啜れる人や、

ろくに働いたこともないのに労働を

嘆き生活に足をとられる人。

捕鯨反対といいながらパンや肉を

美味しそうに食べる人や、いじめの報道に

「ありえない!」「かわいそうに…」

といいつつ身近な人の悪口や愚痴に

花を咲かせる人。

 

矛盾やほころびが生じる部分を

どういうわけだか見ないでいられる。

たとえ見てしまっても、すぐに蓋を

してしまえる。そこに罪悪感はなく、

都合のいい解釈があるだけ。

振る舞いや言動は一見すると弱者だが、

一番厚顔だなと思う。

 

 

どれだけことばを尽くしても伝わらない。

外に問題を見つけることで、自分の内の

課題に取り組まないで済んでいること。

他人のことで悩むのは美徳なんかじゃないと

いうこと。皆どのような立場であれ、

自分を生きねばならぬのに。

生きることを引き受けて、選び直して

進んで来ていなければ、他人へ手を

差しのべることだって出来やしないのに。

すぐに「わかった」というわりに、

なにもわかっていない。

だから何度も同じようなことで

悩んだふりを繰り返すのだろう。

 

 

「かわいそうに」と口にはするが、

自分が代わる気はさらさらない。

人を盾にして守られた領域で

丁寧に暮らすとかぬかしてる場合か。

気持ちいいこと、好きなことで

周りを埋めつくして 豊かに過ごすとは

けっこうなことだ。自由な時間が

豊富にあること自体、贅沢じゃないか。

 

別に、丁寧に暮らすことも

自由な時間を豊富に持つことも

非難するつもりはない。

私もできる限りそうしたい。

でも、どれだけ丁寧に暮らしても

労働から離れ自由な時間を持っても

生活は生活だ。

例えば、ギラギラした都会で賑やかな

集まりを楽しむ生活が好きな人と、

片田舎で薄暗がりのなか本を読む生活が

好きな人がいる。

前者が物的豊かさ・後者が精神的豊かさで

後者がより進んで優れている的な風潮が

大事なことを誤魔化してしまうのを

危惧しているのだ。

そういうのは好みや性質の問題であって、

生活と生きるの問題ではない。

都会で生きている人もいるし、田舎で

生活している人もいる。

 

 

恵みは無限にあるものではなく、

なにものかの犠牲(時にいのち)の上に

生活は成り立っている。誰も手を汚さずに

生きてはいけない。もし、自分の手が

汚れていないのならば、その分誰かの

手が汚れている。背負っている誰かが

いる。物言わぬ彼らの生活を、

そのなかに光る生きるを掬い上げたい。

 

だからあらゆる鈍感と今日も戦う。

 

 

 

 

 

 

詩/ことばがほしい

 

ことばがほしい

本当のことばがほしい

血でかかれたことばがほしい

虚しい場所でひとり

立ち尽くすことを強要する

ことばがほしい

 

誰も救われない真理のために

私自身を差し出して

熱湯のように浴びせかけられる

ことばがほしい

言語のような滑らかなものでなく

熟れたザクロの 爛れた手ざわりの

ことばがほしい

 

混沌を煮詰め絞り出すような

たった一滴のことばがほしい

 

 

 

 

 

100日後に死ぬワイ

 

 

Twitterで話題のパロディ

…我ながらくだらない( ̄ー ̄)

 

 

100日後に死ぬかもしれない。

もしかしたら、明日かもしれないし

明後日かもしれない。

だから、生きている日々を当たり前と

思わずに大切に過ごそう。真剣に生きよう。

そういうメッセージを込めたらしい。

 

確かに何気なく生活していると、

明日も明後日も来年も10年後も

波風はあれど来るものだと疑わないだろう。

でもそれは、生きることに真剣じゃない

からではないんだと思う。

 

 

(どのような軌跡を描いたとしても、)

生成し発達しやがて消滅するという

かたちの法則にしたがっている我々は、

存在そのもののの意図は解けない。

かたちにはじまり、かたちにおわる。

その点滅に何らかの意味を見いだすか

否かの違いだけだ。

無論それは真理ではない。

己の地点から見えるこの星のかたちだ。

どこまでいってもかたちだ。

 

真剣に生きることを求めたなら、

手の届かない真理とやらの前で

悶絶するだろう。だから、

生きることを真剣に考える

    ↓

大切に生きよう(はぁと)、とはならない。

 

