せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

豊かさの本質

こんばんは、ぴーやまです。
今日は「豊かさ」について!
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⚫⚫的豊かさという表現があるように、
豊かさは一言では語れないように
思う。でもあえて、本質について
考えてみたい。


どれがより豊かで、またどれだけ
あれば豊かで…と豊かさの追求は
尽きない。気になるのは、豊かさの
量的・質的な変化について。

豊かさも私たちがかたちをもって
考えたり感じたりするものであるから、
エネルギーを持ち解体・創造の
過程でかたちは変わるだろう。
もちろん、あり方が変わるだけで
在るということは変わらない。
※せかいにおける意味が変わるということ

では、その量(あるいは質)はほんとうに
変化するだろうか。
かたちが変わっただけで、総量は
変わらないのでは?
もし変わるとすれば、その限界値は
あるのだろうか。



幸せと豊かさとは関連があるように
思われる。今のところ考えているのが、
⭐幸せ=豊かさが認められていく過程で、
境界線が蕩ける状態
⭐豊かさ=「あるね!」の広さ・深さ


ゆっくりほどいていこう(/\)\(^o^)/

「認められないこと」とどう向き合う?

こんばんは、ぴーやまです。 
今日は「認められないこと」との
向き合い方について!
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そもそも、日常で使う際の「認める」の
ハードル高すぎない?と思う。
「いいね!」という共感とかリスペクト
とか肯定的な意味合いが相当含まれている。
でもわたしは、「あるね!」という
いわゆる″認識″で十分なんじゃないかと
思ってて。


確かに「いいね!」は嬉しいよ、
なんか孤独も分かち合える気がするし
虚しさも多少癒える。
でも、存在が多様である故に
存在者は多様で多面的だから、
「いいね!」と肯定的に
認められない対象は在る。
そういう意味では、すべて認めることは
できない。
だから、「いいね!」と肯定的に
捉えることを求めるような圧力は
暴力的だなぁとかんじる。
「いいね!」と肯定できないことを
肯定してくれないなんて、ずいぶん窮屈な
話じゃないですか?



優しい人は全部「いいね!」にしようとして、
オセロをひっくりかえすみたいに
あたまやこころを肯定で埋めようとしてる。
克服して、感謝して、満足して、
褒めて、許して。
それを「受け入れること」だと信じて、
それこそが「幸せ」だと信じて。

でもさ、「いいね!」だけじゃ
せかいは拓かれないんだよね。
意味を求めるエネルギーが反駁と
とらえられると、運動が起こりに
くくなるから。
次第に「なんで?」が怖くなる。
自分にも問うことも、他人に問われる
振る舞いも怖くなる。
それでも存在は多様だから、
存在者はあなたの「いいね!」を
越えてくることがある。受け入れられない
ことがある。
それでも、のみ込もうとする?
仕方ないといって、物わかりのいい顔で?
幸せになった″それ″は、一体だれなんだろう。

全部受け入れようだなんて、
謙虚じゃなくてむしろ傲慢だ。
存在者の領分を越えている。
すべてを肯定できるはずないし、
実際しなくていいんだ。
「いいね!」といえないことが
あったなら、まずはちゃんと
「あるね!」と認めてあげようよ。
表面だけ整えたくらいじゃ
消えやしないのだから。

2018年、わたしというかたちは何にどんな意味を求めるだろうか?

今週のお題「2018年の抱負」
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こんばんは、ぴーやまです。
まもなく2018年ですね。
2017年は本当にあっという間でしたが、
振り返ってみるとアウトプットを
模索した一年でした。
昨年はひたすらインプットだったので
図らずもアウトプットにちからが入り、
自分の表現について少しせかいが
拓けたような(/\)\(^o^)/?
なので、2018年はインとアウトを
都度織り混ぜてせかいを豊かに
拓いていきたいですね(^-^)v目指せライヴ感!

