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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

臆病もの

 

 

重く湿った不安感に襲われる。

息が苦しい。小刻みに背中が震えている。

 

生きなきゃいけない、苦しくても。

生きなきゃいけない、意味はなくとも。

 

生きている罪悪感は、消費に生産が

追いついていないからでもあるし

嫌々受け取ってるからでもある。

 

 

 

気遣い、コーヒー、大丈夫だから

 

優しさがもう、手いっぱいだ。

不機嫌な癖にビクビクしながら生きる

わたしなぞが、もらっていいはずがない。

返せるあてもない。

眉をへの字に寄せて、あとはどんな顔

したらいいだろう。

 

 

 

頭がまた、もやがかってきている。

またきたか。次は半年だろうか。

長くて寂しい冬。亀みたいにじっと

背負って待つしかない冬。

どうやって話していたのか、

笑っていたのか、日常をこなしていたのか

わからなくなってしまった。

数を数えることすら、あやしい。

言葉なんてうまくでてこない。

顔がひきつるのが自分でわかる。

いつの間にか一時間経っている。

そういう自分を、膜一枚隔てて

見ている。

 

 

怖い。どんな慰めも気晴らしも

払拭してはくれない。

怖い。

 

臆病ものだ

 

 

 

 

 

その感覚がわからなくて発狂しそう

 

 

結婚、出産、健康長寿

おめでとう、お大事に

 

わからない。

穏やかな会話であるほど、

発狂しそうになる。

かたちから解放されたいのに

なぜかたちを保持しようとするのだろう。

かたちが続けば、少しずつ永遠に近寄る?

続いていくこと自体が仮想の永遠?

かたちであることは即ち有限なのに、

何故繰り返すことや引き伸ばすことを

望むのだろう。人間お得意の

読み違えじゃなかったん?

 

当人が望む、という意味で

心を寄せていますよ、と伝えるために

おめでとうやお大事にと言うのはわかる。

でも、自分事に置き換えると

もうわからない。

まとめると、死にたくないという

気持ちを頭ではわかるけど、

心や肚で理解できない。

経済的に恵まれれば、容姿が良ければ

社会制度が整えば…

と、なにかを本気で怒ったり渇望したり

する感覚もわからない。

別に死んでしまえと思うわけじゃなく、

当人が生きたいと思ってて生きる方向に

進むなら喜ばしいよ。

でもさ、そもそもその生に対する

意識や感情のベクトルが真逆だから

「よかったね」が宙ぶらりん。

厭世的でも冷酷無比でもない。

恵まれている、消費してばかりでも

生きていけるのは当たり前なはずはない。

そうだね、有難いことだと思う。

そんでそのまま包み開かずに

中元返ししたい。

 

 

死ぬくらいならやめればいい、

死ぬくらいなら逃げろ、

どうせ死ぬならやりたいことを、

死ぬ気になればなんでもできる

 

わーーー

やめられるもんでも逃げられるもんでも

ごまかせるもんでもちょっとした

気の迷いでもないんじゃい。

 

 

 

幼い頃、生を讃えることって

一種の社交マナーだと思っていた。

人を見た目で判断しないとか

ありがとうやごめんなさいを

言葉で伝えるとか、そういう類いの。

自然にやるのは難しいからこそ、

意識してやること。

みんなそう思ってることを

疑ってなかったんだけど、

物心つくあたりから

「あれ?本心から生きることを肯定

してる人、もしかして結構いるんかな。

というか、みんな真剣に生きようと

してる?」とにわかに疑い始め、

成長するほど確信に変わった。

マジか…と思った。

だから大半の人の″死にたい″は、

″生きたい″である、というのは真なの

だろう。やっと納得した( ̄▽ ̄;)

 

生きようと芯から思うために

努力するもんだと考えてきたけど、

努力して得られるようなもん

じゃないんだなぁ。

なにかが満たされれば生きたいと

思うはず、という生に対する肯定感は

金でも時間でも買えない。

それだけに眩しいし、彼らがいなければ

とっくに息を吸えなくなってただろう。

とはいえ、できる限りかかわり

あいたくない。(笑)

お互い徒労感に苛まれるだけだもん。

適度な距離感を保つのがいいのでしょう。

 

 

 

 

子供について思うこと

 

 

 

年齢的にはちょうど適齢期だ。

けれども、子供を育てている自分や

家庭を築く未来を疑いなく描くことが

出来ない。ふわふわした感じには

描けるけど、その未来を疑いなく

信じている人とは比べ物にならないなぁ

と感じる。

 

