せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

プリズム

 

たったひとつを探してる

 

あのしゃぼん玉や飛ばした

くつの軌跡やしぼんでいく朝顔。

凛とした新年のにおいと

コバルトに光る足跡、

淋しく連なる裸の木立。

 

どこかに万物共通のそれが

あるような気がしてる

黙々生きる誰かが、ノートに

走り書きしていてもおかしくない

ドレッシングの配分のわきとかに

さららと。

 

どこかで見いだされているのに、

誰でもたどり着けるのに、

もうすぐそこにあるのに

 

そんな予感でいっぱいなのに

もつれているのは何故か

 

 

吸い込んで思わずにやける

朝焼け、目を閉じる

残像に探しても追うほど遠ざかる

すべての感動が万華鏡のように

瞬間瞬間を飾る

 

プリズムは終わらない

くるくる笑うように廻りつづける

 

 

 

「生活」に迷う時、本当に対峙すべきこと

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「迷い」について!

 

 

人生は選択の連続だとかいうけど、

じゃあその選択の基準って何なの?

連続していった先には何があるの?

ってところはあまり語られない。

 

いや語られてはいるんだけど、

あまりに軽い。ことばを持つ

一握りの先人らの肩にずけずけと乗り、

そのことばを漂白してデコって

額にいれて飾ってるみたいな感じ。

そんなぺらっぺらなものを

どれだけ垂れ流したって、そいつの

ことばじゃないわけで。まして、

他人のことばを盾にしてやいのやいのと

お祭り騒ぎしてるだけなのに

深刻な顔で「生活」を憂うなんて。

冒涜だとすら思う。

 

 

 話がそれた。

人生において選択を迫られるとき

「生活」と「生きる」を天秤にかけて

迷うんなら、その「生きる」は

自分にとって一等の熱じゃなく、

引き合いに出される「生活」は

芯から望むかたちではない

ということ。

 


 生活は、会社や結婚や子供や趣味。

 生きるは、生活を貫く芯。熱そのもの。

「生きる」なしの「生活」は

主役不在の誕生パーティーみたいなもんだ。

みんなおだやかに笑いあい、

豊かさを享受しているつもりでいて

なんのために集まったのかすっぽり

抜けていることをごまかしている。

(正確に言えばごまかしている自覚は

ないからこそ、生活といきるを天秤に

かけられるわけだけど。)

さも、みんなで微笑みあうことが

最初から目的だったかのように。

 

 「生きる」にこだわったり、

語ったりすることにたいし、

「生活」を持ち出して諭す人の

話は聞くもんじゃない。

「生きる」ことを見いだすとき、

その熱のなかにあって「生活」は

二の次だとわかる。その声に従うことだ。天秤にかけられるもんじゃない。

逆に言えば、天秤にかけられるなら

それは本物の熱源じゃないのかも?と

立ち止まってみた方がいい。

掘り下げてみたら

今ここから逃げたいためだったり、

馴染めない自分を正当化するため

だったり…

見なかった方がよかったと思っても、

開けちゃったもんは仕方ないよなぁ。

そしてそれでいい。



「生活」に迷った時、「生活②」

 「生活③」と選択肢を増やすことは

有効だろう

でも真に有効なものにするには、

「生きる」という芯が

燃えていなくちゃならない。

(あるいは選択肢が燃える方向)

そうじゃなければどんな「生活②」も

「生活③」もただの選択肢だ。

多くても少なくても、何を選んでも

それは結局「生活」だ。


わたしは、「生活」のなかで

「生きる」がうやむやにされ

そのまま凍んでいくことが

堪えられない。

その熱がわたしにとり、「生活」を

貫く「生きる」だと感じる。

だから、自分一人だけそうしていれば

いいだなんて思えない。

すべての存在者が「生きる」へ

向かい、各々のことばで「せかい」を

拓く。そんなせかいを見たい。

せかいとせかいで語り合いたい。

生活を越え、生きるを語り合いたい。

だから、そこにこだわっていたい。



「生活」に迷った時は、

「生きる」と対峙することだ。




諦めの悪さ


こんばんは、ぴーやまです。
自分の諦めの悪さを諦めました!



これだ!と思ったら、とにかくやってみる。
そうでなくちゃ気がすまないんですよね。
向いてないんじゃないかとか、
食っていけんのかとか思うのも結局
気になってる証でしかなくて。
他の仕事を手当たり次第のぞいてみても、
やっぱり最終的に気になるのはそこで。

やってみればいい、気がすむまで。
熱がほとばしる、感動で心がとらわれる
そんな場所を足場にして存在に
迫りたいんでしょう?
逃げるのは諦めてさ(笑)
今までさんざんずれてきたじゃんか、
一回死んだんなら残りの余生は
博打打ってもいいじゃんか。




物にはさほど興味を持てそうもない。
たくさんあるのは好きじゃない。
あまのじゃくだから流行ものも興味ない。
お金のかかる趣味もあまりない。
旅行だって貧乏旅行こそ至高だと思って
しまうんだから。金稼ぐのには
向いてないよね(^o^ゞ
それは好きな人がやればいいんだ。
子供を持つことはまだ決めきれないけど、
これからの生より今ある生と
向き合いたい気持ちが強い。
自分も答えを出せていないから、
誰かに渡すときに「贈与」だよって
いっていいのかわからないとも思っている。


