せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

お前はもう生きている。

あたたたたたたぁっ

ひらがなだと何故か弱そう(^q^)
まいどぴーやまです。




もうさ、気づいたら生きてるってこれ
考えようによっちゃ不条理だよね。
生きてることは素晴らしいとか
恵まれた環境ならいいとか
そういうものじゃなくて、
″選択の問題″なわけです。

人生において選ぶってすごく重要だし、
選択の連続で各々らしい
人生になっていくわけだよね。
時に後悔することもあるけど、
それかて今(というちょい前の過去)
段階で後悔してるというだけで
これからいくらだって書き換えられる。
選択自体は変わらなくても、
受け止め方が変わると脚本の印象も
俄然変わるからね。



それはさておき。
生まれるということに関しては、
今の時代をともにする
いきすってはいて食べて寝てるすべての
生き物は自分で選んでないよね。
※生まれる前に…とかはまた後日
考えるので今回は省略!


なのにさ、義務だの労働だの忍耐だの…
最終的に責任とか言われる。
選んでないのにさ、ビックリなんですけどっ!
(しかも気持ちデメリットっぽい方が
多くない?生きるとかコスパ悪すぎワロタ
ってならん?)とかおのずと心の声も
だだもれる。

まあさ、悪いことばっかじゃないし
生まれたからにはさ、楽しもうぜ!
とか前向きになってみるよね。
てかそれしかない。



割りきれないこと、どうにもならないこと
の前に立ちすくむこともあったろうけどさ。
みんなきっと今日まで生きてきたんだよね。
わたしとスゲーけどあなたもスゲー。
手と手をとって、さぁ生きましょう!
くらいの盛り上がりをみせると思うんだよね、
この調子だと。


でもさ、
ほんとさ、
え!てなるけどさ、
噂に聞くところさ、
虫の知らせ的にさ(なげぇわ!)



致死率100%。
つまり、みんな死ぬらしいDeath。
なんてこった!

ひな壇から一斉にずっこけるとこだよねこれ。
チョイチョイチョイチョイ!!
ってなる。
で、まわりみわたしたらあれ?
みんな座ってる?ん?






そう。みんなさ、だいたい不条理を
飲み込んでる。20代もなかばになって
飲み込めてない人あんまりいないんだなって
最近気づいた。
わたしはまだ大人になれそうにないってことも。



お前はもう生きている。(…お、おう)
お前はもう死んでいく。(ヴー…!)



とりあえず寒いし首守って寝よ。

デジタル生命体?生命って、なんだ!

こんばんは、ぴーやまです。
今すごいテレビやってるよ、
なんたってデジタル生命体!(なんじゃそら)


確かにさ、生物とか生命体とか
いうけどその定義は何かって
考えると、場合によっては
ロボットも生きてるってことになる。(のか!)
ぶっ飛んでる!本気でぶっ飛んでる!
だからこそ楽しいし、こういう斬新な視点に
刺激されるし負けねぇぞって気持ちになる。
全然サイエンスとか弱いんで
同じ土俵で戦いたい的な気持ちではない
んだけど、せかいを拓くという意味で
わたしもうかうかしてられない!



なにがすごいかって、定義すれば
それを実証するデータが集まるということ。
もちろんアンテナがたっているからだし、
ある程度見通しがあるから
定義を試みている訳だけどさ、
どんだけ突飛にみえることでも
「あるね!」の連続なんだなぁと思った。

こじつけとか祈りとかも含まれる
だろうし、そもそも周囲は未知だらけ
だからみんなが納得する根拠はない。
でもさ、生命ってなんだろうという
問いを持ち自分のことばを見つけて
探求していくこと自体が証明になるんだ
と思う。

個人的に人生ってプロセス+感動だと
考えているので、解明は必要なく
″充実した過程のなかで豊かな感動体験″が
できたらサイコー!
って思ってます。だから、
人生楽しんでる度合でも
相当いい線いってる。(誰目線!)


