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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

子供について思うこと

 

 

 

年齢的にはちょうど適齢期だ。

けれども、子供を育てている自分や

家庭を築く未来を疑いなく描くことが

出来ない。ふわふわした感じには

描けるけど、その未来を疑いなく

信じている人とは比べ物にならないなぁ

と感じる。

 

産む産まないに関して論点はたくさん

あるけど、私が一番考えたいのは

『子供が私と同じように死を望んだら、

生きることを強いられるか』ということ。

なにかが克服・達成されれば、

恋をし仕事を謳歌し笑って

暮らせたら生きることを楽しめる

という子供なら

そうあれるようにサポートする。

でも、それらもいらんのやって

泣きそうに笑うのなら、それでも

って言えるかな。

生きててほしいと思っても、

当人の痛みもわかる。

生きたいふりをして、

誰かの死に心を寄せ

不慮の死に嘆き悲しみ

深刻な病気の告白に神妙な顔をする…

そうやって生活に馴染もうと

必死になっている姿を

私は見ていられるだろうか、と思う。

産んでもないのに考えすぎだろ、

と自分でも思うけどさ(/\)

 

 

喜んで受け取らなければならない

ものばかりで息がつまりそうになる。

ありがたいでしょ?と期待する視線に

いたるところでつらぬかれる。

ありがたいです、そりゃありがたい。

ありがたくないものなど逆になに?

ってくらいありがたいことばかり

ですよ。

もうお腹一杯ですよ。

しがない小娘ですがもし欲しい部分が

あるなら全部あげますから。

条件は全部受けとることだけ、

ありがたいでしょ?

 

 

…変なモードにはいってもうた(笑)

存在を求める存在者としての意志(無意識)と

現実を生きる一人間としての意志(意識)が

ゆるやかに繋がっていて、つまり

この世に望まれ祝福されて生まれてきた

ことを伝えていくほかないのかな。

子供を産み育てるということは、

愛について考え直すことの連続

なのかもしれないね。

 

「なんで産んだの?」って聞かれたら、

『永遠を求める大いなる意志が働き、

私がほしいと思ったのよ。』

でおっけーだな。(ほんまかいな)

 

 

 

 

 

 

波間からこんばんは

 

 

起きてしまったついでに

働いてもしまった1日。

ごろごろしながら思うこと。

 

 

解体期はたいてい暗いもんだ。

定点観測のために考えたことを

書き残してきたけど、繰ってみても

まぁ暗い。でもミサワにこんなんいたな、

ってじわじわわろえる。逆に創造期は

なんかこうわちゃわちゃした

中2感がだだもれ。

いずれにしても三十路のピーターパン

みたいな切なさが耐え難い。

 

なんやもうめんどくさい~といいながら、

仕方なしにガストのドリンクバーで

延々話につきあうもう一人の自分。

セリヌンティウスほどには信じて

くれなさそうな距離感がちょうどいい。

 

いまだに波の乗りこなし方は

つかめないし、穏やかなさざ波いいな

って思うこともある。

でもなんでかは知らないけど、

波大きめ、しかもはげしめ。

波よ静まれ!的な能力を諦めたは

いいものの、うまく乗ろうとするのも

疲れてきた。態勢立て直すだけでも

そこそこ消耗するもんだし。

と、いうことで波を見送るパターンも

ありかなと。どうせ乗るならビック

ウェーヴっしょ、なんてちょづい

てるかしらん。

 

 

蝉の声が聞こえないんだけど

やっぱりそういうことなのかしら…

と思ったら、遠くでうっすら

ジーとかビュゥウとか言ってた。

なんかほわんとした。

 

 

 

 

答えられなかった問い

 

『なぜ死にたい人を殺しては

ならないのか』 

 

大学の時、哲学の試験で出た問題。

習った内容とか教授の性格とか

自分の経験とか三面記事とか

頭んなかで切り貼りして書くには

書いた。

でも、納得いく答えは書けなかったし

いまだにこれだと思う解答は得られて

いない。

 