自分のことばを獲得したい。
それは生きることに対して、自分なりの
アンサーを見つけたいから。
見つけたことばで語り合いたいから。
たまに「存在の壁」の前で手酌しながら
語らいたい。できるなら
最後までそうやって生きて、いききって
死にたい。愛に迫らねばわたしにとって
生ではない。
燃えてスパークして散りたい。


身体壊すかもしれない。
ストレスで早死にすると思う。
それはいいと思っているから、
時間をかけた自殺なのかもしれない。

虚しさのワケは、「次元の壁」

こんばんは、ぴーやまです。
今日は「虚しさ」について!


時々、理由のない不安感や
寂寥の思いに圧迫されることは
ありませんか?
イキイキしていても幸せを日々
感じていても、突如にゅっと顔を出す
モヤモヤは、もしかしたら「虚しさ」
かもしれません。


寂しいのとも違う、苦しいというわけでもない。
ただ、虚しい。
知らぬ間に両手指の間から
なにか大事なものが砂のようにするする
こぼれているような。なのに、
その意味に根源的には気づけておらず
砂の正体も掴めぬような…

結局掴めぬままここまで来てるわけ
ですが(・c_・。)
物理の本を読んでて「もしかしたら」
と思いあたることがあったんです。
それは、「低次元は高次元を高次元として
捉えることはできない」という内容でした。
つまり、二次元にすむ住民?がいたとして、
我々三次元の存在者について捉えられない
というわけ。



確かに、二次元上で三次元を捉えようと
しても、それは結局二次元でしかない。
いかに立体的にしようと陰影をつけたり
遠近法を用いたりしたところで、
パッと見掴めそうなほどリアルに
描いたところでそれは「絵(二次元)」だ。
だから、二次元では三次元を表現することは
できても三次元になることは出来ない。

三次元になるには、奥行きが必要なのだ。
(仮に実存的奥行きを獲得したら、
それはもう二次元ではない。)
だから、いかに複雑なかたちを描いてみても
三次元とは圧倒的な隔たりがある。



わたしが二次元の住民で、
こんなことを言われたらこう思うだろう。
(なんて虚しい…)
そう、虚しいとは「次元の壁」の前で
茫然とする気持ちなのだ。


存在者は、より高次元を目指す特性が
あると考えている。それは、潜在的な
ものだろう。ではなぜ、「次元の壁」は
あるのだろうか。
絶対にとらえることが出来ないのに。 
真にとらえるには今の次元から
めりめりとはがれ、高次元の住民に
ならねばいけないのに。(=最大の解体)


思うに、その次元の住民が存在
するための「制約」なのだと思う。
「次元の壁」を越えるということは、
実存的制約を越えるということで
すなわち今の次元の住民ではなくなるということ。
知りたいがためだけに高次元を目指しても
知るにとどまることはできず、
それ自体になってしまう。
つまり、住民が存在者としてあれる条件が、
「次元の壁」という制約なのだ。


二次元の住民は、平面的であるという
制約があって初めて存在者となる。
そう考えると、二次元と三次元の間にある
「次元の壁」は″立体性″だといえる。
では、三次元と四次元の間にある
「次元の壁」とはなんだろう?

んー、まだしっくりくることばが
見つからない。暫定すると、
″永遠性″かな。
「時間」がかなり関わってくる
と思う。一定方向にしかすすまない時間は
明らかな制約だ。


二次元で平面的であることに
なんの疑問も抱かないでいるのは、
三次元で立体的であることに
なんの疑問も抱かないでいることに
似ている。前者から見て、立体性を追求する
二次元住民はバカらしい。後者から見て、
永遠性を追求する三次元住民はバカらしい。
生き切る者はバカらしくみえる。
そしてそれでいい。


 

ある絵を目にし、強烈に引き込まれる
ことがある。そこには、二次元で
三次元を追求しようとした「バカらしい」
住民がいる。そこに展開される世界は、
実存する立体以上に立体的だ。
三次元にあって掴めないまま奥行きが
散らばっていると、まこと頭を殴られた
思いになる。(三次元なのに立体的でない!)
そしてその筆をとった三次元の住民は、
永遠性も対峙していたに違いない。
バカらしく、泥臭く。

「次元の壁」の前で虚しさと対峙し、
それでもなお高次元を追求する時
稀にキラリと輝くモノをとらえる。
しかしそれは次の瞬間にはこつぜんと
姿を消す。どうにかその尾っぽをつかみ、
引きずり下ろそうとする不断の努力が
生き切る者を存在者足らしめるのだと思う。



できる限り近づきたい。
できる限りバカらしくありたい。
死んでもいいから生き切りたい。

知りたいのは、意味″で″あることの意味


こんばんは、ぴーやまです。
今日は「意味」に関して思うこと!