なにが言いたいかっていうと、
すごく触発されたって話。
わたしもアナログ生命体として
足掻いてみるよ、うん。

「わかるのトライアングル」論②

こんばんは、ぴーやまです。

前回、わかる場所(ところ)は
主に3つあり、さらにそれぞれ
3段階の深さを持つとのべました。
一つ目は、あたまの理解で
段階は、認知・知識・活用。
今回は、二つ目の「こころの理解」について!


まず、一段階が認知です。
あたまの理解と同じく、
対象を「あるね!」と認められないで
理解することはできません。
多くは無意識に行われる認知ですが、
これもあたまの理解と同様で
複雑だったり理解することが
難しかったりすると、「ありえない」という
極論に結びつく場合があります。
だから、認めることからなんです。

二段階が感覚です。
対象を「感じられる」ということ。
寒暖や美醜、感情などについて
想像できるということです。
失恋の痛みとか、
みんな同じではないけど「あぁ。」となる
ような感じ。共感も含みますが、
「自分とは違うけど、こういうことかな。」
という風に仮定できることが
核になります。多様な仮定ができるだけの
材料や構成力を持っているか否かが
ポイントなので、あたまの理解の
二段階目・知識と似ていますね。

そして三段階が感動です。
対象を「感じ、動く」ということ。
心が鷲掴みされたり、ショックで
頭が真っ白になったりする。
大きく揺さぶられ、時に圧倒される
ことはせかいにとって豊かな経験です。
また、その感動にかたちをあたえる
行為にも繋がります。心で感じ、
あたまやからだを動かす力になる
という意味で、意味探求(=せかいを拓く
エネルギー)に匹敵するパワーがあると
思います。


今日はこの辺で!おやすみん

「わかるのトライアングル」論


こんばんは、ぴーやまです。
今日は「わかる」について!


そもそも、わかるとは何か。
特に補足がない場合、「理解した」状態
を指すことが多いと思う。
つまり、理解していない状態→理解した状態
へのなんらかのきっかけにより
移行することだといえる。

でも、理解した″ところ(場所)″については
あまり取りざたされない。
そもそも「わかったんなら別に
どこでもいいじゃん。」という
気持ちになりがちだし、
どこで理解したかなんて考える方が
奇怪かもしれない…





…ちょ、自信なくなるわやめぇ(^q^″)
いやでもせかいを開くひとつの方法
としてね、いっておこうと思うよ。うん!



「わかるのトライアングル」論
トライアングルっつーくらいだから
三点あります。早速いくでっ!

一つ目が、あたまの理解。
日常で使う「わかる」の6割位は
コレですね。
なんらかの対象があり、
それに対する法則や使い方関わり方を
理解するという意味合いだと
解釈しています。

その前提として、その対象の存在を
認知している必要があります。
なので、わからないという場合も
対象自体が存在しないという
ことではなく、
(存在している意味関わり方法則が)わからない
ということを意味します。 

「そんなんあたりまえでしょ!」
と思われるかもしれませんが、
対象が複雑・曖昧だったり、
理解する際に苦痛だったりするほど
存在しないという極論に
結び付きやすくなります。
それはつまり、「ありえない」のこと。

口ぐせのように「ありえない」という
人がいますが、それは
ありえ(ているという可能性を想像する
能力に乏しいため認識でき)ない
という意味でしかない。
自分の想像力のなさを対象の
せいにするという隠れ恥ずかし
ワードですね。(なんやそら!)




で、あたまの理解と一口にいっても
段階があると考えています。
トライアングルがせかいの広さなら、
この段階が深さにあたります。
これもざっくり三段階!

