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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

やりたいことがある、だから明日死んでも悔いはない。

こんばんは、ぴーやまです。
唐突ですが、あなたは明日死ぬとして
悔いはありますか?
わたしはほとんどありません!


え?やりたいことあるんじゃないの?
世界開くんやろ世界っ!!

と、突っ込まれるかもしれません。
いやむしろ自分で突っ込みます。
「鬱か?」「悲劇のヒロイン気取りが」
「悟った気になってんなよこの×▲※%!」
…オウ、お里が知れますね(  ̄- ̄)



私が人生をかけてやりたいのは、
存在へ迫ることです。
かたちを持つ存在者として
世界を立体的に広げていくことで
超立体(超越?)領域の存在そのものへ
迫ろうという試みこそ、私の考える
″存在者として生きる″ことだからです。

それはつまり、私が存在者である限り
かたちを持ったままでしか存在へ
迫ることはできないということなんです。
私の考えでは、かたちがなくなれば
存在そのものになり、意味を求めることも
なくなります。
肉体というかたちがなくなった後
精神や魂なるものが残るのか論に
ついてここで詳しく語りませんが、
最大の解体が死ですからそれらも
解体されるのではと考えています。
目に見えないだけで、結局″かたち″ですから。



それって無になるってことなんじゃ…!
と思われるかもしれませんが、
そうではありません。
個としてのかたちは吸収されるわけですが、
すべての起源ですべての原子で
すべてを含む″存在そのもの″になる
と考えています。

存在者であるうちは存在の一部でしか
ないから、世界を広げることで
存在そのものに迫り潜在的な欠乏感を
慰めているところがあります。
だから、死によってかたちを失い
存在そのものになるのなら、
その方がいいじゃん?と思うのは
おかしいでしょうか。

なんというか、「死にたい」は
「帰りたい」に近い心象という
気がしているんです。
存在から発した存在者が、
存在そのものに迫るために生き
いずれは存在そのものに帰る
というような。


存在そのものに迫るのとそのものになる
のとでは違うということはわかるし、
今はかたちを持つ存在者なので
迫りたい気持ちがある。
でも、かたちがなくなったらその
エネルギーもなく存在者とは異なる理論が
働くのだから、もはやそんな気持ちを抱く
必要もないわけで。

だから、「死にたい」という気持ちは
わりと自然なものなんじゃないの?と思う。
現実に絶望したからとか🌑🌑のために死ス!
とか大それたもんじゃなく、
スマホに最初から入ってるアプリみたいな
もんだとおもってる。
少なくともわたしはアンインストール
出来なかったし、今となってはする
つもりもない。
「死にたい」も認めながら生きていける、
それを今生きることで証明していたい。



結局生きたいんかい!
ということではなく、私の生き方において
今時点ではコレが最善のあり方だと
納得しているし、未来も同様に描いている。
人生はプロセスであり、我々はみんな
不完全で有限な存在者だ。
(だからこそ未来を描き、今を生きれる)

故に未達成は必然だから
その点を悔いるならば、いつ死んだって
悔いるだろう。
(仮にすべて達成した″後″の生があるとして、
想像すると空しくなるのは私だけだろうか…)



私はあくまで今このとき出来ることに
注力していたか否かが後悔に繋がると
考えているので、そういう意味では
全く後悔しない。

やりたいことって、仕事とか趣味とか
ライフステージとかの枠組みじゃ語れない
ものなんじゃないかな。
それはあくまで指標であって、
描く未来の只中に今だって
たっているんだと思う。だから、
どこを切っても(どこで切れても)
向かっているのだ。

未来を描けることたけで豊かなのに
やりたいこともあるなんて…
ありがとうせかい