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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

「かわいそう」の気持ち悪さはどこからくるのか?

こんばんは、ぴーやまです。
今回は「かわいそう」の気持ち悪さについて!
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むかしから、言われることも聞くことも
嫌でした。
かわいそうと言われる位なら、
惨めだとけなされた方がマシだと
思ってました。
見下すような悪意ある「かわいそ~」が
嫌なのはわかるのですが、対象の不遇な
状況に心を寄せて発せられる「かわいそうに」 
であっても、やはり気持ち悪い。

なぜそんな気持ちになるのだろう?
ともやもやしていた訳ですが、
ようやく納得できそうな核が
みえてきました。おそらく、
次のような隠されたメッセージを一緒に
受けとるためではないかと考えます。

メッセージ① 不遇な状況は変わらない

「かわいそうに」の背景には、
″この状況は不遇な状況として
これからも保持される″という
予測があるのではないか。

メッセージ② 当人にはどうすることもできない

当人に非はなく、巻き込まれた等の
不遇な状況に対して「かわいそう」
と表現される。つまり、″受動的な
態度しかとりようがない″という前提が
あるのではないか。


確かにAという状況が生じる前には
戻れない(今のところは)。
そしてそのAが一般に悲惨な出来事であり、
加えて当人に非はないという不遇な状況は
あり得る。
けれども、それはAが不変であるという
ことを意味しないのではないか。

「かたちに意味はない、かたちが意味を求める」
と考えているので、当人はかたちの意味を求める
自由があるはずだ!という思いがある。
だから、Aという出来事に出くわし
それが不遇なものであったからといって
当人は「かわいそう」であるとはいえない。
当人がその出来事というある種のかたち
について、受け取り方は選べる。
それは辛くなくなるとか悲しくなくなる
ということではなく、仮にそうであっても
意味を″見いだせる″ということ。

でも、「かわいそう」とくくられた時から
その自由は取り上げられてしまう。
意味を与えるという能動的な働きは
選択肢から無意識のうちに除かれ、
残るのはただ同情を寄せられるしかない
わたしとAという出来事だけ。
それほど救いようのないことって
ある?


「じゃあどうすればええねん!」

対象の状況にたいし、心を寄せること自体は
なんら問題はないと思うのですが
その発現には気を配った方がよろしかろうと
思う。
※もちろん、発現をうけて意味を求める
自由は相手側にあるわけだけど、
せかいが揺らいでいる時ほど
意味付けは難しい。だから、本当に
心を寄せればこそなるべく発現に気を配り、
意味付けの負荷を減らしてあげたいよね。

相手が意味を見出だせるようにサポートする

相手の性格や状態によってふさわしい
アプローチは違ってくると思うけど、
基本姿勢としては
「Aは″在る″(在った)。」
「あなたは″在る″」を認め、
「Aを受け取ったあなたは″在る″」
を認められるようにサポートするということ。

すごく根気がいる。答えを急ぎたくなるし、
手っ取り早く「かわいそう」なことにして
処理したいと思う。意味付けをするということは、
Aという事象と向き合うことだから。
みている方も落ち着かなくなるよね、
辛い苦しい悲しいはとくに。



割りきれないことを割りきろうとするのは、
割りきらないということだ。
カテゴリー化して処理してしまわない
ということ。

「かわいそう」カテゴリーに振り分けて、
どうすることもできないものとして処理したい
でも意味を知りたい…
そういう葛藤のなかにいる当人を
想うのなら、本当に想うのなら
「かわいそう」に振り分けるんじゃなく、
意味を見いだせるって信じてほしい。