せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

詩の生まれる地

 

 

9年ほど前。私が高校二年生の

頃から、公開しないブログを

書くようになった。つまり日記として

残していたわけだけど、

たまに読み返してみると

なんだか泣けてくる。

 

最初は言いたいことも言葉にならず、

疲れた・嫌だ・イライラする

わーい・なんとなく・怖い…

そういうワードで構成されていて

うまく表現できないもどかしさが

透けてみえる。

同時に、書かずには立っていられない

切迫感も伝わってくる。

 

パンパンの自意識で破裂しそうな

教室の濃度を思い出した。

今の若い子たちもそうなのだろうか。

私や多くの私たちを抱き締めたくなって

しまう。大丈夫だと声をかけたいが、

肚落ちするまでは前途多難な道程だ。

一旦落ち着くための温かさだけでなく、

辛く険しい航海を照らすランプを

渡すことはできないだろうか。

 

銀河の上の広大な大地において、

鷺を捕まえて押し葉にする鳥を捕る人。

ジョバンニと同じように、詩の生まれる地で

私は彼の代わりに百年とり続けても

構わないような気持ちでいる。

鳥を捕る人は、その行為の意味するところ

をわからずとも、どこから来たか

わからないで言葉を失う人のことを

責めはしない。そういう慈悲の目を

いとおしく思う。

 

 

私は職業哲学者や詩人ではなく、

俗物哲学者や道端詩人でありたい。

哲学者も詩人も、いきることに対する

姿勢であろう。小さな物語を

歪めないで描くためのペンになる、

大きな物語を読むときの拡大鏡になる。

だからこそ、この地を耕そう。

そうでなくなって、やらずにはいられない

だろうけどね。

 

 

 

 

 

 

 

テンプレ、視野に入らず

 

思い返すと、見ているようで

全くみていなかったらしい。

大学時代の同じクラスのメンバーが

どのような人物であったか

ほとんど思い出せなかった。

だいたいあのグループの人かな、

くらいにはかろうじて覚えているものの

だからといって知ろうとも思わなかったし

現在の状況にも興味がなかった。

自分では色々興味を持って動いていた

四年間だったのになぁとぼんやり

考えていたが、なんてことはない。

面白くなさそうだからだ。

 

入学して同じような服装、髪型の

人たちとつるみだし、

異性間交流もそれなりにこなし、

サークルも軽めのに入ってコンパに

あけくれ、真面目に授業を受ける人を

小馬鹿にしながらツテで過去問や

ノートのコピーを集めて単位もなんとか

とり、3年の秋に急に黒髪短髪で

スーツに身を包み耳障りのいい会社から

内定をもらい、卒業まで遊び呆ける。

申し訳ないがこんなイメージしかないし、

現状聞く限りでもおよそ外していない。

なんだろうこのつまらなさ。

斜にかまえて生きることがかっこいいとでも

思っているのか知らないが、

自分の言葉なんて一つもなさそうな

ペラペラ感。

 

教育は拓かれるべきだと思う。

故に大学も無償化が望ましいが、

同時に高等教育機関として

協調性にとみ創意工夫のできる人材を

育てる責務も改めて胸に刻んでほしい。

考えなしになんとなく流されるまま

半径五メートルの幸せだけを求める

ならば、はっきりいって大学までの

教育は必要ない。

学校にとって学生は客であるが、

とりあえず卒業させてどこにでも就職

させるだけなら、単なる就職養成機関

だろう。学問を修めるところであり、

学んだことは活用されるべきだ。

そこの信用が担保されない限り、

いくら教育が重要であっても

税金を投じる謂れはないだろう。

 

 

急に厳しい(笑)

でもモヤモヤしてたんだよな、

教育の無償化に対する見方の温度が

違うような気がして。

そして、テンプレ大学生たちは今、

資本主義を疑わぬが従うしかできない

テンプレビジネスマンだ。

会社の文句をたれ、世間を知った

顔をして、アイコス片手に安酒ですか。

結構なお手前で!