また、今年は久々に大きく解体し
創造まで時間を要しました。
気持ちは焦り何もかもうち崩れる
ような怖さがありましたが、
一番そこのそこでは
「これ乗り越えたら怖いもんなしだな。」
「どうやって創造するだろう?」
と、どこか楽しんでもいて。
どんな状況でもストーリーを描ける力は
未来を拓く上で支柱になるものだと
強く感じました。


これからの1年は、わたしにとって
とても重要な1年になると思う。
準備の年でもあるけど、せかいを
ぶつけて勝負をする年にもなる。
生き急ぐつもりはないけど、
いつだって生ききっていたい。
だから今日までの自分をベットして、
次の自分をとりにいこう。


あと、暖めていた理論と方法を
体系化しよう。これからはそれを剣にし、
せかいを拓いていく覚悟はできてるから。
超難問は生涯かけて証明して
いくものなのでしょう?
かたちにふさわしく、生きる。
意味がないならつけてやるまでヘ(^_^)


おはよう、2018

「かわいそう」の気持ち悪さはどこからくるのか?

こんばんは、ぴーやまです。
今回は「かわいそう」の気持ち悪さについて!
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むかしから、言われることも聞くことも
嫌でした。
かわいそうと言われる位なら、
惨めだとけなされた方がマシだと
思ってました。
見下すような悪意ある「かわいそ~」が
嫌なのはわかるのですが、対象の不遇な
状況に心を寄せて発せられる「かわいそうに」 
であっても、やはり気持ち悪い。

なぜそんな気持ちになるのだろう?
ともやもやしていた訳ですが、
ようやく納得できそうな核が
みえてきました。おそらく、
次のような隠されたメッセージを一緒に
受けとるためではないかと考えます。

メッセージ① 不遇な状況は変わらない

「かわいそうに」の背景には、
″この状況は不遇な状況として
これからも保持される″という
予測があるのではないか。

メッセージ② 当人にはどうすることもできない

当人に非はなく、巻き込まれた等の
不遇な状況に対して「かわいそう」
と表現される。つまり、″受動的な
態度しかとりようがない″という前提が
あるのではないか。


確かにAという状況が生じる前には
戻れない(今のところは)。
そしてそのAが一般に悲惨な出来事であり、
加えて当人に非はないという不遇な状況は
あり得る。
けれども、それはAが不変であるという
ことを意味しないのではないか。

「かたちに意味はない、かたちが意味を求める」
と考えているので、当人はかたちの意味を求める
自由があるはずだ!という思いがある。
だから、Aという出来事に出くわし
それが不遇なものであったからといって
当人は「かわいそう」であるとはいえない。
当人がその出来事というある種のかたち
について、受け取り方は選べる。
それは辛くなくなるとか悲しくなくなる
ということではなく、仮にそうであっても
意味を″見いだせる″ということ。

でも、「かわいそう」とくくられた時から
その自由は取り上げられてしまう。
意味を与えるという能動的な働きは
選択肢から無意識のうちに除かれ、
残るのはただ同情を寄せられるしかない
わたしとAという出来事だけ。
それほど救いようのないことって
ある?


「じゃあどうすればええねん!」

対象の状況にたいし、心を寄せること自体は
なんら問題はないと思うのですが
その発現には気を配った方がよろしかろうと
思う。
※もちろん、発現をうけて意味を求める
自由は相手側にあるわけだけど、
せかいが揺らいでいる時ほど
意味付けは難しい。だから、本当に
心を寄せればこそなるべく発現に気を配り、
意味付けの負荷を減らしてあげたいよね。

相手が意味を見出だせるようにサポートする

相手の性格や状態によってふさわしい
アプローチは違ってくると思うけど、
基本姿勢としては
「Aは″在る″(在った)。」
「あなたは″在る″」を認め、
「Aを受け取ったあなたは″在る″」
を認められるようにサポートするということ。

すごく根気がいる。答えを急ぎたくなるし、
手っ取り早く「かわいそう」なことにして
処理したいと思う。意味付けをするということは、
Aという事象と向き合うことだから。
みている方も落ち着かなくなるよね、
辛い苦しい悲しいはとくに。



割りきれないことを割りきろうとするのは、
割りきらないということだ。
カテゴリー化して処理してしまわない
ということ。

「かわいそう」カテゴリーに振り分けて、
どうすることもできないものとして処理したい
でも意味を知りたい…
そういう葛藤のなかにいる当人を
想うのなら、本当に想うのなら
「かわいそう」に振り分けるんじゃなく、
意味を見いだせるって信じてほしい。

愛するとは?

こんにちは、ぴーやまです。
今日は「恋愛」について!

