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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

虚しさのワケは、「次元の壁」

こんばんは、ぴーやまです。
今日は「虚しさ」について!


時々、理由のない不安感や
寂寥の思いに圧迫されることは
ありませんか?
イキイキしていても幸せを日々
感じていても、突如にゅっと顔を出す
モヤモヤは、もしかしたら「虚しさ」
かもしれません。


寂しいのとも違う、苦しいというわけでもない。
ただ、虚しい。
知らぬ間に両手指の間から
なにか大事なものが砂のようにするする
こぼれているような。なのに、
その意味に根源的には気づけておらず
砂の正体も掴めぬような…

結局掴めぬままここまで来てるわけ
ですが(・c_・。)
物理の本を読んでて「もしかしたら」
と思いあたることがあったんです。
それは、「低次元は高次元を高次元として
捉えることはできない」という内容でした。
つまり、二次元にすむ住民?がいたとして、
我々三次元の存在者について捉えられない
というわけ。



確かに、二次元上で三次元を捉えようと
しても、それは結局二次元でしかない。
いかに立体的にしようと陰影をつけたり
遠近法を用いたりしたところで、
パッと見掴めそうなほどリアルに
描いたところでそれは「絵(二次元)」だ。
だから、二次元では三次元を表現することは
できても三次元になることは出来ない。

三次元になるには、奥行きが必要なのだ。
(仮に実存的奥行きを獲得したら、
それはもう二次元ではない。)
だから、いかに複雑なかたちを描いてみても
三次元とは圧倒的な隔たりがある。



わたしが二次元の住民で、
こんなことを言われたらこう思うだろう。
(なんて虚しい…)
そう、虚しいとは「次元の壁」の前で
茫然とする気持ちなのだ。


存在者は、より高次元を目指す特性が
あると考えている。それは、潜在的な
ものだろう。ではなぜ、「次元の壁」は
あるのだろうか。
絶対にとらえることが出来ないのに。 
真にとらえるには今の次元から
めりめりとはがれ、高次元の住民に
ならねばいけないのに。(=最大の解体)


思うに、その次元の住民が存在
するための「制約」なのだと思う。
「次元の壁」を越えるということは、
実存的制約を越えるということで
すなわち今の次元の住民ではなくなるということ。
知りたいがためだけに高次元を目指しても
知るにとどまることはできず、
それ自体になってしまう。
つまり、住民が存在者としてあれる条件が、
「次元の壁」という制約なのだ。


二次元の住民は、平面的であるという
制約があって初めて存在者となる。
そう考えると、二次元と三次元の間にある
「次元の壁」は″立体性″だといえる。
では、三次元と四次元の間にある
「次元の壁」とはなんだろう?

んー、まだしっくりくることばが
見つからない。暫定すると、
″永遠性″かな。
「時間」がかなり関わってくる
と思う。一定方向にしかすすまない時間は
明らかな制約だ。


二次元で平面的であることに
なんの疑問も抱かないでいるのは、
三次元で立体的であることに
なんの疑問も抱かないでいることに
似ている。前者から見て、立体性を追求する
二次元住民はバカらしい。後者から見て、
永遠性を追求する三次元住民はバカらしい。
生き切る者はバカらしくみえる。
そしてそれでいい。


 

ある絵を目にし、強烈に引き込まれる
ことがある。そこには、二次元で
三次元を追求しようとした「バカらしい」
住民がいる。そこに展開される世界は、
実存する立体以上に立体的だ。
三次元にあって掴めないまま奥行きが
散らばっていると、まこと頭を殴られた
思いになる。(三次元なのに立体的でない!)
そしてその筆をとった三次元の住民は、
永遠性も対峙していたに違いない。
バカらしく、泥臭く。

「次元の壁」の前で虚しさと対峙し、
それでもなお高次元を追求する時
稀にキラリと輝くモノをとらえる。
しかしそれは次の瞬間にはこつぜんと
姿を消す。どうにかその尾っぽをつかみ、
引きずり下ろそうとする不断の努力が
生き切る者を存在者足らしめるのだと思う。



できる限り近づきたい。
できる限りバカらしくありたい。
死んでもいいから生き切りたい。