せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

「ライヴは演者とお客さんで作る」は建前ではない

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「ライヴ」について!

 

生歌を聞けて本人も見れて

CDにはない息遣いや熱まで

伝わってくる「ライヴ」。

二時間くらいの時間だけど、

あの一体感と独特の共鳴は

余韻として残る。時間を経てからも、

曲を聞くと情景がバッと浮かび、

背筋がのびる。

彼らがせかいを拓いていき見える景色が

変わるのを同じ思いで見れるよう、

わたしもわたしの土地で頑張ろう、

そう思える。

 

これは、とても素晴らしい<対話>の

かたちだろう。

わたしの弦は震えたし、みんなの弦も

震えているのもわかり、演者もまた

震えている。そんなとき、この場面に

立ち会えて本当によかったと心から思う。

 

一方で、同じ演者でも何故か

不完全燃焼なライヴになることがある。

それは、やはり私だけでなく

みんなも、演者自身もどこかで気づいて

いる。ふと帰りの電車を心配していて

ハッとする。ごまかすように腕を挙げても

あぁすでに心ここにあらず!

 

 

その差が生まれる理由について、

主に三つの可能性があるように思う。

可能性と対処法について考察

するよ!(シュワッチ!)

 

 

①私自身の心配や不安感

ライヴは少しの心配事や不安感を

払拭するにはむしろうってつけだが、

あんまり深刻になっていると

集中できなくなるものだ。

人生そこまで深刻になることも、

深刻になったからといって解決策が

見いだせることも本来的にあまりない。

そんなときは、大概なにかに

蓋をしている。無意識だからたちが悪いが

開けて見れば大したことないぞ!

ということでそんな場合は

感動体験を重ねて浄化を図るのではなく、

自分と対話しましょう。

 

②感動モンスター、インスタ映えラーの席巻

感動モンスターは、感動したがりや。

演者や作品にはさして興味がなく、

なんか感動しそう!という期待だけで

あらゆる娯楽に身を委ねる人々。

インスタ映えラーはそのまま。

人気の演者のライヴに行ったよ(ぱしゃ)

マイナー応援してる自分(ぱしゃ)

生活のほとんどがパンケーキ感覚な人々。

この手の人たちは、会場が大きくなるほど

増える。そりゃ当たる人も多いから

だろうが、より大きいとかより多いとかが

元来好きなのではないかという

気がする。人の多いところに集まる習性?

彼らを掘り下げるのはまた別の

機会にして、とりあえずこの手の人が

多いほど不完全燃焼なライヴに

なりやすいと感じる。

なんというか、あまり楽しんでないし

集中してないんだけど(そらそうだ)、

お客だからとふんぞりかえっている。

メジャー曲じゃないときの

盛り下がり感!確かにあんまり知らん

のかもだけどさ、完全直立不動とか

腕組みってアータそれどうなん!

演者側になったことがないと、

なかなかわからないものなのか、

はたまた想像力にかけるのか…

 

③演者の怠慢

数曲わりとヒットしたけど、現役で

メジャー感がない人の中に

一定数いる。確かにあのときは熱狂を

起こせたかもしれない。けど、

今この場を感動で揺らせるか?

貫く芯は熱している?

重ねるにつれ、慣れる部分はあるだろうし

来ているのはファンだから自分の

独壇場ではある。

でも、それでも必ず舞台に上がるからには

もってなきゃいけないもんがあると

思う。ライヴはそれをごまかせない

場所だから、感動をおこしつづけられる

演者は例外なく大切にしていると感じる。

で、本当に真面目で熱心な演者ほど

①や②の席巻による不完全燃焼を

自分のせいだと考えてしまいがちに思う。

 

ホントに届いてんのかな、

消費されていくだけなのかな、

たまたま彼らのファッションに

マッチしただけでどうあがいても

流れていくのかな…

そういう表現者の孤独や焦燥は、

次の表現へ向かう震えになるのかも

しれないー

 

 

以上、勝手きままなライヴ論でした\(^o^)/

こんなことを考えられる今は、

そこそこ安定した期間なのだろう。

次の解体や創造までしばらく自由に

興味の向かうところを考えたおそうかな。

 

 

 

愛まであと何里だろう

 

ずっと、愛の周辺をぐるぐる

まわっている

 