生きることそのものを本当に考えるならば

「なぜ、それでもいきるのか」

という問いが残るだろう。

そしてそれに答える形で生きることを

続けていかねばならない。

それが本当の意味で真剣に生きる態度で

あるし、馴れ合いや感傷が入る余地はない。

 

 

 

話がそれた。

つまり、我々が明日や1年後を

想定して生きることは

生活を計画し円滑にすすめる目的に加え、

無意識の防御なんだと思う。

生きることに真剣じゃないわけではなく

真剣になると、なにげなく信じている

物事や決まりごとを一度全部解体し

点検しながら積み上げるような、

大変ややこしく潔癖な生き方を

せざるをえない。

そのような状況で生活を器用に

維持するのは困難で、意義だったものや

価値だったものの欠片の上で

ただぼんやりと生きることを眺める

ことになる。

そこで生きることを再定義できたなら、

燃えるように激しく自分の思う生を生き、

すべきことをなすだろう。

(ゴッホや賢治やソクラテス

ドストエフスキー

今なお各界で存在感を放つ人々は

そういう過剰さを持っており、その仕事や

振る舞いの端々に再定義したことばが

充満し、独特のエネルギーにみちている。)

 

だが、おそらくほとんどの人には

今見ている世界や信じている価値観を

打ち崩すエネルギーも、またそれに

耐えうる器量もない。

(せいぜい脆弱なニヒルに陥るか、

繊細であれば生きること自体に耐えられない。だから、疑わないでいられるような

自己防衛本能が働いているのかもしれない。)

 

そして、上記した人々のように

生きたいと思う人もなかなかいないのでは

ないだろうか。

絶対に届かないものを求め続ける生き方は

おのれの熱で擦りきれて死ぬまで

続くし、幸せとは言いがたい。

そうなると、本末転倒ではないか?と思う。

生きることを真剣に考えれば

当たり前のことなどなく、今に感謝し

つまりは幸せを感じられるだろうと

いうのが隠れた狙いだったのだろうが、

 

 

生きることを真剣に考え

それに万が一にも成功したならば、

所謂幸せとは縁を切ることに

なるのだから

 

 

 

 

と、いいつつも真剣に生きる人々の

存在は心弾むものだ。そのせかいを

みたい。そのせかいを確かに味わえるよう、

私も真剣に生きねば。

 

 

いいんだよ

 

 

思えば、たくさん回り道をしたものだ。

母から認められたい、愛されたいという

思いが根底にあったわけだが、

その思いを認めるのにも時間がかかった。

記憶を捏造したり取り繕ったり

しないでも立っていられるようになるまで

そこからさらに時間がかかった。

最初から、ストレートに受け取り

認め、渡せたなら今の私とは

かなり違った自分になっていただろう。

けれど私はこの私しかいないし、

なんだかんだ人間臭い自分が好きなのだ。

 

感情の豊かさを感じられるのは、

翻弄されたことがあるからだし

失っていた2年間包まれていた

あの透明な膜を知っているから。

豊かさ=幸せではないと

豊かさ=善ではないと、

自分だった欠片の上に寝そべって

一人空を仰いだ夜があるからだ。

認めることは簡単じゃない。

求め、掴めず、諦め、それでも

欲し、慟哭し、やっと触れられたときに

泣きながら悟ることなのだ。

決して手に入らないことを、

それでも求めてしまう虚しさを

抱き締めてなお立つことなのだ。

 

私はもう、愛された記憶をもち

認められるかいなか戦々恐々したことや

愛されていない可能性を疑ったことのない

健全な自尊心を育んできたひとから

奪わなくていい。

お前も苦しめと、引きずり下ろさなくて

いい。

ただとなりにいて、その暖かさを

素直に受け取っていいんだ。

いいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

ことばの海から

 

 

これまで、特にこの4年間は

ことばのために費やしてきた。

たくさんのことばに触れ、

自我を幾度もとり崩しては

その破片を積み重ねてきた。

今回ばかりはもうだめだと

毎度思ったが、じっと亀のように

待っているうちにいつの間にか

春を迎えていた。

 

少しずつ栄養を与え、豊かになった

ことばの海から引き揚げてきた言葉を

私は私のためだけに使いたくない。

正直に言えば、

得るまでの道のりやそのために

選ばなかったことを思うと、

ぽんと差し出すことに対して

惜しい気持ちがあった。

あるいは同じだけの血を流し

得てきた言葉を差し出せと、

腹のなかで思っていた。

かけてきた時間や労力に対する自負、

そのために得られなかった充足感や幸福感を

思うと、軽く扱われることに

怒りを覚えた。それがプライドである。

そしてことばは、私にとって

一番大事なものだ。

 

どうすれば自尊心を育てられるかを

ずっと考えてきた。頭の片隅に

おきながら、ヒントを探し続けてきた。

自尊心の本質は、全面的な肯定経験と

自らの振る舞い・結果等の経験に対する

肯定。肯定するためには、肯定された

経験が必要なのだ。それは、一般的に

良いとされる行いをし誉められた等の

狭い意味での肯定ではない。

しこう(思考、志向、嗜好)!

