せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

結婚を考える

 

絶賛婚カツ中!

ということで、結婚について考える

日々な訳ですが、漠然としていた「結婚」

というかたちの輪郭が見えてきた気がする。

 

まず、結婚する相手について。

一つは、結婚したい人と結婚するという

こと。一見すると当たり前だけど、

恋愛結婚が主流の現代において

軽視されている気がする。

好きになって、付き合って、しばらく

ラブラブして、時期が来たら結婚する。

そういう王道ルートはあるけれど、

この時期とやらがなかなか合わないばかりに

同じことを繰り返してしまうのではないか?

もちろん、同じ時期に結婚を意識して

進めればいいのかもしれないが、描く未来や

望む方向性を各々が抱いているのだから

結婚に駒を進めることが互いにとって

最善とは限らない。

そのときに、過ごした時間や共有した思い出

にすがり、一方が無理を強いるなら

それは後に禍根を残すのではないだろうか。

結婚に対し、自分でその責任を負うことを

選ぶ覚悟がないままなおざりに

進んでしまうと、いざ障害に出くわした時

自分事として積極的な態度をとれない

ように思う。

 

なぜこんな目に、

あのとき結婚せず○○を選べば、

何で私ばかり我慢してるの…

 

そう考えてしまうのであれば、

生活のために嫌々ともにいるか

離婚するかしかないだろう。

もちろん、結婚後に覚悟が芽生える

場合もあるだろうが、

はなから期待すべきではない。

そもそも覚悟が芽生えるような人、

つまり自分と向き合う人間であれば

流されて結婚はしないだろうからね。

かなり長い闘いになるし、それで

人生を終えているような人もたくさんいる。

しかもだいたいは諦めと寛容をはき違え、

妥協と打算で現状維持しているだけ。

一番近くにいるはずなのに、根っこでは

いつも疑って嘲って憎んで恨んで。

そのくせ生活の不安や寂しさ、世間の目を

気にして手を離せない。

ああ、考えるだけで空しくなるなぁ。

 

私は、根っこでこそ味方でいたいし

いてほしいよ。だからこそ、覚悟が必要。

共にあるということを前提に、

試行錯誤しながら生きることを

認めていける人がいい。

幸せにしてほしいなんて思わない。

私は一人でも幸せでいられるし、

そういう者同士じゃなきゃ前向きな

関係なんて作っていけない。

だから私は、二人でいることで

世界の横幅を広げられる人とともに

生きたい。掘りさげるのは自分と向きあう

ことであるから、引導を渡したりは

しない。ただどちらも、認められることを

増やすこと。つまり、私が思う豊かさを

追求することなのだ。

一人で充足していられる今だから、

そう思える。

そしてそういう人を探せばいいのだと思う。

 

これまでに物語がある人に固執してたのは、

たぶんその延長で描けると思っていたから。

でも本当はそんなに簡単なものではなくて、

人を動かすとかいって操作することなんて

できなくて。

これから一緒に物語を描いていける人を

見つけなければいけないのだ。

 

 

そしてもうひとつ、子供について。

最近教育にかなり興味が沸いてきている。

可愛いからとか世間体とかで

産みたいという気持ちはなかったから、

ずっと悩んできたけれど、新たな人格

つまりせかいそのものと向き合い

考え学びトライしながら拓いていく

ということなら、ワクワクして仕方ない。

教養はあまりないので(笑)、旦那さんや

しかるべきところの力を借りるとしても

生きることなら教えられる。いや、

一緒に考えて寄り添ってあげられる。

存在そのものを認めるというミッションも

全力でやりたい。たぶんそれは、

うまく受け取れなかったために

自分で模造をこしらえるしかなかった

私自身を癒すことにもなるのだろうな。

 

そして、味方でいたい・いてほしい

人物像について掘り下げてもいるところ。

普段は意識しないだろうけど、いざという

時や大きな選択の場面で、相手の抱える

問題を二人事として受け止められる

関係を築いていかなくてはならない。

つまり、信頼しあえる人であることは

大前提だ。人として卑しいことをしない、

させない。問題から目を背けない。

自分自身と向き合える。与えられた生を

享受し、生きることを選び直している。

そういう自分でいたいと思い、

そうあれるように努めている。

別にカッコいいことなんてしようと

しなくていい。カッコ悪さを避ける、

そういう意識で自分を鼓舞していられる

のなら、それが一番カッコいいもの。

表面上のかっこよさなんて、足元にも

及ばない。

生きることと向き合うのは

自分の弱さ醜さを認めることは

恥ずかしくて悔しくていくつになっても

難しい。でもそういう自分も

あるねって、認めていこうという姿勢は

なににもまして美しいのだ。

私自身そうありたいし、そういう人を

いい男だと評価したい。

考えてみれば、表面上の条件なんかより

よっぽど理想高いな(笑)

とりあえず、そういう人と出会ったときに

いいなと評価してもらえるよう

まっすぐに生きていたいと思います。

 

 

 

ちなみに、かたちからの解放への希求は

いつも心にあります。

でも今現在かたちであってたぶんしばらく

かたちであるから、どうせなら

出しきりたいとは思う。

かたちじゃない方が明らかに幸せだという

思いは今も変わらない。

だからかたちじゃない方がいいと思っていたけれど、それは幸せが一義だと思っているからじゃないのか?と考えるようになった。

幸せは権利、生ききることが意義。

(そして生ききっていればそれは幸せ)

そう考えれば、なるほどわざわざかたちで

いるワケがありそうな気がする。

 

存在そのものから、在ることをわけもち

かたちを得てここにいる私たち。

押し出されたセルは俯瞰して存在そのもの

を求める。永遠のそれを有限のこれが

求めること自体、ちゃんちゃらおかしい

のかもしれない。でも恐らく、彼岸と

ここも一種の波として相関している。

この大きな運動がたどり着く先は

一体なんだろう。3次元の私には

きっと輪郭さえ見えなかろう。

それでも私は一つ一つのかたちを認め

生きている今を認め、死んでいく未来を

認めていく。それしかこの虚しさと

対抗する方法はないような気がして。

 

なんだか壮大な話に(笑)

まずは覚悟がある人と直接たくさんはなそう。話はそれからですね