存在は愛、存在者は愛をわけもつ

かたちあるもの、かたちの輪郭が

境界線、境界線が蕩ける瞬間に

感じる幸せ、幸せは権利生ききることが

意義、存在意義は各々ふさわしい在り方で

意味というエネルギーを燃やすこと、

ふさわしさはかたちによって異なり

在り方も多様・多面的、エネルギーによって

解体・創造という運動が引き起こされる、

分解・統合をへて世界は咀嚼され

せかいが拓かれていく、引き受けた世界へ

ことばで迫り立体性を獲得し

言葉として世界へ還元していく、

各々の地点から見える世界を重ね

超立体的球体を描こうとする試みが

三次元における四次元の追求、

三次元と四次元の間にある「存在の壁」、

超えることはかたちを失うこと、

かたちの有限性が克服されるすなわち

無限性という次元が加わるということ、

それは境界線もなく不可逆的な時間も

吸収されるということ、

すべてが無限に永遠に在ること、

それが存在であり愛ということ。

 

 

祈るにはまだ早い

 

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「祈り」について!

 

特定の宗教を持たない人は多いし、

わたしも信心深い方ではない。

でも「祈る」という行為は、

誰に教わらずともあるかたちで存在

していたと感じる。

たとえ神社で手を叩かなくとも、

教会で牧師の説教を聴かなくとも。

「祈り」の本質は、神なるものとの

交信だろうと思う。

 

仏閣やパワースポットをめぐる企画ものや

霊感商法なる詐欺事件の横行からも、

神なるものへの関心の高さがうかがわれる。

でもさ、それは本当に「祈り」かな?

ファストファッション、ファストフード、

ファスト祈りってくらい

隙あらば祈ってるようなアレは

単なる願望じゃなかろうか。

 

 

わたしにとって、神なるものは

存在だ。存在そのもの。

そして、わたしが「祈る」のは

生涯を通し存在そのものに迫ること。

具体的には、(自力では操作できない)

迫るための出来事や出会いについて。

それは、楽しいことや嬉しい出会い

とイコールではない。

勿論かたちある存在者としては、

苦しいこと痛ましい出会い等は

正直いってとても怖い。

でも、存在に迫る中でのものならば

その杯を余さず飲み干したいのだ。

 

 

だから、わたしはすべてを差し出す。

それは場合によって差し出すとか、

程度によって少し差し出すとか

ぬるい話ではない。いつでも全部

まるごと差し出すのだ。具体的にいえば

生ききる姿勢であり続けるということ。

それが、わたしの「祈り」にたいする

対価だ。

 

 

自力では操作できないこと、

という意味では願望も同じだろう。

結婚できますように、子宝に

恵まれますように、家内安全であります

ように、健康長寿でありますように…

あげればきりはないが、では対価は?

と問われたとき答えられるだろうか。

お賽銭だろうか?神は対価なんてケチ

臭いこと望まない?

 

前者は拝金主義のリアリズムで

本心では神なんて信じてないし、

後者は自力で操作できることさえも

丸投げして惰眠を貪っているだろう。

願望における対価は、問いに答え続ける

ことだけじゃないかと思う。

なぜ、なぜ、なぜ… 

それらの問いに、自分のことばで答える。

その上で、その先で、願う。

最後の一点で。

 

 

祈りを北極星に、願望をランタンにして

濃紺の世界を拓いていきたい。

誰も到達していない、未開の地へと

続くこの道を行きたい。

 

 

 

 

その弦は震えているか

 

おはようございます、ぴーやまです。

今日は「感動」について!

 

感動は、せかいを拓く上で

非常に重要な要素だと思っている。

感動には起こす側と起こされる側

すくなくとも2以上の存在者が

必要だと考える。

つまり他の存在者(注:人間に限らない)

が不可欠だ。自分が自分の考えや

なしたことに対して起こるのは

震えであって感動ではないと思う。

どちらかといえば、興奮に近い。

 

もちろん、2以上の存在者が接すれば

感動が起こるのかと言えば

必ずしもそうではない。では、

感動を構成している要素は何か?

主に、3つの要素が揃う必要があると

考える。

 

①「存在」という共通項

すべての存在者は、なんらかの

かたちをもつ。それは、「存在」の

一部であり、「存在」の多様で多面的な

要素を各々がわけもっていると

いうことだ。つまり、我々は「存在」の

一部分を示しているだけだということで

ある。肝心の「存在」そのものは

我々存在者の起源であり、原子であり、

すべてを含むわけで、存在者の

門戸外にある。

それは、アダムとイヴを創造した神を

存在させたものやビッグバンを存在

させたものを考えてみるとわかる。

遡れば、存在そのものは存在者の手の

内にはないのだ。

ゆえに、「存在」がなぜ多種多様で

どれ程バリエーションがあり、

そもそも何ゆえ在るのかについては

答えることはできないだろう。

(それっぽい答えを見つけても、それは

一つのかたちである以上すでに存在に吸収

されている。存在そのものに意味をつける

ことは不可能である)