を、共感ではなくそれそのものを

認められた経験をさす。

この基盤なしに肯定する経験を積み上げる

のは難しいし、狭い意味での

肯定のみを積み重ねてきた場合、

その規範からずれる行いをするものや

自らのしこうを裁くようになる。

自尊心を育てられなければ、

プライドとのバランスがとれなくなる。

肥大していくプライドが己を

押し潰す。その時、認められた経験という

基盤までボロボロの人間は、立っている

最後の土台まで壊してしまう。

肉体か精神を病むか、死に傾くのは

時間の問題だ。

 

 

時代の病理はそこにある。

であるならば、価値観の多様化の前に

多様さを認めうる柔らかさが必要だ。

それは決していいね!という共感の

強要であってはならない。

そういうものがあるんだな、

という形で認められればよい。

そして、認めてもらえなかった自分が

いるのなら、認めてほしかった自分を

肯定していくしかない。

認められていたと記憶を捏造する必要は

ない。ただし一つ大事な点として、

我々存在者は愛のへたっぴ症候群を

患っていることを頭の片隅にいれて

おくことだ。

渡すこと、受けとること、気づくことが

とても難しい。

愛が難しいのは、私たちがかたちだから。

それでも愛を求むのは、愛をわけもって

いるから。

 

 

ことばの海はだいぶ豊かになってきた。

さぁ、引き揚げよう

 

 

 

 

 

 

 

宣戦布告

 

考えても答えがでない、

そういう問いが好きだ。

たとえ悶え苦しんでも、ぽっかりあいた

虚無の洞窟を前することになっても。

考えても答えがでないことを

考えるのは社会的に有用ではないが、

考えて答えが出ることなど

面白くない。

 

 

自分の地位や有能さに

鼻高々になる人は多い。(逆もしかり)

確かに社会に認められる努力を

したという事実は評価に値する。

ただ思うのは、その評価は

いかほど大切なのだろう?ということ。

人は見た目が9割

なるほどそうかもしれない。

ただその9割はなんのための9割か。

他人に好かれる、評価されることは

社会生活を営む上で重要なのは

わかるが、その中心が語られていない。

たとえ完璧な9割を作り上げても

そこに己がいなければ虚しいではないか。

そんなことで虚しくなってはならない。

本当に虚しくなるべきときに、

ごまかしてしまう社会性という

フィルターこそ警戒すべきだ。

 

特に、道徳的な生活人間が腹立たしい。

道徳とはなにか。

誠実とはどういうことか。

ギリギリの場面で何を選び、何を捨てるか。

お前の感じる正しさなどどうでもいい。

道徳とは本来生易しいものではなく、

引き裂かれながらあるいは何者かの命を

奪いながらそれでも敬意を払うような

もののはずだ。

それゆえに普遍的で絶対的なのだ。

生活でしか悩まない人間に、

生への葛藤で手を汚した人間を

蔑んだり裁いたりする権利などない。

社会の求める金型に自らを流し込む

ような自尊心のないプライドばかりの

空気人間は、評価されど評価することなど

できやしない。お前のことばで

話すことができない人間が、

ことばのために身を投じる人間を

嘆くことなどそれこそ冒涜だ。

 

 

私は、肯定したい。

生きることを肯定したい。

無論良いことだと自らを洗脳したいわけ

ではなく、善悪や好き嫌いを越えて

在ることを認めたいということ。

そういう肯定を求めているし、

だからこそことばを磨かねばならない。

慰めや嘆きに満ちたぬるく諦めることばを

述べるようなモノワカリノイイ人間に

などなるな。

それでも肯定する、肯定されるものだと

信じているからこそギリギリまで

暴くことができる。

決していいことじゃない、

そういう自覚とそれ自体の肯定からし

本当にいきるためのことばなど

出てきやしない。

 

 

 

戦え戦え戦え!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋とか愛とか。

 

