せかい地図更新中。

模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

次なる「絶望」を待て

 

 こんばんは、ぴーやまです。

今日は「絶望」について!

 

絶望って、仮想の死なんじゃないかと

ふと思った。本当に堕ちる時、

まさしくいきた心地がしない。

と同時に、生きているからこそ

身を割くような虚無に襲われることも

わかっている。

なんというか、いのちの金縛り?状態。

身動きできないまま、少しずつ

透明な力によって圧迫されていく。

 

 

そして、いつか束の間に光をみる。

それは創造という運動が

見せる幻想にすぎないかもしれないが、

我々はその一筋の光を原動力に

せかいを拓いてきたのではないか。

あの光を恒久のものに、万物融合

の紀章として掴みとろうとしてきたはずだ。

その歩みを歴史と呼ぶのだと思う。

 

私はそれら一つ一つの過程に、死と再生を

みる。光を求めて解体され、うちひしがれ

怒り狼狽え諦め受け取り祈る…

それはまるで死期を宣告された人のようだ。

解体と創造という運動は、

万物例外なく適用される存在者の

有り様なのだろう。

 

解体と創造を運動ととらえると、

「絶望」は次なる創造の前段階といえる。

そして、創造の歓喜のすぐ後ろには

次なる解体、絶望がひかえている。

死と再生、その運動の本来性を考えると

半端に死んではならないし

半端に再生してはならない気がしてくる。

 

 

おそらく、私の怒りの大元はそこだ。

半端に絶望し半端に喜んでみせる

ような生ぬるさがはびこり、それを

共有することが時に処世術として

幅を効かせていること。

それに対し、ニタニタ笑ったり

疑問も抱かず迎合したりする風潮。

そしてそんな世界の怠惰を

温情や哀れみだと(極めて操作的に)

受け取り、絶望から目を背け、手放しで

浸かりきろうとするこの私!!

 

 

 

 

わりと柔和な印象を与えるようで、

「怒ったことある?」とよく聞かれる。

そのたびに、あまりないと答えてきたし

実際ものや人に怒ったことはほぼない。

けれど、ぐつぐつグラグラと

煮えたぎっているコイツの正体は

紛れもなく「怒り」じゃないか?

今に始まったことじゃないが、自覚は

なかった。わりに優しい目で

世界を見てるぞ、みたいな驕りさえ

あったのだが…

また底知れない穴を掘りはじめている

ような気がする。

 

 

 

永遠性と時間

 

「時間を忘れることが

なぜ幸福感と結び付くのか?」

 

これは私が解きたい問いのひとつだ。

そこに、「永遠性」というキーワードを

かけてみると片鱗が見えてくるように思う。

 

永遠性とは、存在をわけもつかたち

あるもの、すなわち我々存在者が

存在そのものへ至る間にある

「次元の壁」だと考える。

存在者と存在を隔てるものだ。

永遠性を紐解いてみるに、

・無限(限りがない)

・不変(変化がない)

・永続(終わりがない)

の要素が絡み合って成り立つ概念の

ように思う。

そしてそれは、存在者として

かたちを持つ我々が住む三次元には

存在し得ない。ひとつも。

このわたしも散り散りになり、

そう遠くない将来、死んでいくのだ。

 

 

存在者はより高次元へ向かおうとする。

それは存在者のもつかたちに組み込まれた

有り様に思う。

では、我々存在者の高次元へ向かう

有り様として、永遠性へ挑むとは

いかなることか。

無限不変永続を全身全霊目指すことか、

はたまた有限可変断片に徹底することか。

 

考えるほど視界が霞み思考が揺らぐ。

そんなとき思うのが、夢中の至福だ。

夢中とはすなわち時間を忘れて没頭する

こと。いつの間にか夜になっていたとか、

春になってたとかそういう圧倒的な

自らの投入に依る。その時の何にも

変えがたい幸福感は、⚫⚫ハイと

呼ばれることもある。

脳内のなんチャラ物質がとか

幸福感の前払いとか分析され、

善悪論のまな板に乗せられては

裁かれ調理されてゆく。

 

その激流の中に操を立てて、考える。

時間が″ない″ことが幸せ?