 

拝啓 K様

 

暑い日が続いておりますが、

いかがお過ごしでしょうか。

私は外に出るのも億劫で、

冷房のきいた部屋で本を

めくり、想像世界でいきいき

過ごすような休日を過ごしております。

 

先程、好きな詩人のあるお方が

「他者と言葉を響きあわせるために

言葉を探す時間があってもいい、

言葉との関係を深めてよい」と

仰っていました。

およそ納得するところで、

相変わらず良いこというなぁと

膝を打ったのですが、同時にちょっとした

違和感を覚えたのです。胸の端のほうに

スッと隠れたその違和感を

点検してみたのですが、それは

言葉に対する希求が強い受け手は

それほど多くないのではないか?という

素朴な実感でした。

 

自分の言葉を求める人間の多くは、

おそらく意味付けする必要があった

人たちだと思います。あった出来事を

そのまま受け取ることが難しい人たちが

自分の言葉を求め、過去を自らの言葉で

語り直すのです。そうすることで、

認めたいと望むからでしょうか。

ノスタルジックな中2の自分を

抱えたまま大人になった人、とも

いえるかもしれませんが。

 

人は意味を見出だすために、言葉を

探したり深めたりする動物なのだと

思います。そして、見出だす必要が

別段なく暮らしてきた人たちは

およそ幸せに過ごしてこられた人

なのでしょうね。

 

 

けれども、宇宙における時代という

大きな物語を考えると、そうも楽観して

いられないように思うのです。

この大きな物語は序章から始まり

二章、三章と綴られてきており、現代まで

一連の繋がりを持っています。

そして今、大きな転換期を迎えつつある。

人工知能の発達に伴うシンギュラリティが

一つです。そして、地震地球温暖化

伴う自然災害の大規模化。

また、医療技術の発達に伴う

生命維持の長期化と死のリスク軽減

および人口爆発

到達の時間は予測より前後するでしょうが、

完全に食い止めることはできないでしょう。

できるとすれば、改めてその意味を

問い、どう向き合うか考え直して

舵をきることだけです。かたちの本来性から

考えても、航海をやめることは

できないはずですから。

そして舵をきるからには、搭乗員が

総力戦であたらなければとても間に

合いません。カリスマ的リーダーが

己の考える正義のために歪んだ政策を

繰り返してきたことは、大きな書物の

前章を読めば明らかですね。

だから、リーダーによる統制を待つのでは

なく、総力戦による戦術を考えねば

ならないと思うのです。そしてその前提

として北極星を目指して舵をきる

意味を理解し、己の役割を見出だし

投入しなければ、混乱するばかりです。

人は正しさのために殴りあってきて、

いまなおそうなのです。

不毛な争いを止めるには、罰則や

脅しではききません。ほんとうに何が

大切なのか、肚で納得するしかありません。

それが難しいからと避けて安易な方法に頼り

応急処置をしても、どこか必ず

裂けるでしょう。

 

 

確かに時間の長さでいえば人類の歴史は

短いものではありますが、

だからといってああそうですか、

と統制する役割を別の知的生命体に

受け渡せるものではありません。

無論、他の生命体や自然から必要以上に

奪いすぎたり、まして次の世代から

前借りしたりして搾取を積み重ねて

きている私たちです。

横の時代、しかも人類という種族の中で

いかに生き残るかしか考えていない

ものですから、奪還されても反論できない

かもしれません。

資本主義の跋扈する世界は、

格差の固定化および拡大が顕著です。

富めるものは損をしないよう疑り深く、

貧するものは生活に手一杯で生きることを

志向することができません。

社会とつながるにはそのツールとなる

言葉が必要ですが、教育は商品化され、

しかも高級品ですから。

また、できることがあるという予感を

持ち、豊かに未来を描くことも相当に

難しいことでしょう。

 

 