この問いの核は、

『死にたいと思う人がなぜ

死んではならないのか』

という点にあるだろう。

命が私だけのものではないから、

という解答は優等生だけど

突き放した冷たさを感じる。

宗教的、経済的知見はいうまでもなく

隔たっている。

切実に、私事として考えようとすると

底がスコンと抜けるような

無重力感。

 

 

大きな病気もなく、老いにも遠く

生活における不足や不快も特になく、

周りの人にも認められ、社会とも

つながりを感じられ

休暇もありぐっすり眠れる。

週末には出掛けの予定もあり、

その気になれば旅行にも行ける。

朝は満員電車に乗ることもなく、

夜は蝉の鳴き声が微かにきこえる。

 

疑うまでもなく満たされている。

欲しいものも取り除きたいことも

多少はあるが持ちえるレベルだ。

それでも、それなのに。

 

 

前を向く、という意味がとっくに

わからない。甘えやゆとりの審議は

何回しただろう。

今は罪の意識もなく、ただ問いたい。

生きることに納得している人間が

死を望むのはなぜなのか。

 

″有限な私が永遠を求むこと、ほとんど

それは死を望むことなのだ″

そういうかたちで、死にたいも含めて

認めてきた。

カメのようにじっと背負って。

 

ふと、なんでこんなことしてるんだろう?

と冷静になってしまう。

いくら理由を探しても、

それらしい着地点を与えても、

結局「純粋な死にたさ」はないものとされ、

死にたい気持ちは誤魔化しながら

生きていくものであるとされる。

 

確かに、死を望む気持ちが

肯定されれば色々厄介ではある。

みんな、幸せに生きたいという

名目のもと頑張ってきたのに。

そこから外れるやつは外道なのだろう。

欲のために罪を犯す、

愛のために心中する…

そこには生き物の獣臭さがあり、

蔑まれながらも共鳴する部分がある。

そこへして、一見穏やかな人間の

自分の死にたさは余程おどろおどろしい

ものがある。犯罪はおかさないゆえに、

一層狂気的だ。

 

わからんなぁ。

とりあえず、起きないことを

緩やかに願って

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解体中につき

 

どうやら解体期に突入したらしい。

生活の一挙一動、ぽやんとしてしまう。

鏡に写る顔は自分に似せた粘土のよう。

今回はがらがらと崩れるというより、

内に沈みこみ、外壁がぽろぽろ

剥がれ落ちる感じだ。

 

いずれにしても、自分が邪魔に感じる。

それは、誰かに邪魔に思われる、

という疑念でなく、私が私自身を

煩わしく思うという意味で。

 

 

世界ごとつつまれるような一体感や

泣きたくなるいとおしさを、

夢であったのでは?と疑うほど

淋しく黒々湿ってくる。

どちらももて余すこと毎度知りながら

操作できるわけでもない。

ただ拳を握りしめ、立っているだけ。

 

世界を引き受けよう、

その野心とも傲慢ともつかない

意志が引き裂きを強要するならば

生活者としての幸せは

ほとんど諦めなくてはならないのだろう。

そこまでしても、行く先にあるのは

周りの人を嘆かせ、自らを

荒野に立ち尽くさせる

救われない終わりであるように思う。

 

たった一瞬で構わない、たとえ影でも!