一段階が認知。
対象を「あるね!」と認めると言うこと。
わかるの大前提で、わざわざ
意識することもないですが
この段階を飛ばしてわかるのは
不可能。なので、理解が難しくて
ぐるぐる迷い込んだとき
ほどあえて意識すると初心にかえれます。

二段階が知識。
対象を「知っている」ということ。
わかる対象の情報を知っている
ということです。
対象の使い方や概念等も知識ですね。

三段階が活用。
対象を「活かせる」ということ。
対象を他のものと組み合わせたり、
手を加えたり等応用できる状態ですね。



今は情報化が進み、二段階目の
知識は比較的簡単に手に入れられるように
なってきました。けれども、
わかるの段階的に考えると
それだけでは「わかった」とはいえない。
たくさん知識を得るほどわかったつもりに
なりがちですが、「わかる」とは
もっと深みがあるし豊かなものになりえます。
だから知識でお腹いっぱいに
なってまどろんでいるあなたに!!
エネルギーを燃焼させて新しいせかいを
見せてもらいたいんです。
そしたらわたしのせかいも広がるし、
世界にも波及する。(たぶん)

おねむなので、続きはまた今度!

悟りと狂気は紙一重

こんばんは、ぴーやまです。
今日は悟りについて!(ざっくりか!)
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悟りと聞いてどんな状態を思い浮かべますか?
お坊さんが座禅のまま浮いているとか、
お坊さんが燃え盛る業火の中で念仏
唱えてるとか、お坊さんが山の上で
絶食してるとか、お坊さんが





いやもう坊さんはお腹いっぱい(^q^″)
私が安直すぎるだけかもしれませんが、
だいたいはお坊さんとか聖職者とか
ちょっと人間離れした人を
想像するんじゃないかと思います。
でもでぇー
あどでぇー



フツーの人でも悟れます。

なんたってフツー界きってのフツーが
悟るんだから。しかも修行なし、
山籠り必要なし、スマイルないけど0円!
方法教えるヨー!

①せかいの大崩壊

世界じゃなく、せかいなんで
ドラマになりそうな壮絶な
出来事は必要ないです。
でも崩壊は解体という運動によって
引き起こされるので、意味を強く
求めざるをえない経験なり体験なりは
必要でしょうね。
豊かな想像力である程度補えるので、
例えば前髪切りすぎたとかでも
崩壊するかもしれません。
(そんだけ豊かな想像力なら
他の方法思い浮かびそうですけどねっ)

②せかいと世界の不和

せかいが崩壊するとしばらくは
呆然な訳です。その辺に肉片転がっていて、
建て直しとか考えられないし
一歩も動けない気持ちに占拠されます。
でもそれだけでは足りず、世界との
不和も必要です。
つまり、世界は創造期でものも文化も
豊かでみなベクトルが外へ向いている
ような状態。景気がいいとか華やかなイベント
とかでしょうね。もちろん世界全体でなく
て構わないので、例えば友達の誰それが
結婚するだとか昇進するだとか
そんなことで十分。ようは、
「自分だけみんなと違う、
おいていかれている、もう間に合わない、
ダメだ存在しているのが悪なんだ。
ただ消費してるだけの役立たず、
みんなかわいそがってるだけ、
もう誰も本当にわかりあえない、
一人だ孤独だ愛されていない求められない
″生きている意味がない″」
という気持ちですね。(なげぇわ!)
これも想像力と何事も結びつける
逞しいコーディネーション力があれば
補えるのでご安心を!
あと、自意識過剰気味の人は
有利かもしれません(^o^)

そうこうしているうちに得体の知れない
不安感で頭も心もオーラもどんよりしてきます。
目とか死んだ魚に失礼なくらいの
濁り方になってきたら、もうそろそろ!


③無感情状態へ突入

これはどこから発せられる危険信号によるのか
特定はできていませんが(全身なのか?)、
感情がなくなります。
一気になくなるというより、
「あれ、なんかあんまり嬉しくない」
「思ったより悲しくなかった」
みたいな、少し感情が弱い状態から
始まります。

おかしいかなと思いつつ
やり過ごしているうちに、
気づけば世界は無彩色になります。
透明とかグレーとか靄とかそんな
ものにおおわれている感じ。
全身はくまなく薄膜で包まれた
ようで、外界と直接
触れている感覚がなくなります。

それに気づいたときには
「へー」
くらいになってるはず。完全に他人事です。
それからはもう何が起きても他人事に
しか思えず、まるで映画をみているような
日常が始まります。