話が長くなってしまいましたが、

要するに言葉を求めぬ人々にどのように

働きかけていけるのか?ということです。

半径五メートルの幸せを守ることは

精神衛生上そしていきるを認めるために

大切なことではあります。

しかし、基準がそこにしかなく

主観の損得でしか物事を測れない

のでは、一搭乗員として不安です。

乗客ではなく、クルーであろうと

どうしたら語りかけられるでしょうか。

 

マズローさんの理論を借りれば、

とりわけ先進国の比較的裕福な

人々において、自己実現の段階へ

進みつつあるように感じます。

けれども、腹を割ってみれば

認められたいという渇望が

透けてみえることが多い。また、

自己実現の先にある自己超越の段階。

ユートピアの創造やみんな平等・愛が

大切、マインドフルネスで宇宙とつながる、

動物を食べるとはエゴでいやしい…

そういうもっともらしいセリフで

さばく人びとが、自己超越の段階と

賞賛される風潮もなんだかなぁと思います。

それらの大きな選択は、本来ギリギリの

ところで差し迫られて

泣きながら選ぶようなことです。

安全地帯からなんとなくみんなハッピーな

方を選ぶというような易いものではない。

何かの恵み、ひいては犠牲なしには

我々は生きていけない。それを切り離し、

操作できると頭で簡単に考えるから

原子力に頼るというところから抜け

出せない。そういう危うさと背中合わせで

あることを肝に命じるべきだと、

思うのです。

 

情報化の恩恵を受け、我々は

大きな物語を読むことも出来るし

同時代の識者たちの結晶に触れることも

出来る。大変恵まれた時代であると

思います。しかしながら、それ故に

他者の言葉にたいする敬意や

自ら思考し言葉を見出だす意義という

ものが軽視されているのかもしれません。

ネットで調べれば大抵のことはわかります。

しかしそのわかるは、つまるところ頭で

わかっただけで、心や肚のわかるとは

全く異なるものです。自分の言葉を持ち、

ぶつけていかない限り、それらはただの

記号として浮遊する文字でしかなくなって

しまう。自分にとって心地よい言葉で

周りを飾り、それを自分の世界だと

履き違えるような没個性的なかたちたちに

憤りを感じずにはいられません。

そしてまた、情報の多さに満足する限り

台頭してくる人工知能と共存していく

ことは難しいのではないかと思います。

なぜなら人類は情報を記憶するメモリでは

完全に負けてしまいます。勝つことは

難しくとも、対等にわたりあう部分が

なければ共存ではなく淘汰されるだけ

ですから、それを避けるには情報と情報を

つなぎあわせ物語を描く力を

伸ばしていくべきでしょう。

原始時代、身体能力では他の巨大生物に

及ばなかった人類はどのように衣食住を

確保し、今日まで子孫を繁栄してこられた

のか今一度考えてみたいところです。

 

一人一人の搭乗員が歪んだ認知を補正し、

思考を深め、言葉を磨く。その地道な

積み重ねなしに、一足で平成の世は

実現できないと思います。

そしてそれは、ただ苦しくつらい

戦いなだけではないと確信しています。

北極星を目指すのであれば、

他者と戦うのではなく言葉を求め己と

闘うことになる。そうして

せかいを拓いていく喜びや得られる

豊かさは、本当の意味で人びとの渇望を

癒すことになるのですから。

 

 

 

すっかり話しすぎてしまいましたね。

お忙しい中お時間を割いていただき、

ありがとうございます。

一クルーとしてどうあれるのか、

心して丁寧に生きていきたく思います。

残暑の折、どうぞご自愛ください。 敬具

 

 

 

他人の言葉で戦うな!

 

 

自分の言葉がないからと

安易に他人の言葉に便乗しては

ならない。ましてや、他人の言葉で

戦うなど言語道断!

そんなことして、論破して気持ちよくなって

あるいは共感されてホッとして、

一体それは何なのだ?