時計をはずすとなるほど腕は軽くなった。

が、朝は日が昇りやがて暮れる。

あらゆる存在者は時間のなかに

生きている。光の届かぬ地下空間に

幽閉される位しか時間から

脱する術はないのか…

(それですら、時間の観念は私たちから

消えはしないだろう。)

 

 

日本において延命治療は発展し、

我々は容易に死ななくなった。

それは我々が永遠性を目指す試みの

ひとつのかたちだろう。だが、

死ぬことつまり生の終末を先伸ばしに

することはできてもいずれは死ぬ。

不老不死の薬はまだないし、

今後もない。私たちがかたちである限り。

また、生命の永遠性を追求することは、

決定的なことを見過ごしている。

単純に生きる時間が長くなるのなら

その分幸せが遠ざかりはしないか?

時間はなくすことはできないが

忘れた方がいいものではなかったか。

じゃあさっさと死んだ方がいいよね、

ええいままよっと死んでしまう?

それでは、存在者が存在をわけもち

ながらかたちをもって在ることが

解けぬままではないか。いや解けない

にしろ、かたちをもったからには

挑みたい。そう思う。

 

かたちの境界線が溶けていく過程は

甘美だ。時間というかたちが

溶けていく夢中という疾走で

生涯を駆け抜け、気づいたら死んでいた。

という人生であったならサイコーだな、

と思う。なんだ、やっぱり生ききること

じゃねぇか。

 

「次元の壁」の前で手酌であおる

酒は塩辛い。それを大きく笑って

飲み干すような、大人でありたい。

 

 

 

 

震災とは何であったか?

 

 

こんにちは、ぴーやまです。

私は地震、中でも東日本大震災には

並々ならぬ思いがある。

それは現に被災したからであり、

あの震災から大きな問いを受け取って

未だ答えられていないためだ。

 

地震のあと、様々な動きがあり

私もその輪に加わってきた。

防災や減災、復旧復興を考えて

かたちにし拡げていくこと、

その中心で発信していくことは

災害としての地震と向き合う意味で

やりがいがあった。

けれど前に進んでいるはずなのに、

澱のように沈んでいくものも

同時に感じていた。

 

 

 

「私はこの震災から何を学ぶべきか」

 

 

活動というかたちを重ねることで、

意味そのものから逃げてはいないか?

いかに存在するかに注力することで、

存在そのものの不思議から遠ざかっては

いないか?

地震が揺るがしたのは、存在という

根っこだったのではないかと思った。

そこから意味である意味を問うために

文学宗教科学哲学芸術と大海に

潜り込んできたものの、

未だ答えられていない。

 

 

ただ、人生を賭けてもいいと

思えるひとつのアンサーを見つけた。

解明はできないが、生きるなかで

証明していくことならできる。

答え続けていくことでのみ、

答えられるというわけか。

風化など無縁な気がする。

 

今日が最後だと思って生きない。

なるほどそうだよな。これからを、

明日を思って生きるのだ。

 

 

言葉の源泉「ことば」

 

おはようございます、ぴーやまです。

やっぱりこだわってしまう

言葉について!

 

煮えたぎった結果、改めて言葉へ

思いを巡らせているわけですが

言葉を仕事にしている人は

そう多くない。アナウンサー、

小説家、詩人あたりは言葉と

密な関係にありそうだ。

とはいえ、純粋に言葉を目的に

しているわけではない。

アナウンサーはある情報を伝えたり

言語未然のものを共有したり

するために言葉を用いるし、

小説家は描きたい世界があって

それを表現するために言葉を用いる。

一番言葉に近そうな詩人といえど、

旋律や体系のなかで言葉を用いて

芸術を表現する側面がある。

そう考えると、言葉の仕事といっても

言葉を用いた仕事であって

言葉を目的とした仕事ではないのかも…

という気がしてくる。

言語学者くらいだろうか?

ではその他大勢の私たちは、いかに

言葉と向き合えばよいのだろう。

 

 

 

言葉の拡がっていく傾向性を思うと

重ねるほど豊かなことだと考えてしまう。

だが、ことばの方はその奥にある。

いわば言葉の源泉だ。

辿り着こうと研ぎ澄ましていく

過程でこそ、近づけるのではないか。

そして、その過程で瞬間瞬間の感動を

捉えて言葉にし、自らに手繰り寄せ

せかいを拓く。それこそが、「生きる」

ことではなかったか?