今まで、⚫⚫の意味はあるかないか?
という日常における問いから
そもそも存在に意味はあるかないか
という形而上的問いまで考えてきた
訳ですが、ふと思った。

「ん?存在者とは、存在をわけもつ
かたちあるもので、かたちが
意味を求める…とすれば、
かたち=意味なんじゃないの?
本当にといたいのは、存在者の意味の有無
ではなく、なぜ存在者が意味なのか。
つまり、意味であることの意味、なんじゃ?」



なー!
そうだ、そうなんだ!
意味があることを信じるとか祈るとか
したいんじゃなく、まして生きることの
慰めに使うためじゃなくて。
あるいは、意味はないと退廃に臥すため
じゃなく意味になろう!といきり立つ
ためじゃない。

意味である意味を徹底的に考えたい。
それゆえに、意味であることを素直を
認めにくい(認めがたい)事象や存在者に
惹き付けられる。そこに、
方程式の鍵があると思うから。

意味であることを認め、意味である意味を
解こうとすること。それがわたしの
いきるテーマで、たぶんみんなもそれぞれに
迫っていきたいテーマなんだろう。

雑記 学ぶこと


こんばんは、ぴーやまです。
わたしのなかで今激アツなのが
物理!めちゃおもろくてびつくり(^q^)

特に高次元についての検証とか
「ふぁっ?!」ってなる。
ほんとは9次元あるけど内6次元は
折り畳まれてるとか超ひも理論とか…


でも、ちょいちょい「あのことか。」
って急に納得する部分もあって。
特に、上の次元は理解できないっていうことを
物理的な説明だとすごくしっくりきた。
3次元の我々がそれ以上の次元を
理解できない所以が。
あと、時間を一つの方向と考えて
3次元+1時空で「4時空」として
世界を解釈する場合もあるみたいで、
ちょっとひっかかった。時間というものに
迫りたい思いがあるのもそうだけど、
たぶんそれだけじゃない。
3次元の立体感についてもっと検討
しないと、って思ってるからだろうな。

もし3次元より小さくあるのだとすれば、
それは存在のどんな特性を意味するだろう。
立体性を追求することではない?
多面性を獲得することでも?
これは思いの外大きい解体に
つながるかも…(・c_・。)






学生の頃は理数系とか毛嫌い
してたけど、今になっておもしろいなぁ。
物理だけじゃなくて、なんだか今の方が
よっぽど勉強してる気がする。
学ぶことって誰かの拓く世界を覗くことで、
自分の世界を拓く道具にもなるよね。
知ることが楽しいよ、拓くことに
エネルギーを燃やすのは気持ちいい。

生前・生後世界の追究はしない


こんばんは、ぴーやまです。
今日は、生前・生後世界について!


「生まれてくる前や死んだ後の世界は
いったいどうなっているんだろう?」
誰もが一度は考えたことがあると思う。
一度ならず、大きな解体に際して
かたちをかえて似たような問いが
もたげてくる。そしてその先には、
すべての光を吸収するような闇が
沈黙を保っている。こわいよう!

究極のルーツを感じるからこそ
気にかかる訳で、その解明に人生を
かける人もいる。主に科学や宗教といった
手法で迫ろうとするだろう。けれども、
次元が異なるそれらに触れることは
できない。(見つかるのはよりミクロな
かたちやより多様なかたちだけであり、
それらは生前・生後世界ではない)
次元を越えるには、
今のかたちを失わなければならない。
つまり、かたちをもったまま
かたちないそれらを知ることは不可能
なのだ。




存在意義とは、意味エネルギーを燃やして
せかいを拓くことだと考えている。
エネルギーを燃やすのは、生前・生後世界
のためではなく生の軌跡たる″今″のためだ。
それを忘れ、無闇に生前・生後世界を
規定してみたり祈ってみたりしたところで
残念ながらせかい(世界)は拓かれない。
小さな城を建てても、それは生前や生後の
世界には通じない。通じるとすれば、
それはやはり生の軌跡たる今なのだ。 

だから、私は生前・生後世界のあり方を
追求しない。仮説はあるが、
それはあくまで仮説であり今証明する
つもりはない。死んでかたちをうしなえば
意味を求めないから、生後世界のあり方に
思いめぐらすこともなく、どれだけ
細かく描写しておいても答え合わせは
恐らくできないだろう。だから、
生前・生後世界のあり方を綿々と考えるのは
エネルギーの無駄遣いでは?と
思う。もちろん、それを考えなくちゃ
死んでしまうような人は徹底的に
考えればよい。でもそうでなく、大義的に
せき立てられてやるんならやらんでいいと思う。
生の軌跡という圧倒的な虚しさを
誤魔化すためならなおのこと。やめちゃえ\(^o^)/



かたちをもつ我々はかたちの立体性を
追求(=せかいを拓く)していくことで
のみ迫ることができる。
だからこそ、今を生ききりたい。
幸せは権利だけど、生ききるのは意義だと思う。
すべてのかたち在るものは
意味というエネルギーであり、
自らや他のかたちに問うている。
私はそのエネルギーを今に投入したい。

それが違えていても、死んだら後悔という
意味も求められることはないからね。
それだけが救いだな、なんて思いながら