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いろんなかたちの愛の関係がある中、
恋愛って常に注目の的ですよね。
恋人同士愛し合うとか二人だけの世界とか
言葉にするとちょっとむずがゆいけども!

恋は盲目なんていうくらいだから、
冷静な判断ができなくなって
突っ走った経験のある方も多いんじゃ
ないでしょうか…!
かくいうわたしもその一人で、
「あいつはやめとけ!」といわれながら
猛烈に突っ込み、なかなか抜け出せなかった
ことがあります。
やめよー!と思っても引き戻され、
やめないでいられる理由を都合よく
見つけては結局ずるずると
中途半端な関係を続けていました。
(後で書きますが、相手の二股が発覚し
やっと別れを告げ、転勤で物理的にも
離れることで終わりました)
反省は数えきれませんが、
恋愛におけるせかいがぐんと拓けた
いい経験でしたし
もはや同士のように感じるので
元気でいてくれよな、と思ってます。
それはさておき。愛するって、なんだ!!
※今回は、以前超訳した「愛」を
応用して、恋愛における「愛する」を
考えてみるよー!

【分解】

愛とは存在

愛は存在そのものであり、4D(超立体改め
超越)領域にあると考えています。
そして、存在者として愛(存在)をわけもつ
かたちあるわれわれは、
存在″者″として3D領域で愛を見いだし
認められることを豊かにしていくことに
より愛に迫ることができる。
それはせかい(世界)を拓くことであり、
すなわち生きる意義だと考えています。

【式の整理】

愛は感情ではないが、感情は愛ゆえに在る

一般に「愛」というと、
対象を特別大切に思う気持ちや
自分を犠牲にしても守りたい気持ち等の
″感情″を指すと思います。
ですが、あらゆる感情のひとつの形態が愛
なのではなく、愛ゆえに存在する感情の
一形態としてそれらがあるのでは
ないでしょうか。

【立式→展開】

愛するとは、「あるね!」認める働きかけ

愛するとは、対象に自ら働きかける
意味が含まれています。
愛が動詞と言われるゆえんは
愛するが能動的なことにあるのでしょう。
どのような働きかけなのかといえば、
対象の存在を認めること全般です。
この場合の認めるとは、在ることを
認めるという意味であり、
いうなれば「あるね!」です。
※なので、一般に使う想いとしての
「愛する」は、対象を認めようとする
″感情の働きかけ″だと考えます。


ということで、愛するは「あるね!」を
認める働きかけだ!ということばを見いだした
わけですが、今回はさらに踏み込んでみます。

【恋愛における″愛する″】


「あるね!」を認める働きかけを
互いに了解することだと考えます。

相手ありきなので、どちらかだけの
「あるね!」では恋愛関係としては
成立しませんよね。
※片想いは一方的な想いですが、
相手の「受け取れない」を認めて
初めて恋愛の一形態となりえます。
それを無視ないし拒否する場合、
相手の意志を了解していないということなので
本来の意味で「愛する」ではない。
いかなる「愛する」ような行為であっても、
カタチだけの空虚なものです。
そこを誤るために、気持ちの押し付け
でしかないストーカーや
受け取ってくれない恨みから復讐行為が
引き起こされるのではないかと思います。
当人は大真面目に誤っているから
余計厄介なんですよね…!



また、愛するとは能動的なものなので
無理に強要することは本当のところ
できません。それが恋愛の
難しいところであり、盛り上がる
ゆえんでもあります。
※両想いとして恋愛関係にあるからとはいえ、
強要できないことは代わりないのですが
認めることが苦手(認知の貧困)だったり
そもそも自分を認めず外からの
「あるね!」に依存していたり
(自己肯定の放棄)すると、
常に見えるカタチでの「愛する」を求めます。
これは、相手の「愛する」表現に
不満をもち、疑っていることを暗に示すので
関係に亀裂を生じさせます。
関係という共有世界において亀裂は
解体にもなりうるのですが、
意味探求が臨まれない(つまり見て見ぬふり)
場合は、関係の破綻を招くと考えます。



ここで個人的に引っ掛かっている
ことがあります(・・;)
ずばり!「複数間恋愛の可否」です。
倫理的あるいは法的にダメと
されるから、その理由を探したい
という意味ではありません。
そもそもダメなのか?ということから
考えたいので、むしろ倫理や法からは
一定距離をとりたいとすら思う。
そうではなく、ほんとうに可能か否かを
検討したいんです。
※つまり、可能なんじゃないの?という
疑問があるということです。
自分でもどう転ぶかわからないので
場合に依っちゃとんでもない展開を
見せるかも…!