(言葉における豊かさの構造は、

物質的・精神的なそれと同じだと感じる)

 

言語の意味でいえば言葉は″用いられる″。

けれども、その根底には「ことば」が

ある。なきゃいけないと思う。

言葉を用いて「ことば」を展開し、

そしてせかいを拓いていくこと。

それが言葉を持つ人間が、自らの

虚しさを癒す唯一の道ではなかろうか。

 

 

 

 思うに、言葉はもっと多様だ。

「ことば」は言語というかたちに

収まるものではないから。

言語で捉えようとして取りこぼす時、

それを受け止めようと言葉を尽くす。

その意味での言葉は、人間だけに

留まらずすべての存在者へ通じている。

存在者が「ことば」へ迫るための回路。

ことばへ迫る圧倒的な戦いこそが、

他の存在者を揺るがす感動になりうるの

ではないかと思う。

 

★★★★★★

生ききる、それはすべての存在者を

存在者たらしめる在り様で、

唯一のしごと。そう思う。

いわゆる幸せと生ききることの

関係性を見いだせず葛藤してきた中で、

現時点で納得できるかたちは

「幸せは権利、生ききることは意義」

 というもの。

=でも>でも∪でもない。

そういうかたちで分かりやすくするには

割りきらなくてはならないけど、

そのなかで取りこぼすことにこそ

言葉を尽くしたいから。

 

割りきらないで矛盾のまんま

引き裂かれていたい。死にたいまま

生ききりたい私の在り様そのものだ。

 

 

言葉の力とはなんぞ

こんばんは、ぴーやまです。

 

「心持ちひとつでどうにでもなる」

そんな話を切々とされ、ちょっと

ひっかかりを覚えた。報連相の

技術や立場ごとの意識、声のだし方

なんかは確かに省みる機会としては

有効だろう。けれども実際

一社会人として仕事をしていれば

ある程度体得していくもんだし、

体得できない人は無自覚だから

言われたところで響かないのだ。

だから、わからず屋はわからず屋で、

不機嫌は不機嫌なのだ。

 

振る舞いの詳細や気持ちを考察して、

暴いてみせて、いったい誰に届くのか?

体得してる人はとうに知ったうえで

ネタにする以上は突っ込まず

距離を保っているわけだし、

当人は自覚がないからそうなのだし、

あるいは自覚があっても上手くできない

障壁があるわけで。

 

「言葉の力」って銘打つなら

自分のことばで語ってくれよ。

仕事の時間を割いているのだ、

講師の費用も払っているのだ。

おべんちゃら聞くために

集まっている訳じゃない。

「ほんと、そっすよね」は

上司らだけで十分である。

全部どっかで聞いたことのある、

耳障りのいいことばばかり。

発した側からツルッと抜けていくのは、

聞いている側の「心持ち」のせいでは

ないぞ。プライベートで

安直なポジティブ思考でもって

気にしないのは勝手だが、

仕事なのだからフィードバックしようじゃ

ないか。それが建設的ってものだろう。

何を言われても動じないことを

プロ意識と勘違いしてもらっちゃ困る。

聞いたふりして受け流すのが

コミュニケーション?

どうせ虚しい私たちなのに、

どこまで淋しくなるんだろう。

受け流されたときの渇いた痛みを

思い返さずにいられるんだろう。

 

 言葉は力だと思うからこそ、

よく練らずにきれいに並べようと

するのが気にくわない。

人間関係なんて全然イライラしないよ、

そっちのがよっぽどイライラする。

言葉に失礼だ。言葉に対する

不遜な態度だ。

 

響かない言葉なんて

揺さぶられない言葉なんて

力のない言葉なんて

 

お前が 歯軋りしながら

ギリギリのところでつかみとった

言葉じゃなくちゃ、

自分自身がうち震えた言葉じゃなくちゃ

 

 

 

叫びたい、うわぁあああって

叫びたい。これは、怒りだ。

もはや講師なんてどうでもよくって、

言葉に対する渇きであって

祈りのような懇願であって

とにかく煮えたぎっている。

言語としての言葉と言語未然の言葉が

るつぼのなかで何かを生みだそうと

して苦しい。あぁよいよい。

 