永遠にとりつかれればこそ、

かたちでしかいられない私が

一層虚しい。

誰かと見つめあい、溶けていくように

かたちを忘れられる時が

来るだろうと根拠なく信じていた。

そう気づいたのは、永遠を求める代償

として失ったからなんだろうな。

勝算もなく魂を売った代償は、

こればかりではないだろう。

 

 

 

最近思うのが、ポジティブは

本能的な自己防衛ではないか?ということ。

深淵を覗きそうになったとき、

一瞬『きょとん』として各々の

理解可能な範疇へ押し込む。

この『きょとん』がポジティブの本質

なんじゃないかな。

無意識に蓋をする、という意味では

社会性に似ている。というか、

社会性の部分をなしているのかも。

 

もうひとつ思うのが、

自覚されない残虐性の残酷さ。

相手を思って、愛しているから、

平和のために…

愛の発露として行われるあらゆる

営みのなかに、笑顔のまま

『きょとん』とする人間の残虐性と

哀しみが露出することがある。

誰しも下手くそだ。しかし、

愛に気づく・受けとる・渡す、という

コミュニケーションのすれ違いと

哀しみは、かたちゆえの下手くそさに

由来するばかりではない。

下手くそを自覚できない、

その哀しみに自覚する者どもが

いかに斬り込んだとしても

空を切るような不戦敗に終わるからだ。

 

 

現代にはびこるモンスターは、

感動を貪る。消化されることなく、

まるまま飲み込む様には

消費よりと浪費という言葉が似合う。

モヤモヤとした輪郭が見えてきたが、

攻めるべきポイントは未だわからない。

 

今回の解体期で、掴んでやる…

自堕落にボサボサ頭で寝転びながら思う。

全くもって余計なお世話だな。

 

 

 

詩/ふれるとき

 

ふれるとき

言葉はない 言葉はいらない

近く、溶けるままにあずける

 

かたちはないと思いたい温かさ

 

だんだんに眠くなってきて

流れ込んでくる未分化を束にする

積み重ねて 積み重なって

地層になるまで

 

 

 

生きにくさ その他諸々。

 

 

生きにくさ。

それは、生存しにくいという

意味ではないと思う。

経済的な貧困は、生存しにくい

状況を招くかもしれないが

=生きにくい、ではない。

それに、衣食住揃い十分生存できる

状態であったとしても

生きにくさは感じるものだろう。

 

差別や偏見だろうか。

確かに性別や人種によっては、

屈辱的な扱いを受けてきた

歴史がある。しかしながら、

受け入れられなかったことを

反省し、差異あるもの同士が

認めあうために試行錯誤を

し始めている風向きがある。

差別や偏見が生きにくさの

元凶であるならば、近年の動きは

むしろ生きやすさへ向かう

明るさや豊かさが席巻するはずでは

なかろうか。

 

現代、とりわけ日本における

生きにくさの正体はなんだろう。

空笑い、感動消費、効率性の追求、

無駄のない設計、希薄なつながり、

スローライフ、多彩なレジャー、

IoT化、過労死、汚職とゴシップ、

インスタント祈り、マウンティング、

毒親、未曾有の災害、スタッフの笑い、

無差別殺人、無機質なやり取り、

マインドフルネス、インスタ映え、

少子高齢化…

 

なんだなんだなんだ?

この重苦しい空気の正体は、

たぶん顔のない「世間」だ。

世間の核はどこだろう、と考えて

ふとおもった。世間、と言う時

そのなかに私がいない!

私と切り離して語るとき、それが

世間の「顔」だと知った。

面倒なこと、理解できない諸々の

ことをスパッと切り離す。

それが生きにくさの元凶ならば、

その原理はなんなのだろう。

 

 

切り離す…切り離す!それこそ原理か。

世界を変えろと叫ぶこと、

せかいを理解されないと嘆くこと、

それを外から見物すること。

それらはいずれも切り離されている。

それぞれに矛盾なく、整合性はとれていると

思い込んでいる。でも本当は

切り離したことも矛盾をみてみぬ

ふりをしていることも、遠くで知っている。

分けるときにこぼれ落ちるものを

小数点繰り上げ的に解決する。

それが社会性だと言われれば、

それまでなのだけど。

二元化の限界も感じるところだ。

 

 

 

 

 

傍観者として見物するのも、

当事者として嘆き叫ぶのも

『なんか前に見たことある』。

そういう既視感から目新しいもの、

より過激なものを求め、あてどなく

歩きまわるゾンビのような人間。

洗い流したい、遠ざけたい、

ああなのに私も私も人間だ。

寸分変わらぬ人間だ。

うまく呼吸ができない。

 