意味もわからず言葉を繰り返すインコと

同じではないか。

 

自分の言葉で語れるように

一つずつ違和感や感情と向き合いながら、

丁寧に取り出していく地道な作業。

孤独でゴールも見えず、

資本主義的な観点からみれば

まったく無意味とも思える作業だが、

そこをおろそかにして

かたちだけ真似したって

いずれ形骸化するだけだ。

 

ダサくていいから、自分の言葉を

見つけたい。この場所から見えるせかいを

語りたい。

特定の意味なんてないが、かたちである限り

意味からは逃れられない。

であるならば、私が意味を与えようと

そう思う。生きることを選び直すという

ことであり、誰かや何かのせいにできない

生き方を選ぶということだ。

一人荒野に立つような、

寂しくて暖かい気持ち。これでいい。

 

無論、自分の言葉を見つけるには

たくさんの他人の世界に触れなければ

ならない。

たくさんの本当の言葉に耳を傾けなくては

ならない。

その世界や言葉たちと対峙し、

沸いてきた違和感や感情と向き合う。

 

ただし、ひとつ注意していることがある。

圧倒される言葉を持つ人物(本も含む)と

出会ったときだ。なんとなく方向性は

似ていて、共感を覚え、まだ言葉に

出来ていないところまで鮮やかに

軽やかに語っている!そう感じたとき、

そこへ飛びつきたくなってしまう。

でもそれは、あくまで他人の言葉だ。

それだけ力を持つ言葉なら、おそらく

ギリギリのところで血のにじむような

崩壊を越えて、つかみとってきたのだろう。

だからこそ、安易に便乗するな。

それは言葉に対する冒涜だ。

言葉は、他者とのコミュニケーション

ツールでもあるが、自分自身との

コミュニケーションツールでもある。

他者が自分自身とのコミュニケーションで

得てきた言葉が、私の言葉と

そっくりそのまま同じわけがなかろうよ。

 

だから、圧倒されそうだと思ったときは

本なら半分でやめておく。人なら少し

距離をとる。

もっと自分の言葉を磨いてから、

再度会いに(読みに)行く。

圧倒されるということは、まだ私には

出会うのが早すぎるということだから。

 

 

言葉未然のことばの海に

身を任せ、ぷかぷか浮かんでみる。

あれとそれが繋がって、言葉が

立ちあらわられることがある。

その瞬間の、発見した時の興奮たるや!

小さい頃、誰よりきれいに磨きあげた

泥団子が時間を経て艶々に輝いているのを

見つけたような気持ち。

私はそれが好きだ。誰かにも

あげたいのだろうな。泥団子じゃなくて、

見つけたときのその気持ちを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つの青い照明、その点滅の奇跡

 

 

全くなにも上手くいっていませんが

落ち着いているというか、

自尊心・損なわれず

好奇心・だだあがり。(笑)

 

かたちへのこだわりがなくなった、

ということは良いことなんだろうか。

どんなかたちでも認めると

決めてしまったら、なんでも来い状態。

むしろ認めがたいことに挑戦したいという

欲求さえある。

 

 

存在していることに特定の意味はない。

というより、かたちが意味であるだけだ。

かたちである限り意味から逃れられないが、

評価から逃れることはできる。

評価は、ある特定のかたちにとって

利益になるという意味合いで、一般に価値と

呼ばれる。けれども本来、価値は

「ふさわしい」という表現の方が正しい。

存在価値となれば、かたちある存在者として

己のかたちを出しきる状態、という訳が

しっくりくる。ふさわしさはかたちによって

異なるから、様式も無論異なるだろう。

 

すべてのかたちある存在者は境界線を持つ。

推測だが、おそらく存在そのものは

かたちがない。つまり、境界線を持たない。

存在の豊かさを認識する為に存在者が

かたちをもつのであれば、他のかたちとの

境界線を明確にしたりあるいはすべて

飲み込んで一つにまとめたり(世界宗教的なイメージ?)する方向性は、違和感を覚える。

各々のかたちを出しきるのであれば、

他のと境界線ではなく、己の輪郭を打ち出す

という方が近いのではないか。

だからこそ、かたちを出しきる

つまりいききる状態は幸せに勝るのである。

 