無気力、無感情。
まわりに気づかれないよう
場面に応じて態度や表情を作れば
ごまかすことは出来るけど、
結局なにも感じていないことは
変わらない。焦りや不安が
募るだけですね。

同時に思考のほとんどを希死念慮が
支配するようになります。
なんせ無気力無感情なので
それ以外に自分事だと感じられる対象は
ないですし、思考もどんよりしてるので
他の選択肢が見えなくなります。

④せかいの大創造

そのうち、せかいの大創造が起きます。
原因として環境の変化とかは
多少関係あるかもしれませんが、
運動なので起こるべくして起きますね。
創造自体はほんとにあっという間に起こり
ますが、それは崩れ去った肉片を自分で積み
立てていく③の期間があるから。
個人差もあるかもですが、二年位
ですかね(なげぇわ!)

まず、感情が徐々に戻ってきます。
すっかり忘れていた感覚なので
感情の区分がうまくできず、
涙ばかり出てきます。
それが嬉しくてまた泣きます(笑)


で、ことばがとめどなく溢れてきます。
③の期間にどれだけ考えても行き詰まって
いたことがパッと組み立てられ、
さらに次のことばが溢れてくる感じ。
メモとるので精一杯です。

⑤悟り

「世界から愛されている!」
と天啓のように脳天にずどーんと
気付きが落ちてきます。
おめでとうございます、悟りましたね!

悟ったあとはというと、
世界は色を取り戻し鮮やかですが
違った意味で外界がまるで夢のよう。
同じ世界にすみながら、
その上空の静かな空間にいるような。
不思議と孤独感はなく、満たされた心持ちで
自分のことなどどうでもよくなります。
もう自分の人生は達した感があり、
他者や大きな課題のために残りの時間を
費やそうと自然思うようになる。
心は穏やかで何事にも乱れず、
風通し程度の緩い風に日常は包まれている。
多幸感がだだもれな感じですね。

で、自分がすべきことがスッと見える。
物事というか歩むべき道とせかいの核心が
見える。そして、それに邁進することが
生きることになる。つまり生きるの意味が
(ステージ?)大きく変わるのです。
これは結構プレッシャーで、今までみたく
自分のことばかり考えて一喜一憂して
いられなくなるわけです。
そうなると、実際悟り状態は邪魔になります。
穏やかで波風たたないのは、
波風たちまくりの世界を歩く中では
むしろ枷になってしまうのです。
なにがあっても「世界に愛されている」
なんて思ってしまったら、意味をもとめる
こともなく解体・創造もほとんど起きなく
なりますから。

⑥日常へ収斂していく

ありがたいことに悟り状態は長く続きません。
(ずっと悟っていたいならやっぱり
山こもった方がいいかもですね!)

とはいえ、①の前に戻るわけではなく
世界はらしい色で見えるようになる。
自分事も細々気になるけど、
比率としては世界に関心が向くし
関わりたいと思う。
そして、ノーマルマインドが穏やかな
春のような感じ。
一喜一憂喜怒哀楽も愛せることが
せかいを広げているので、
感情の機微や繊細な表現等
より難しい理解へと向かいますね。
それがただ楽しい(^o^)
そして、一種の確信を得ます。
「なにが起きても、大丈夫」

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見てみると、無気力無感情の状態と
悟りは結構にているなぁと思います。
心に風が当たらないのと当たった風が
収斂されていくのと、どちらも
無風なわけです。
もちろん、せかいの豊かさ(=認められること)は
百八十度違うのですが
この世界ではどちらもちょっと
生きにくい。

人生って時間的なプロセスだけでは
成り立たず、感情とか感動があってこそ
イキイキいきられるんじゃないかと
思うわけです。
今となっては薄れつつありますが、
やっぱり心に風が当たることは嬉しい。
冷たかろうが温かろうが
有難いんだと気づいたので、
どんなささやかなものでも理解が難しい
ものでもなおざりにしたくない。
それが今生きる原動力です!