 

父性的愛による『分解』を、

破壊だと恐れたり所詮わかりあえぬと

つながり云々にシラケたりする。

その過ちを反省し、母性的愛による

『統合』を望んだのに、

正義同士が殴り合ったり

優しさ同士がののしりあったりする。

 

その原理を、人間のおかしみかなしみ

つまるところ愛しみに″変換″して

なんとなく納得した気でせかせか

生活に専念する。

それのなにが悪かろう!となじる声。

でもさ、うまく言葉にできないけど

なんか違うと思う、とつぶやく声。

 

 

 

 

 

近い将来、『なにかできそうな予感』の

構成要素である、″できることがある″が

脅かされてくるだろう。

無批判に信じてきたあらゆる価値を

問い直さねばならぬ地点がくる。

働くことや学ぶことについて、

もうその一端がみえはじめている。

臨界点に達したとき、果たしてわたしは

生ききれるだろうか?

照らしておくれ、と願う心を

今夜は裁かないでいたい。

 

 

 

 

 

 

 

生きると生ききる

 

そもそも、生きるって義務や権利なのかな。

選んでないことを生まれでてから選ぶのは、

生ききるためだ。

そうでなしに、義務だとか権利だとか

言い合ったところで何も出やしないと思う。

 

生命は、連鎖的に引き継がれてきたもの

だけれど、誰かから与えられるもの

ではない。何人もその行方を定められる

ものではない。

永遠を求め、引き継がれてきた生命の連鎖。

個々の命の不死を実現することで完成される

と思うのは、かたちゆえの過ちだろう。

 

 

何が言いたいのかといえば、

全体の意志として希求される『永遠』と

それゆえに引き継がれてきた生命。

その連鎖のうちに生きることは、

大きな意志の働きによって与えられた

ものなんだと思う。

けれども、生きることを選ぶことは

与えられるものではない。意識的かつ

能動的な行為である。

すなわち、大きな意志を認め

永遠なるものを求めることだ。

存在そのものである、愛を求めることだ。

 

でも私はかたちを持つから、

愛そのものにはなれないし、

最期までその全貌を知ることは

叶わないだろう。

けれど、その多面体のある側面なら

かたちの中に認めることが

できると思う。愛をわけもつのだから。

 

認めることは、必ずしも肯定ではない。

在ることを、在るね、と点検するだけ。

そこから愛に迫ることは、すなわち

愛でないものを明らかにしていく

ということにほかならない。

これは違うね、これも、それも。

違和感と怒りを頼りに、いびつな目を

自覚しながらできるだけそのままを

見ようと努める。それが生ききる姿勢

だと思う。

 

 

日本の年間自殺者は、約三万人。

未遂者も大勢いるだろう。

経済や物資の豊かさが

幸福感をもたらすのは事実だろうが、

生きることに踊らされているだけ

だとすれば、無味乾燥じゃないか?

その得体の知れない鬱屈がはびこって

いるから、忘れるためにさらに

豪奢に着飾りけばけばしく踊る。

踊ることに疲れた人間や不向きな人間は

刹那的に生きることの鬱屈を認めただけだ。

自殺者や未遂者のなかに、生ききるために

死を選んだ人間はどれだけいるだろう。

刹那的に生きることと永遠を求めて

生ききることはまるで違う。

ふざけるな、ちゃんと見ろ、と思う。

かたちで解決できることなんかで

死ぬんじゃねぇよ、なぁ。

かたちで超えられないもののために

賭けるもんだろ、命はよ。

 

そんなことを考えていると、

いつの間にか次元の壁の前にいる。

にらみつけながら、どこかに穴を開けて

やろうと酒をあおる。

酔ってたまるか、踊らされて終わるもんか。

そんな気持ちになる。