産む産まないに関して論点はたくさん

あるけど、私が一番考えたいのは

『子供が私と同じように死を望んだら、

生きることを強いられるか』ということ。

なにかが克服・達成されれば、

恋をし仕事を謳歌し笑って

暮らせたら生きることを楽しめる

という子供なら

そうあれるようにサポートする。

でも、それらもいらんのやって

泣きそうに笑うのなら、それでも

って言えるかな。

生きててほしいと思っても、

当人の痛みもわかる。

生きたいふりをして、

誰かの死に心を寄せ

不慮の死に嘆き悲しみ

深刻な病気の告白に神妙な顔をする…

そうやって生活に馴染もうと

必死になっている姿を

私は見ていられるだろうか、と思う。

産んでもないのに考えすぎだろ、

と自分でも思うけどさ(/\)

 

 

喜んで受け取らなければならない

ものばかりで息がつまりそうになる。

ありがたいでしょ?と期待する視線に

いたるところでつらぬかれる。

ありがたいです、そりゃありがたい。

ありがたくないものなど逆になに?

ってくらいありがたいことばかり

ですよ。

もうお腹一杯ですよ。

しがない小娘ですがもし欲しい部分が

あるなら全部あげますから。

条件は全部受けとることだけ、

ありがたいでしょ?

 

 

…変なモードにはいってもうた(笑)

存在を求める存在者としての意志(無意識)と

現実を生きる一人間としての意志(意識)が

ゆるやかに繋がっていて、つまり

この世に望まれ祝福されて生まれてきた

ことを伝えていくほかないのかな。

子供を産み育てるということは、

愛について考え直すことの連続

なのかもしれないね。

 

「なんで産んだの?」って聞かれたら、

『永遠を求める大いなる意志が働き、

私がほしいと思ったのよ。』

でおっけーだな。(ほんまかいな)

 

 

 

 

 

 

波間からこんばんは

 

 

起きてしまったついでに

働いてもしまった1日。

ごろごろしながら思うこと。

 

 

解体期はたいてい暗いもんだ。

定点観測のために考えたことを

書き残してきたけど、繰ってみても

まぁ暗い。でもミサワにこんなんいたな、

ってじわじわわろえる。逆に創造期は

なんかこうわちゃわちゃした

中2感がだだもれ。

いずれにしても三十路のピーターパン

みたいな切なさが耐え難い。

 

なんやもうめんどくさい~といいながら、

仕方なしにガストのドリンクバーで

延々話につきあうもう一人の自分。

セリヌンティウスほどには信じて

くれなさそうな距離感がちょうどいい。

 

いまだに波の乗りこなし方は

つかめないし、穏やかなさざ波いいな

って思うこともある。

でもなんでかは知らないけど、

波大きめ、しかもはげしめ。

波よ静まれ!的な能力を諦めたは

いいものの、うまく乗ろうとするのも

疲れてきた。態勢立て直すだけでも

そこそこ消耗するもんだし。

と、いうことで波を見送るパターンも

ありかなと。どうせ乗るならビック

ウェーヴっしょ、なんてちょづい

てるかしらん。

 

 

蝉の声が聞こえないんだけど

やっぱりそういうことなのかしら…

と思ったら、遠くでうっすら

ジーとかビュゥウとか言ってた。

なんかほわんとした。

 

 

 

 

答えられなかった問い

 

『なぜ死にたい人を殺しては

ならないのか』 

 

大学の時、哲学の試験で出た問題。

習った内容とか教授の性格とか

自分の経験とか三面記事とか

頭んなかで切り貼りして書くには

書いた。

でも、納得いく答えは書けなかったし

いまだにこれだと思う解答は得られて

いない。

 

この問いの核は、

『死にたいと思う人がなぜ

死んではならないのか』

という点にあるだろう。

命が私だけのものではないから、

という解答は優等生だけど

突き放した冷たさを感じる。

宗教的、経済的知見はいうまでもなく

隔たっている。

切実に、私事として考えようとすると

底がスコンと抜けるような

無重力感。

 

 

大きな病気もなく、老いにも遠く

生活における不足や不快も特になく、

周りの人にも認められ、社会とも

つながりを感じられ

休暇もありぐっすり眠れる。

週末には出掛けの予定もあり、

その気になれば旅行にも行ける。

朝は満員電車に乗ることもなく、

夜は蝉の鳴き声が微かにきこえる。

 

疑うまでもなく満たされている。

欲しいものも取り除きたいことも

多少はあるが持ちえるレベルだ。

それでも、それなのに。

 

 

前を向く、という意味がとっくに

わからない。甘えやゆとりの審議は

何回しただろう。

今は罪の意識もなく、ただ問いたい。

生きることに納得している人間が

死を望むのはなぜなのか。

 

″有限な私が永遠を求むこと、ほとんど

それは死を望むことなのだ″

そういうかたちで、死にたいも含めて

認めてきた。

カメのようにじっと背負って。

 

ふと、なんでこんなことしてるんだろう?