しかし、一見バラバラに見える存在者の

共通項として″在る″ことがあげられる。

在ることは実存に限らない。

ゆえに空想や死者ももちろん在る。

つまり、ないものはないのだから

すべてあるといってよく、その意味で

在ることは存在者の共通項である。

すなわち共鳴の土台である。

 

②演者の「震え」

演者、すなわち感動を起こす側の

「震え」は不可欠だと考える。この

震えとは、自らのせかいにおいて

意味エネルギーを最大限燃やし

解体や創造を体現しているときに

起こるものだと考えている。

(→人間という存在者においては、

震えを意志できると考える)

自己を越えてほとばしる「いのち」

といってもいい。絵画やコンサートで

感動するのは、それがきれいで心地よい

からではない。「いのち」の燃焼を

見るからだ。あくまでその瞬間に

今あるすべてをかけるという熱が

伝播するからだ。

 

③観客の「弦」

もちろん、演者の震えだけでは

感動とは呼べず、他者が震えて

初めて感動と呼べる。

そのためには、観客すなわち

起こされる側の「弦」が必要である。

これは感受性とも言い換えられるが、

この弦が手入れてされほどよい

遊びをもってピンと張られた

状態でなければ、いくら演者の腕が

あっても良い音は鳴らない。

 

 

思うに、①を土台とし②と③が

揃ったとき「感動」が生まれる。

そして感動は、共有され昇華した

確かな震えは、互いにとってせかいを

揺るがす力になりうる。

それは、刹那的な透明な統合であり、

瞬間的に孤独を癒す力がある。

(=自他の境界線が蕩ける至福)そして、

己のなかで発酵熟成し、次の感動を

紡ぐ力(震え、熱、感受性)が醸造

されていく。

 

すべての存在者は起こす側と起こされる側、

どちらの側面も持ち合わせている。

また、ほんとうの「感動」においてのみ

かたちの孤独は瞬間的に癒えるが、

存在そのものでない故の孤独は

なくならない。持ったまま生きていく、

少なくともそう意志できるのは

人間という存在者のおかしみかもしれない。

 

 

 

 

 

 

宇宙人も雪男も三次元

 

こんばんは、ぴーやまです。

今回は三次元領域について!

 

三次元とか四次元とか、

その間にある「存在の壁」とか

考えてきたけれどその内実について

詰めていきたいと思う。

 

わたしが思う三次元は、

かたちある存在者として

認識される存在者のこと。

これは、すべての存在者に共有される

必要はないと考えている。「世界」は

共有できる場所だが「せかい」は

共有できない場所として、どちらも

在る。共有できないものは存在しない

というなら、ほとんどの存在者の

足元がぐらつくに違いない。

だって、そう思うわたし自身のこの

「せかい」もないということだからね。 

そんなの信じられないでしょう?

 

共有の有無に関わらず″在る″と

感じられるものは在るのだ。

(ないなら認識できない)

その意味で、宇宙人も雪男も

三次元なのである。

 

 

じゃあ四次元て?

わたしが考える四次元は、三次元の

存在者が「存在の壁」を越えたとき

はじめて認識される。つまり、

存在者が存在者である限り

越えられないだろう。肉体の死という

最大の解体によって、なしえる可能性は

残されているが。

 

 

たから、宇宙人や雪男、幽霊なんかが

いるせかいをも三次元は包括している。

それらを含めてあらしめるもの、

つまり存在そのものという起源に

迫りたい。

 

せかいが拓く場面に立ち合えたなら

 

せかいが拓かれ、その結果世界の創造に

寄与することは当人にとっても

他の存在者にとっても喜ばしいことだ。

皆共通の目標に一足近づいたのだから。

 

そしてそれは、存在についての問いが

ひとつ解けたということで

存在と存在者の間にある境界線が

蕩けることでもある。

もちろん、多様で多面的な存在そのものを

すべて解けるわけではないから

また新たな問いが沸いてくるわけだが

束の間の至福がそこにある。

たった一人なのにすべてと繋がっていて、

存在の一部だという感覚。

自らが解いてその感覚を得るのは、

もう何度か体験していることだが

いつも新鮮な歓喜がある。

 

私は、すべての存在者に境界線が

蕩けるときの至福を感じてほしい。

そしてそれを胸に、いのちを燃焼しきる

ように各々の道を邁進してほしい。

そして願わくば、その場面に立ち会いたい。

教育仕事家庭ボランティア、国政も

一方通行だと具合が悪い。

互いのせかいが共鳴しあい、時に役割を

越えて蕩ける瞬間を共にするような

関係が理想だと思う。

 