かたちは意味である。しかし、特定の意味

を持つわけではない。だから、○○しなければいけないとか、○○することが

いきる意味とか、たぶんないよ。(爆)

意味付けは存在者が生きやすいように操作

されているにすぎない。そして、その

役は本来存在自らが背負わなければ

ならない。かたちを出しきるために、ね。

にもかかわらず、放棄し追従するかたちの

多いこと。選ぶことは恐いからね。

生きることを選び直す、という過程を

経ないと背負うことはできないのかも

しれないなぁ。

 

私はこのかたちをどのように出せるだろう。

木の中に眠る仏像を掘り出す仏師の如く、

余分な諸々を脱ぎ捨てて打ち出さねば。

そうやって生ききる時だけ、かたちの

虚しさが癒される。

一つの青い照明である我々は、

点り続けることはなく、瞬間ちかっと

発光して収束する。別の点滅が続き、

それはあたかも一つの光が

点り続けているようにみえる。

まるで永遠のよう。

そうやって、この有限の虚しさを

ごまかしてきた。それを欺くことだと

卑しく思っていたけれど、祈りでも

あるような気がした。

バベルの塔は透明なかたちでもって

今も積み重なっていると、

信じることは哀しいのかな。

 

かたちであることを認め、

かたちである今を生ききりながら

無形をいとおしく思うことは

可能だろうか。

かたちを肯定することが無形の否定には

ならないと、証明することはできるのか。

正反対ではなく、対になっている。

かたちはないけど、終わらない世界。

ルートは無意識中にあるのか、

はたまた目覚めたまま見る?

 

繁殖と形の永続性の是非は

問い続ける。安易に納得などしない。

にらみ合いながらジリジリ過ごす猛暑、

熱中症に気をつけましょう(⌒‐⌒)エッ

 

 

 

 

 

未完なるかたちの物語

 

生ききることは、かたちをもつ

我々存在者の意義である。

所謂幸せは(公共の福祉に反しない

限り)権利であって、意義のために

一部放棄することを選ぶ場合は

あり得る。

 

生ききるとは各々のかたちを出しきる

ことであり、出しきる状態とは

存在そのものへ最も拓かれている状態

だろうと推測する。

つまり、その存在者における

ことばの発展土壌を見つけ、

愛を感じ愛であることに充たされ

在るを豊かに認められるという状態だ。

ことばの発展土壌は存在者のかたちに

よってふさわしい場所や方法は異なる。

故に、世界が多様性を尊重する方向へ

進んでいるのは、存在者にとって

良い風潮ではないかと思う。

 

ただし、読み違えも度々起こる。

例えば生ききることを個々の生存時間を

延長しいずれ不死を実現することだ、

という見方。

我々は、あくまでかたちをもつことを

条件とし、存在者として在ることが

できる。かたちは有限性を超えることは

出来ない。これはもう、存在者が生活する

この物質界のさだめなのだ。

科学や諸々の技術の発展などでは

越えられぬ壁。「次元の壁」である。

それをねじ曲げて克服しようとすれば、

我々はその歪みによって在ることを

脅かされるだろう。

 

かたちは有限であるから、永遠ではない。

それでも永遠を希求するのは、

永遠なるものすなわち存在そのものを

いとおしく想うからなのだろう。

かたちは、生まれ成長しやがて老い

朽ちていき、いずれかたちを失う。

かたちを失うということは、すなわち

境界線から解放されるということだ。

すべての煩わしさや哀しみや争いのもとは

この境界線にある。

であるから、かたちを失うことは

存在そのものへの回帰であり

本来悲しいことでも避けることでも

ないのだと思う。

それでも身近な人の死や大きな災害および

戦争に伴う犠牲者の酷い死は、

言葉にできぬほどの悲しみと虚無感を

残るものの胸の内に宿す。

それは、我々がかたちであるからだ。

境界線によって分け隔てられたものに

対してふれあう部分があり、

その喪失は時に己のかたちの一部が

剥ぎ取られるような感覚さえ与える。

と同時に、かたちがなくなったことで、

より近くなると思い込み、そこへ逃げ込んでしまう習性もある。故に

我々は弔うという儀式を作った。

かたちとして奉ることで、境界線を

あえて引いたのは、残るものが

生ききるための叡智であったと思う。

弔い方は異なるが、どの文化圏にも

存在していることからしても、

直感的に存在を畏れ境界線を失うことを

避けたのだろう。

 