と冷静になってしまう。

いくら理由を探しても、

それらしい着地点を与えても、

結局「純粋な死にたさ」はないものとされ、

死にたい気持ちは誤魔化しながら

生きていくものであるとされる。

 

確かに、死を望む気持ちが

肯定されれば色々厄介ではある。

みんな、幸せに生きたいという

名目のもと頑張ってきたのに。

そこから外れるやつは外道なのだろう。

欲のために罪を犯す、

愛のために心中する…

そこには生き物の獣臭さがあり、

蔑まれながらも共鳴する部分がある。

そこへして、一見穏やかな人間の

自分の死にたさは余程おどろおどろしい

ものがある。犯罪はおかさないゆえに、

一層狂気的だ。

 

わからんなぁ。

とりあえず、起きないことを

緩やかに願って

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解体中につき

 

どうやら解体期に突入したらしい。

生活の一挙一動、ぽやんとしてしまう。

鏡に写る顔は自分に似せた粘土のよう。

今回はがらがらと崩れるというより、

内に沈みこみ、外壁がぽろぽろ

剥がれ落ちる感じだ。

 

いずれにしても、自分が邪魔に感じる。

それは、誰かに邪魔に思われる、

という疑念でなく、私が私自身を

煩わしく思うという意味で。

 

 

世界ごとつつまれるような一体感や

泣きたくなるいとおしさを、

夢であったのでは?と疑うほど

淋しく黒々湿ってくる。

どちらももて余すこと毎度知りながら

操作できるわけでもない。

ただ拳を握りしめ、立っているだけ。

 

世界を引き受けよう、

その野心とも傲慢ともつかない

意志が引き裂きを強要するならば

生活者としての幸せは

ほとんど諦めなくてはならないのだろう。

そこまでしても、行く先にあるのは

周りの人を嘆かせ、自らを

荒野に立ち尽くさせる

救われない終わりであるように思う。

 

たった一瞬で構わない、たとえ影でも!

永遠にとりつかれればこそ、

かたちでしかいられない私が

一層虚しい。

誰かと見つめあい、溶けていくように

かたちを忘れられる時が

来るだろうと根拠なく信じていた。

そう気づいたのは、永遠を求める代償

として失ったからなんだろうな。

勝算もなく魂を売った代償は、

こればかりではないだろう。

 

 

 

最近思うのが、ポジティブは

本能的な自己防衛ではないか?ということ。

深淵を覗きそうになったとき、

一瞬『きょとん』として各々の

理解可能な範疇へ押し込む。

この『きょとん』がポジティブの本質

なんじゃないかな。

無意識に蓋をする、という意味では

社会性に似ている。というか、

社会性の部分をなしているのかも。

 

もうひとつ思うのが、

自覚されない残虐性の残酷さ。

相手を思って、愛しているから、

平和のために…

愛の発露として行われるあらゆる

営みのなかに、笑顔のまま

『きょとん』とする人間の残虐性と

哀しみが露出することがある。

誰しも下手くそだ。しかし、

愛に気づく・受けとる・渡す、という

コミュニケーションのすれ違いと

哀しみは、かたちゆえの下手くそさに

由来するばかりではない。

下手くそを自覚できない、

その哀しみに自覚する者どもが

いかに斬り込んだとしても

空を切るような不戦敗に終わるからだ。

 

 

現代にはびこるモンスターは、

感動を貪る。消化されることなく、

まるまま飲み込む様には

消費よりと浪費という言葉が似合う。

モヤモヤとした輪郭が見えてきたが、

攻めるべきポイントは未だわからない。

 

今回の解体期で、掴んでやる…

自堕落にボサボサ頭で寝転びながら思う。

全くもって余計なお世話だな。

 

 

 

詩/ふれるとき

 

ふれるとき

言葉はない 言葉はいらない

近く、溶けるままにあずける

 

かたちはないと思いたい温かさ

 

だんだんに眠くなってきて

流れ込んでくる未分化を束にする

積み重ねて 積み重なって

地層になるまで