 

 

 

 

 

プリズム

 

たったひとつを探してる

 

あのしゃぼん玉や飛ばした

くつの軌跡やしぼんでいく朝顔。

凛とした新年のにおいと

コバルトに光る足跡、

淋しく連なる裸の木立。

 

どこかに万物共通のそれが

あるような気がしてる

黙々生きる誰かが、ノートに

走り書きしていてもおかしくない

ドレッシングの配分のわきとかに

さららと。

 

どこかで見いだされているのに、

誰でもたどり着けるのに、

もうすぐそこにあるのに

 

そんな予感でいっぱいなのに

もつれているのは何故か

 

 

吸い込んで思わずにやける

朝焼け、目を閉じる

残像に探しても追うほど遠ざかる

すべての感動が万華鏡のように

瞬間瞬間を飾る

 

プリズムは終わらない

くるくる笑うように廻りつづける

 

 

 

「生活」に迷う時、本当に対峙すべきこと

こんばんは、ぴーやまです。

今日は「迷い」について!

 

 

人生は選択の連続だとかいうけど、

じゃあその選択の基準って何なの?

連続していった先には何があるの?

ってところはあまり語られない。

 

いや語られてはいるんだけど、

あまりに軽い。ことばを持つ

一握りの先人らの肩にずけずけと乗り、

そのことばを漂白してデコって

額にいれて飾ってるみたいな感じ。

そんなぺらっぺらなものを

どれだけ垂れ流したって、そいつの

ことばじゃないわけで。まして、

他人のことばを盾にしてやいのやいのと

お祭り騒ぎしてるだけなのに

深刻な顔で「生活」を憂うなんて。

冒涜だとすら思う。

 

 

 話がそれた。

人生において選択を迫られるとき

「生活」と「生きる」を天秤にかけて

迷うんなら、その「生きる」は

自分にとって一等の熱じゃなく、

引き合いに出される「生活」は

芯から望むかたちではない

ということ。

 


 生活は、会社や結婚や子供や趣味。

 生きるは、生活を貫く芯。熱そのもの。

「生きる」なしの「生活」は

主役不在の誕生パーティーみたいなもんだ。

みんなおだやかに笑いあい、

豊かさを享受しているつもりでいて

なんのために集まったのかすっぽり

抜けていることをごまかしている。

(正確に言えばごまかしている自覚は

ないからこそ、生活といきるを天秤に

かけられるわけだけど。)

さも、みんなで微笑みあうことが

最初から目的だったかのように。

 

 「生きる」にこだわったり、

語ったりすることにたいし、

「生活」を持ち出して諭す人の

話は聞くもんじゃない。

「生きる」ことを見いだすとき、

その熱のなかにあって「生活」は

二の次だとわかる。その声に従うことだ。天秤にかけられるもんじゃない。

逆に言えば、天秤にかけられるなら

それは本物の熱源じゃないのかも?と

立ち止まってみた方がいい。

掘り下げてみたら

今ここから逃げたいためだったり、

馴染めない自分を正当化するため

だったり…

見なかった方がよかったと思っても、

開けちゃったもんは仕方ないよなぁ。

そしてそれでいい。



「生活」に迷った時、「生活②」

 「生活③」と選択肢を増やすことは

有効だろう

でも真に有効なものにするには、

「生きる」という芯が

燃えていなくちゃならない。

(あるいは選択肢が燃える方向)

そうじゃなければどんな「生活②」も

「生活③」もただの選択肢だ。

多くても少なくても、何を選んでも

それは結局「生活」だ。


わたしは、「生活」のなかで

「生きる」がうやむやにされ

そのまま凍んでいくことが

堪えられない。

その熱がわたしにとり、「生活」を

貫く「生きる」だと感じる。

だから、自分一人だけそうしていれば

いいだなんて思えない。

すべての存在者が「生きる」へ

向かい、各々のことばで「せかい」を

拓く。そんなせかいを見たい。

せかいとせかいで語り合いたい。

生活を越え、生きるを語り合いたい。

だから、そこにこだわっていたい。



「生活」に迷った時は、

「生きる」と対峙することだ。