そのような内なる声に耳を傾け、

丁寧に拾い上げてきた先祖たちの

営みの上に我々の今の生活は在る。

多様性の尊重が進む今だからこそ、

この脈々と続いてきた縦のつながりを

しっかり意識しなくてはいけないと思う。

多様性の尊重は各々が好き勝手やるのを

許すということでは決してない。

あくまでかたちを出しきることであり、

私的な幸せのために公共の福祉の幅を狭め

自由域を広げることではない。

続いてきたものを持続可能な状態で

次の世代へバトンを渡す。

使い尽くしてはいけないし、次の世代から

前借りしてもならない。

かたちの豊かさは、物質の多さや希少さに

比例するものではないことを

我々はそろそろ気付かなければならない。

むしろかたちの境界線ばかり増え、

横のつながりが見出だせなくなるばかりだ。

かたち同士の共通項である存在そのものへの

可能性を閉じることになっては

本末転倒である。

 

在ることを認めるということは、

頭で考えるより難しい。

おそらく大人になるほど難しくなる。

自分にとって都合のいいことだけ

在るを認め、それ以外をおかしいと

斥ける。或は、ニュースを流しみるように

他人事のように眺め、自分を慰める道具に

してしまう。(それは社会性の一部を担ってもいる)

 

なにより、成長していくなかで

あらゆるラベルを貼られてきているから。

望んでいなくとも周囲からたくさんの評価を

され、意識していなくてもはられた

ラベルは本人の認識に影響を及ぼす。

このラベルに気づかぬまま、立ち止まった

ままの人や小さく身を屈めている人、

正当化のために極論に走る人が

あまりに多い。私はかたちを出しきらない

それらの状態に憤りを感じてたまらない。

全員の頬を叩いて、生ききれ!生ききれ!と

叫びたくて堪らなくなる。

みんな、かたちに絶望したような顔をして

だってこんなかたちだからと開き直ったり

同情をあおったり他のかたちを見下したり

貶したり。なんと不毛!

かたちなんて変えたくなくても変わるのに、

というかかたちに対して評価して裁いて

勝手に価値をつけているのは

なんてことないかたちだというのに。

かたちにおいて絶対などというものは

存在せず、常に変化し揺れ動いていくのに。

そしてどんなかたちであれ、いずれ

失われるというのに。

 

だから私は相手がラベルを見えるように

鏡でいたい。どんな相手でも変わらずに

そういう態度でいる。

なぜならかたちは出しきった方がいいし、

世界は拓かれた方がいいし、

なによりそれを眺め自らの世界へ呼応させる

のが好きだから。

 

 

 

 

 

彼岸も含めた波と考える

 

波。

こちら側だけではないとしたら?

こちらという1つの大きな波が

死をもって終わるのではなく、

かたちを失いながらも

あちら側の輪郭をもって

振り子のように波が続くなら?

 

それは、輪廻転生という話ではないし

死後の世界があるという話でもない。

かたちがないのに波だけがある状態は

果たして存在するのか。

けれど、考えてみればかたちへ向かわせる

何らかのエネルギーがある方が

自然な気がする。

 

波には何か特別な意図はない。

運動だ。エネルギーの波形だ。

だから、かたちであるこちら側が

なぜわざわざ?と問うたところで

なにかポンとわかるものでもない。

 

思えば最後のとき、病院の心拍数を

計る機械には波形が写される。

こちら側の残り時間とあちら側への

準備時間。

あああああ!知りたい!!!