今夜は月が見えない。

あの重く厚い雲の奥に

きっといるのだろうが、

月のない空はどこか不穏だ。

外灯の心許ない明かりが

寒空にぽつりぽつりと滲んでいる。

 

こんな夜は、後ろめたい関係の

カップルにとって都合が良いだろう。

お互いのギラギラした光だけが

絡み合って、夜が濃くなっていく。

 

 

 

不倫。たびたびワイドショーでも

話題になるが、明確な嫌悪感を

抱くことが出来ないでいる。

頭や心を超えたところに、

まるで雪崩のように押し寄せてきて

圧倒される可能性は誰しもある。

やめろ、という理性の声を一瞬聞いた

ような気もするが、もはや身動きできない。

それが結婚後に起こった場合、どういう

態度をとることが誠実なのだろう。

 

 

そもそも、結婚とは契約だ。

では、なんの?と聞かれると

ちょっと難しい。

ずっとあなただけを愛しますと誓い、

愛し続ける努力をお互いにしましょう

というところだろう。

では、愛するとはなにか。

まずは恋と愛の違いを考えてみよう。

 

恋は、相手を認めることだ。

私から見て、独占したいと感じるほど

魅力的だという認識から発する。

たいして愛は存在だ。

存在そのものは我々かたちあるものには

理解できないから、愛へ照射する線を

一般に愛と呼ぶ。それはつまり、

存在の肯定だ。魅力的な一側面を

評価するのではなく、在ること自体を

肯定することである。

そして、愛するという能動態になると

存在を認められるよう努めるという

意味合いになる。

相手が相手自身(部分的な承認ではなく

存在そのもの)を認められるように

努めるということだ。

 

だから、恋する気持ちが大きくなることを

愛と呼ぶのは違うし、恋が必ずしも愛に

発展するわけでもない。

目的地が違うのだ。

 

 

不倫は絶対的に恋だ。愛にはなれない。

相手に後ろめたさを背負わせるのは、

相手が相手自身を認める上で障害に

ならざるを得ないからだ。

一方、結婚は恋のままであるカップルも

多いが、愛に向かっていく可能性を

秘めている。障壁にぶつかり、

力をあわせて乗り越えていくなかで

ことばと出会うからだ。

ことばが豊かになり、見える世界が

奥行きを増す。

そうやって、愛に向かって線をひくことが

できるようになっていく。

 

 

と、割りきっていえばそれまでだが、

恋自体は悪いものではない。

突然圧倒されるものでも、じんわり

惹かれていくものでも。

いわば花のようなものだ。

時折心にぽっと咲く、芳しい花。

しかし、結婚という契約には

それを摘み取らないという約束が

含まれている。

花が咲くのを止めることはできないので、

咲いてしまったらただ眺めているだけ。

見方によっては苦い想いを味わうとも

いえる。

 

 

では、すでに摘み取ってしまったなら

どうすべきだろうか。

誰に、どのように、何を反省する?

恋は本能、愛は理性を重んじる。

故に本来同じルールで裁くことはできないの

だろうが、人間の意義という観点から

俯瞰してみることでヒントが見えてくる。

 

 

せかいを豊かにし、世界に還元することが

人間の意義だと考える。

それは好き嫌い、善悪を超えたところに

あるものだ。祈りの領域である。

たとえ興味がなくても知らんぷりすることは

できない。望まずとも、その基盤の上に

我々の生活はいとまなれているのだから。

恋よりも愛を選ぶべきである理由。

愛こそ生だから。

 

 

 

 

さよならと言われるよりも、

言う方が痛いこともある。

想った時間の半分は、ふいに涙が

こぼれるだろう。

ただ会いたい、体温を感じたい。

そういう本能的な願いは理性でぬぐえる

ものではないから、気がすむまで

そこにいていい。

大切なのは絶対に振り向かないこと。

 

身を裂かれるような想いを引き受けて

その選択をすることができたとき、

はじめて愛したのだ。

二度とまじわらない相手の未来を、

そして私の未来を尊重するということ。

そのために決断した事実は、

いずれ己を助ける。

ここぞというときに、凛と胸を張って

愛を選ぶことができる。

自分のことばで語ることができる。

 

 

恐らく、咲いた花の扱いに人間の器量が

あらわれる。その香りを纏いながら、

そして向けられた花束をにっこり笑って

かわす。それが色気だろう。

なにか起きてもおかしくないのに、

決して摘みとらない花。

いつも恋の芳しい香りを纏いながら、

愛を選ぶような女でいたいものです。