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模範解答はいらない、自分の答えを導く方程式

座右の銘こそ自分のことばで

 

こんにちは、ぴーやまです。

今日は「座右の銘」について!

 

座右の銘を聞かれたとき、

自戒のことばとして大事にしている

フレーズを答えるようにしている。

そのたびに、「誰の言葉?」と

聞かれるのが長年ひっかかってきた。

それはもちろん、「座右の銘は

誰かの言葉(有名人や歴史的人物)だろう」

という前提にたいするひっかかりだ。

 

何故誰かの言葉が座右の銘に

なり得るのだろう?

究極の場面(選択といってもいい)

ギリギリのところで一手を打つとき、

自分を貫くことばが力になる。

そのことばを他人が見出だしたもので

納得しているとは何事か。

確かにすぐ見いだせるものでは

ないから、若い時分は他人のことばを

「借りる」ことはあるだろう。

しかしそのなかで生ずる違和感や

収まらないほとばしりを追っていけば、

自分のことばを見いださずにはいられなく

なるのではないかと思う。

(他人のことばに振動することはあっても、

自分を貫くことばがまったく同じでは

有り得ない。存在者の多様性を考えれば

自明だ)

 

そして、そのことばでもって

「せかい」と対峙していく。

だから自分のことばには責任を

感じるし、存在者の仕事道具として

常に研いでいなければならないと思う。

 

 

最近、政治家や著名人の失言問題が

取りざたされているが、なんのことはない。

ことばに対する責任感がないのだ。

単に価値観の話ではない。

誰かのことばで論じようとするから

思わぬ方向へ飛躍してしまう。

だから反省すべきは言葉じゃなく、

自らの貧しいことばの方だろう。