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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

未完なるかたちの物語

 

生ききることは、かたちをもつ

我々存在者の意義である。

所謂幸せは(公共の福祉に反しない

限り)権利であって、意義のために

一部放棄することを選ぶ場合は

あり得る。

 

生ききるとは各々のかたちを出しきる

ことであり、出しきる状態とは

存在そのものへ最も拓かれている状態

だろうと推測する。

つまり、その存在者における

ことばの発展土壌を見つけ、

愛を感じ愛であることに充たされ

在るを豊かに認められるという状態だ。

ことばの発展土壌は存在者のかたちに

よってふさわしい場所や方法は異なる。

故に、世界が多様性を尊重する方向へ

進んでいるのは、存在者にとって

良い風潮ではないかと思う。

 

ただし、読み違えも度々起こる。

例えば生ききることを個々の生存時間を

延長しいずれ不死を実現することだ、

という見方。

我々は、あくまでかたちをもつことを

条件とし、存在者として在ることが

できる。かたちは有限性を超えることは

出来ない。これはもう、存在者が生活する

この物質界のさだめなのだ。

科学や諸々の技術の発展などでは

越えられぬ壁。「次元の壁」である。

それをねじ曲げて克服しようとすれば、

我々はその歪みによって在ることを

脅かされるだろう。

 

かたちは有限であるから、永遠ではない。

それでも永遠を希求するのは、

永遠なるものすなわち存在そのものを

いとおしく想うからなのだろう。

かたちは、生まれ成長しやがて老い

朽ちていき、いずれかたちを失う。

かたちを失うということは、すなわち

境界線から解放されるということだ。

すべての煩わしさや哀しみや争いのもとは

この境界線にある。

であるから、かたちを失うことは

存在そのものへの回帰であり

本来悲しいことでも避けることでも

ないのだと思う。

それでも身近な人の死や大きな災害および

戦争に伴う犠牲者の酷い死は、

言葉にできぬほどの悲しみと虚無感を

残るものの胸の内に宿す。

それは、我々がかたちであるからだ。

境界線によって分け隔てられたものに

対してふれあう部分があり、

その喪失は時に己のかたちの一部が

剥ぎ取られるような感覚さえ与える。

と同時に、かたちがなくなったことで、

より近くなると思い込み、そこへ逃げ込んでしまう習性もある。故に

我々は弔うという儀式を作った。

かたちとして奉ることで、境界線を

あえて引いたのは、残るものが

生ききるための叡智であったと思う。

弔い方は異なるが、どの文化圏にも

存在していることからしても、

直感的に存在を畏れ境界線を失うことを

避けたのだろう。

 

そのような内なる声に耳を傾け、

丁寧に拾い上げてきた先祖たちの

営みの上に我々の今の生活は在る。

多様性の尊重が進む今だからこそ、

この脈々と続いてきた縦のつながりを

しっかり意識しなくてはいけないと思う。

多様性の尊重は各々が好き勝手やるのを

許すということでは決してない。

あくまでかたちを出しきることであり、

私的な幸せのために公共の福祉の幅を狭め

自由域を広げることではない。

続いてきたものを持続可能な状態で

次の世代へバトンを渡す。

使い尽くしてはいけないし、次の世代から

前借りしてもならない。

かたちの豊かさは、物質の多さや希少さに

比例するものではないことを

我々はそろそろ気付かなければならない。

むしろかたちの境界線ばかり増え、

横のつながりが見出だせなくなるばかりだ。

かたち同士の共通項である存在そのものへの

可能性を閉じることになっては

本末転倒である。

 

在ることを認めるということは、

頭で考えるより難しい。

おそらく大人になるほど難しくなる。

自分にとって都合のいいことだけ

在るを認め、それ以外をおかしいと

斥ける。或は、ニュースを流しみるように

他人事のように眺め、自分を慰める道具に

してしまう。(それは社会性の一部を担ってもいる)

 

なにより、成長していくなかで

あらゆるラベルを貼られてきているから。

望んでいなくとも周囲からたくさんの評価を

され、意識していなくてもはられた

ラベルは本人の認識に影響を及ぼす。

このラベルに気づかぬまま、立ち止まった

ままの人や小さく身を屈めている人、

正当化のために極論に走る人が

あまりに多い。私はかたちを出しきらない

それらの状態に憤りを感じてたまらない。

全員の頬を叩いて、生ききれ!生ききれ!と

叫びたくて堪らなくなる。

みんな、かたちに絶望したような顔をして

だってこんなかたちだからと開き直ったり

同情をあおったり他のかたちを見下したり

貶したり。なんと不毛!

かたちなんて変えたくなくても変わるのに、

というかかたちに対して評価して裁いて

勝手に価値をつけているのは

なんてことないかたちだというのに。

かたちにおいて絶対などというものは

存在せず、常に変化し揺れ動いていくのに。

そしてどんなかたちであれ、いずれ

失われるというのに。

 

だから私は相手がラベルを見えるように

鏡でいたい。どんな相手でも変わらずに

そういう態度でいる。

なぜならかたちは出しきった方がいいし、

世界は拓かれた方がいいし、

なによりそれを眺め自らの世界へ呼応させる

のが好きだから。