せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

生前・生後世界の追究はしない


こんばんは、ぴーやまです。
今日は、生前・生後世界について!


「生まれてくる前や死んだ後の世界は
いったいどうなっているんだろう?」
誰もが一度は考えたことがあると思う。
一度ならず、大きな解体に際して
かたちをかえて似たような問いが
もたげてくる。そしてその先には、
すべての光を吸収するような闇が
沈黙を保っている。こわいよう!

究極のルーツを感じるからこそ
気にかかる訳で、その解明に人生を
かける人もいる。主に科学や宗教といった
手法で迫ろうとするだろう。けれども、
次元が異なるそれらに触れることは
できない。(見つかるのはよりミクロな
かたちやより多様なかたちだけであり、
それらは生前・生後世界ではない)
次元を越えるには、
今のかたちを失わなければならない。
つまり、かたちをもったまま
かたちないそれらを知ることは不可能
なのだ。




存在意義とは、意味エネルギーを燃やして
せかいを拓くことだと考えている。
エネルギーを燃やすのは、生前・生後世界
のためではなく生の軌跡たる″今″のためだ。
それを忘れ、無闇に生前・生後世界を
規定してみたり祈ってみたりしたところで
残念ながらせかい(世界)は拓かれない。
小さな城を建てても、それは生前や生後の
世界には通じない。通じるとすれば、
それはやはり生の軌跡たる今なのだ。 

だから、私は生前・生後世界のあり方を
追求しない。仮説はあるが、
それはあくまで仮説であり今証明する
つもりはない。死んでかたちをうしなえば
意味を求めないから、生後世界のあり方に
思いめぐらすこともなく、どれだけ
細かく描写しておいても答え合わせは
恐らくできないだろう。だから、
生前・生後世界のあり方を綿々と考えるのは
エネルギーの無駄遣いでは?と
思う。もちろん、それを考えなくちゃ
死んでしまうような人は徹底的に
考えればよい。でもそうでなく、大義的に
せき立てられてやるんならやらんでいいと思う。
生の軌跡という圧倒的な虚しさを
誤魔化すためならなおのこと。やめちゃえ\(^o^)/



かたちをもつ我々はかたちの立体性を
追求(=せかいを拓く)していくことで
のみ迫ることができる。
だからこそ、今を生ききりたい。
幸せは権利だけど、生ききるのは意義だと思う。
すべてのかたち在るものは
意味というエネルギーであり、
自らや他のかたちに問うている。
私はそのエネルギーを今に投入したい。

それが違えていても、死んだら後悔という
意味も求められることはないからね。
それだけが救いだな、なんて思いながら