怖い!けど楽しい!!
そんな感じでやってます。なので、
正しい間違いと(なにかを楯にして)
裁くためではなく、
ご自身が考えるための材料に
してくださるとうれしーです(^o^)





孤独な上にそのうち死ぬわけで、
虚しさからは逃れられっこないです。
けど、誰かのせかいに一石投じて
受け取ってくれたらさ、ちょっと癒える。
いや相当癒える(/\)\(^o^)/
賛同じゃなくっていい。
「あるね!」って、
あなたに認めてほしい。

考えることとわたし

こんばんは、ぴーやまです。

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消化のスピードって個人差がありますよね。
たぶんわたしは遅い方です。
ずーっと考えてしまい、パッと処理することが
できない。だからこそ、思考の方法を
体系化しようとしたフシがあります。


誰かが見つけた答えで納得できないなら、
自分で見つけるための方法を確立させて
スピードアップを図るしかない。
そう思って出来事や感情等出くわしたら
とことん時間をかけていろんな角度から
考えてきました。考えないために考えるという
なんだかよくわからない状況だけど、
分解して核をみつけて自分で展開するのは
とても楽しかったんです。
考えることに追い詰められたのに、
考えることに救われた。その時、
「結局考えることからは
逃れられないんだなぁ。」と
ぼんやり理解しました。

だからといって考えることに
翻弄されるだけではなく、方向や
対象はある程度選べることも
だんだんわかってきました。
まだまだ使いこなせていませんが、
よくも悪くもわたしのジョーカー
だと思うので大切にしたいところです。



消化するのは相変わらず遅い。
だからたくさんをはやく処理するのは
難しいけど、ゆっくり処理する分
取りこぼしてしまう豊かさを
拾うことができるんじゃない?
そう思える今は、豊かなんだろうな。

見つからないのはやりたいことじゃなく、やりたい!という熱じゃない?

こんばんは、ぴーやまです。
今日は「やりたいこと」について。

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みなさん、やりたいことやってますか?
仕事でも学校でも家庭でもやりたいことを
やるって、難しいですよね。
やりたいことやってても
やりたくないことも知らぬまに
どさっと肩に乗っちゃってる。
でも今日したいのはその話じゃなくて、
″そもそもやりたいことが見つからないぞ″
っていう話。


やりたいことって時間軸的には未来だよね。
やりたい!と思う現在はまだやっていない
わけだから、未来に描いているわけだ。
だからいくらでも自由に描ける気がする
けど、実はそうではなくて
過去の捉え方によって未来の
描かれ方は狭められているんだよね。

これはダメあれはいい、こうあるべき
っていう評価に少なからずふれて
生きてきてるし、自分自身も
たくさんラベルをはられてきてるはず。
評価もラベルも悪いもんじゃないが、
それで身動きとれなくなってる(しかも
気づいてない)故に
やりたいこと探しの罠にかかっちゃうの
が勿体なく思うんです。
囲いのなかでやりたいことを探してるから
見つからないんじゃない?ということ。

だから、まずは囲いをとっぱらいにいこう。
決められたなかでベターな答えを選ぶ試験を
受けてきたわけだけど、実は問いを造る
ことが人生の醍醐味みたいなところがある。
それに、問いが生まれるところには
やりたい!の熱があると思ってて。

熱が見つかると汎用性がある。
なにかになりたいとかやりたい時、
そう思う根拠があるわけで
それを突き詰めていくと熱(エネルギー)
なわけだ。熱が見つかれば、次のやりたいや
なりたいを描けるし方法だって見つけちゃう。
表に直接出るもんじゃないから
あまり注視されないけど、めっちゃ
大事だと思う。



そうです、遠回りです。返すことばもない!
うまい安い早いの時代に逆行するようだけど、
圧倒的に遠回らんとする試みが
等ブログの趣旨なんでね。おつき合い
願いたし!