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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

飼育と教育

 

 

ペットを世話する母を見て、

「あぁ、私は教育ではなく

飼育されたんだなぁ。」と

ぼんやり思った。

 

猫可愛がりは、ほんの小さい時なら

存在の肯定を示すために役立つかも

しれない。けれど、成長にともない

社会に出て交わりながら、

自分で障害を越えていく力を

身に付けていかなければならない。

いつまでも干渉しようとするのは、

親自身が手放したくないからだ。

それは、絶対的な支配者である親

という立場を守りたいだけの話であって

決して子供のためではない。

 

母は、自分自身と向き合えていないから

正面から向き合った問いをごまかした。

私のためではなく、自分が見たくないから。

そして母は今でも変わらず、自分と

向き合えず、認めることも無論

できていない。いつも不平不満を並べ、

してくれないと嘆き、感謝を強要し

自分の言葉で戦わない。

子供を産めば親にはなるが、同時に親心が

育つわけではないのだなと少し寂しく思う。

大人になり、自分と向き合って

認めてきた私は、もはや母に親心など

期待していない。ただ、生きることを

認められないで、いつも被害者意識の

小心者でいることに甘んじ、

死を待つ日々を送る母を

私は同じ存在者として悔しく思う。

だから、向き合う問いを話題にし、

考えること、受けとめること

そして認めることを一緒にしようと

語りかけてきた。でもそれは、

今度は私が支配しようとしている

ことになるのだろうか。

 

コツン。小石は消えて見えない。

 

 

飼育された私は自分で学んできた。

与えられなかった教育は自ら求めて

這いつくばって獲得してきた。

この言葉こそ、私の武器。

試したい、言葉の力を。

ギフトでなくても与えるわけを

私はまだ納得できずにいる。

自然なんて我々の理解の範疇を

超えることもわかってはいるが、

できちゃったからだとは言いたくない。

生ききることを幸せであることより

求めたから、ここにいるのだと

言えるだろうか。