さようなら2017

今週のお題「今年中にやっておきたいこと」


残すところあと半月!
掃除やらなにやらあるのですが、
電車でぷらっとしたいな~
思い立ったら一直線なので
もう隙あらばルート練ってます。

片付けは一日で終わらせたいですが、
普段ズボラなツケが… 
なんとか気合いいれて終わらせます!

やりたいことがある、だから明日死んでも悔いはない。

こんばんは、ぴーやまです。
唐突ですが、あなたは明日死ぬとして
悔いはありますか?
わたしはほとんどありません!


え?やりたいことあるんじゃないの?
世界開くんやろ世界っ!!

と、突っ込まれるかもしれません。
いやむしろ自分で突っ込みます。
「鬱か?」「悲劇のヒロイン気取りが」
「悟った気になってんなよこの×▲※%!」
…オウ、お里が知れますね(  ̄- ̄)



私が人生をかけてやりたいのは、
存在へ迫ることです。
かたちを持つ存在者として
世界を立体的に広げていくことで
超立体(超越?)領域の存在そのものへ
迫ろうという試みこそ、私の考える
″存在者として生きる″ことだからです。

それはつまり、私が存在者である限り
かたちを持ったままでしか存在へ
迫ることはできないということなんです。
私の考えでは、かたちがなくなれば
存在そのものになり、意味を求めることも
なくなります。
肉体というかたちがなくなった後
精神や魂なるものが残るのか論に
ついてここで詳しく語りませんが、
最大の解体が死ですからそれらも
解体されるのではと考えています。
目に見えないだけで、結局″かたち″ですから。



それって無になるってことなんじゃ…!
と思われるかもしれませんが、
そうではありません。
個としてのかたちは吸収されるわけですが、
すべての起源ですべての原子で
すべてを含む″存在そのもの″になる
と考えています。

存在者であるうちは存在の一部でしか
ないから、世界を広げることで
存在そのものに迫り潜在的な欠乏感を
慰めているところがあります。
だから、死によってかたちを失い
存在そのものになるのなら、
その方がいいじゃん?と思うのは
おかしいでしょうか。

なんというか、「死にたい」は
「帰りたい」に近い心象という
気がしているんです。
存在から発した存在者が、
存在そのものに迫るために生き
いずれは存在そのものに帰る
というような。


存在そのものに迫るのとそのものになる
のとでは違うということはわかるし、
今はかたちを持つ存在者なので
迫りたい気持ちがある。
でも、かたちがなくなったらその
エネルギーもなく存在者とは異なる理論が
働くのだから、もはやそんな気持ちを抱く
必要もないわけで。

だから、「死にたい」という気持ちは
わりと自然なものなんじゃないの?と思う。
現実に絶望したからとか🌑🌑のために死ス!
とか大それたもんじゃなく、
スマホに最初から入ってるアプリみたいな
もんだとおもってる。
少なくともわたしはアンインストール
出来なかったし、今となってはする
つもりもない。
「死にたい」も認めながら生きていける、
それを今生きることで証明していたい。



結局生きたいんかい!
ということではなく、私の生き方において
今時点ではコレが最善のあり方だと
納得しているし、未来も同様に描いている。
人生はプロセスであり、我々はみんな
不完全で有限な存在者だ。
(だからこそ未来を描き、今を生きれる)

故に未達成は必然だから
その点を悔いるならば、いつ死んだって
悔いるだろう。
(仮にすべて達成した″後″の生があるとして、
想像すると空しくなるのは私だけだろうか…)



私はあくまで今このとき出来ることに
注力していたか否かが後悔に繋がると
考えているので、そういう意味では
全く後悔しない。

やりたいことって、仕事とか趣味とか
ライフステージとかの枠組みじゃ語れない
ものなんじゃないかな。
それはあくまで指標であって、
描く未来の只中に今だって
たっているんだと思う。だから、
どこを切っても(どこで切れても)
向かっているのだ。

未来を描けることたけで豊かなのに
やりたいこともあるなんて…
ありがとうせかい