 

 

そのために、まず混沌を認めなければ

ならない。かたちゆえの分裂を

それらの衝突を認めなければならない。

透明な統合への希求を認めなければ

ならない。生身で突っ込み引き裂かれ

踏みにじられ憐れまれる中で生ずる

痛みを痛みのままに、葛藤を葛藤の

ままに認めなければならない。

かたちの有限性を前にぽつねんと

立ち尽くす己を発見しなければならない。

本当の孤独の風にさらされ、

怖れに膝が震えてへたりこみたく

なるのを必死に耐えなければならない。

「お前はどう在るのか」という問いに

「私はこう在るのだ!」と

一人称で叫びかえさねばならない。

すべての己を賭けたことばで

世界を咀嚼し、豊かなせかいの地を耕し

鮮烈な実りをもって還元したいという

祈りを認めなければならない。

熟して薫りが深まるほど、

万人に喜んで受け取られないことを

覚悟しなければならない。

時には弛緩しきった顔で眠る者共に

勢い投げつけることも辞さない、

″怒り″を認めなければならない。

そしてその怒りが本当の統合への

道筋における、最大の協力であることを

胸のうちに刻んでおかねばならない。

誰にも理解されまいという甘い感傷は

噛み砕き、徹底しなければならない。

その時に初めて癒される孤独の

不思議をおかしみつつ、また実りとする…

というような己の翻訳土壌を認め、

投入しなければならない。

つまり、いききらねばならない。

 

 

 

 

こういう自分を面倒くさいなぁ、

しょうがないやつだなぁと感じつつも

おかしみとして認められるのは

幸いなことだと思う。もしそうでな

かったら、蓋をしたり克服しようと

消耗したりしていたかもしれない。

いや、たぶんその前に(その先で?)

人間やめてたろうな。

だから、他人事とは思えない。何が自分と

網目からすべり落ちた彼らとを隔てたのか

はっきりした答えは得られていない。

環境か教育か性向か…わからない。

そういう風に完全に割りきれる類いの

ものではないだろうとも思う。

だから惹かれる。

 

 

眠りっぱなしに甘んずる者よりも

戸惑い悶え発狂する者に

惹かれるのは、″狂喜″をみるから

かもしれない。私がおかしみ、

誰かが蓋をし誰かが克服しようと

努め、ついに認められなかった「アレ」。

私は時に″狂気″として括ってしまい、

時に社会構造や時代を語るための

都合のよい果実として食べたつもりに

なって語ってしまうだろう。

かたちを見ただけで、匂いを嗅いだだけで。

触れてもいないわたしがそれを

語るのは、当事者のみならず

間接的に全存在者を犯すこと

なのではないか?という靄がかった

問いがもたげてくる。

表向きは、わたしが生きていたかも

しれない″狂気″を生きる彼らへの

後ろめたさとして処理するにしても、

″狂喜″をものにした羨望も間違いなく

含んでいることを認めようと思う。

そして、どちらがかたちある存在者

として存在に肉薄することか、

一度ならず考えてしまうわたしは

二重の意味で罪深い。

 

 

 

思考がプラカードのように

たらんとさげられるものなら、

わたしのプラカードには彼らと寸分

変わらぬ狂喜があるだろう。

そして狂気として安らかな人々からの

集中砲火、お望み通り丸焦げに

なるかもしれない。

そしたら、満点の星空をあおぎながら

孤独を抱きわたしの告別を紡げばいい。

 

今まで描いてきたどの終末より

豊かでイキイキしてる。

サイコーだ

 

 

 

 

小説家の目線はシビアだ。
だが決して突き放す目線ではない。
むしろすべての在るものを、
とりわけ人間の心模様を明らかに
しようと努めている。
それは、切実な求愛に見える。
すべてのものを見いだし、そのままに
愛せぬものかと言葉を引きずり出し
紡ぐ様を思うと、それでこそ人間だ
という気がしてくる。

金のため、名誉のため、地位のため
平和のため、幸福のため…
そういうものを越えた懇願がみえる。
どれだけドロドロした感情や
救いようのない状況を描いても
どこか清潔さを感じるのは、
おそらくその懇願のためだろう。

愛するため目覚めさせるため、
徹底して人間を、エゴをあぶり出す。
そうすることで自覚なく手頃なやりがいや
幸せの城を築こうとする人間の
頬をピシャリとはたく。
なのに肝心の人間はとんだ勘違いをする。

「こんな恐ろしい人間がいるのか」
「こんなでもまだ幸せでよかった」


逆だ!無自覚な張りぼてを蹴散らしたくなる。