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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

罪悪感をすり減らさず かたちに挑む

 

 

全部自分以外のものに捧げてしまいたい

という欲求に駆られることがある。

清貧で自己犠牲をともなう生き方は、

一般に推奨される良い生き方の一例で

あろう。

かたちのあり方、生ききる

状態がわからない(確定の仕様がない)

から、この現象界に媚びることで

認められ且つ自分の罪悪感もすり減らせる

ところへ自分自身を投げ込もうとしている。

わからない不安定な状態から、

社会の要請を受けとる形である種の金型に

自分を溶かして流し込もうとしている。

どこまで傲慢で卑怯な人格なのだろう。

なにかに捧げることが目的になっては

いけない。あくまで私がかたちを

出しきる、つまり生ききる過程において

付随する現象でなくてはならない。

罪悪感はじぶんで持っていなくては。

すり減らすものじゃない。

 

 

 

不安なのは、生活の為じゃない。

最終的に死ぬからでもない。

根本的になにもわからずに生き、

死ぬからだ。この営みが一体なんなのか

わからないことを、認めることが

できないからだ。絶対にわからないと

頭ではわかったつもりでも、心が

期待するからだ。

認めてしまったら、かたちの輪郭が

すべてぐらぐら揺れ始めてしまう。

確かなことなど何もないとなれば、

死だけが落ち着ける足場となる。

 

かたちがかたちを超えるなぞ、

幻想か妄想だ。それをわかっていて、

ほんとうに直感的にわかった上で、

それでも求めるのは祈りか。

自分のものにしたいんじゃない、

誰一人救う答えじゃなくてもいい。

 

 

かたちじゃないと、輪郭を捉えられない

から、不完全であってもあえてかたちを求めたのだとすれば。

知るためにわざわざかたちだとすれば、

かたちの内に答えがなきゃいけないのでは?

でもわかるのは、かたちはかたちを

超えて無形な存在そのものを

かたちの源を考えることが出来ない。

形なしに、捉えることができない。

あらゆるかたちの見え方つまりせかいを

重ね合わせていけば、あるひとつの答えが

浮かび上がってくるのか。祈りの結晶体。

でもそれも結局かたちじゃないのか。

虚無の徒労感。

 

 

かたちのあるここと、かたちのないそこ。

その間に、重力のようになにかがあって

振り子のように或いは磁石のように

反発しあいながら均衡を保っている可能性も

捨てきれない。

なんて、やっぱり、心は期待している。